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第3話 殿
目の前を歩く人物は、城内を迷うことなく進んでいく。さらさらと袴が擦れる音と、微かな規則正しい足音以外は何も聞こえない。
(この人は何者なんだ)
先ほどの口調とこの身なりから察するに、城内でも位が高いように思えた。ただ者でないことだけは確かだ。
気配や音に敏感な菊正が、完全に背後を取られた。それだけで、この人物に対する警戒度は、最高レベルにまで引き上げられた。
警戒を緩めないまま、菊正は彼の後をついていく。
「この部屋で待っていろ」
たどり着いたのは、客間のような部屋だった。
「私は身支度がある故、失礼する。では」
返事を待つこともなく、彼は一方的に別れの挨拶を済ませると、音も立てずに去っていった。
(迷子になってしまった以上、待つ以外に選択肢はない、か……)
菊正は客間を見渡した。
部屋の角に掛け軸があった。
薄い桃色の桜に、ところどころ金色の刺繍糸で縁取りが施されている。おしとやかな印象ながらも豪華さを感じた。
美桜国に来たのだと、今さらながら実感が湧いた。
先ほど桜を見たとき、なぜここが美桜と呼ばれているのか納得した。あれほどまでに美しい桜を咲かせている国は、きっとここ以外にはあるまい。
ほどなくして、客間の戸が開いた。
三十代前後と見える男が立っている。
「菊正か」
「そうです」
「ついてこい。お主を部屋まで案内する」
案内されたのは、主君の居室にほど近い一角だった。
「ここが、これからお主が暮らす部屋だ」
四畳ほどの空間に、寝具と机だけが置かれていた。菊正はさりげなく背後へ目を向けた。
廊下を挟んだ向こう側にある襖。そこには緻密な絵が描かれており、一目見るだけで特別な部屋だとわかる。
(桜都の寝床……)
家臣の部屋は、主君の寝床に隣接していることが多い。夜中や早朝に呼び出されても、すぐ駆けつけられるようにするためだ。
「この後、殿の身支度が済んだら顔合わせをしていただく。また呼びに来るゆえ、それまでしばし待たれよ。何か質問はあるか」
「一点、いいでしょうか?」
「なんだ」
「他の家臣たちはどちらにおられるのでしょうか?ここに来る道中、彼らの姿を一度も見ませんでした」
「それは……」
男は言葉を詰まらせた。
視線を外し、迷うように瞬きを数回繰り返す。
「……殿は、とても心優しいお方だ」
少し時間を置き、男は静かに口を開いた。
「ご自身が父君を亡くされたというのに、私たちの身を案じ、しばらくの休暇を与えてくださった。ほとんどのものは実家へ一時帰っている。それゆえ、城内には通常より人が少ない」
(さっき城下町で聞いた話と、ずいぶん印象が違う……)
菊正は違和感を覚えながらも、話に耳を傾けた。男はひと息置くと、「だからこそ」と続けた。
「だからこそ、お主が呼ばれた。人手が足りない今、殿の公務はいつも以上に多い。信頼している者からお主の推薦状が送られてきたため、これほど早く話が進んだのだ」
勝日部からもらった桜都の情報には、先代の長子で、武術・指揮・戦略いずれも凡庸と明記されていた。だが、家臣に「心優しい」とまで言わせる人物なのなら、人間性だけはいいのかもしれない。
「殿がお呼びだ。部屋に入れ」
「はい」
菊正は襖の前で正座をした。
ふぅ、と一つ息を吐く。
「……殿、菊正でございます」
一拍置いて「入れ」という声が聞こえてくる。
想像より若い声に聞こえる。襖越しのせいで少し声がくぐもっていたので確証はない。
できる限り音を立てないよう、慎重に襖へ手をかける。
部屋の中は、思ったより簡素な作りだった。勝日部の部屋は金色をふんだんにあしらった豪華絢爛な造りなので、同じような内装を想像していた。
だが。
そのかわりに、圧倒的な光が部屋の真ん中から放たれていた。
刀でも、服の話でもない。
その人物が持つ圧倒的なオーラ、風格が光を放っている。
そしてその顔を見た瞬間。雷に撃たれたように、全身に痺れが走った。
足が前に出ない、手が動かせない、呼吸ができない。
時間が、止まった。
「私は美桜国頭首、桜都だ。会うのは……さっきぶりだな」
そこにいたのは、桜の庭で出会った美しい男だった。
「あ、あなたが、殿……」
「ふっ。その顔、滑稽だな」
桜都がわずかに口角を上げた。
菊正は自分が笑われていることなど、考える余裕もなかった。
(聞いていた話と全く違う)
自分の中に思い描いていた桜都像が、欠片となって崩れていく。ばらばらになった中から現れたのは、圧倒的な光を放つ本物の桜都。
先代は七十歳を超えていた。その息子たちも、三十から四十代と聞いている。二十歳前後の男がなるなど、ありえない。事前に教えられていた情報と、何もかもが異なる。
(この人が、今から僕の主……)
悪い夢であってほしいと願わずにはいられなかった。菊正にとって主というのは、圧倒的な権力であり、逆らうことは許されない絶対服従の対象。こんなに美しく、儚い存在は主ではない。
いや、この人は菊正の主にはなりえない。
なぜなら、菊正の任務は桜都を暗殺することだから。
「菊正、これからお前は私のものだ。私の手となり足となり、私に忠誠を誓え。よいな?」
ごくり、と唾を飲む。
勝日部に仕えた八年の間、数々の任務をこなしてきた。時には命が危うくなることもあった。しかし敵の本丸で、しかも標的がこの相手だなんて、こんなにも難易度の高い任務は、後にも先にもこれが最後だろう。
覚悟を決めた菊正は、しっかりと桜都の瞳を見た。何を考えているのか読めない、吸い込まれそうな色。だが、飲まれるわけにはいかない。己には果たさなくてはいけない使命がある。
「殿の、御心のままに」
桜都は満足げに少し頷くと、身をひるがえした。
「では公務がある故、失礼する。あぁ、一つ言い忘れていた」
振り返った桜都の顔は、庭で見た桜のように春が閉じ込められて、そこだけ時間が止まっているかのようだった。
────ようこそ、美桜へ。
今まで見たどんなものより美しく、儚い姿がそこにはあった。
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