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第4話 家臣の仕事

家臣の朝は早い。 夜の静けさがまだ残る寅の刻に起床し、主を起こす。湯を張り、歯磨きの支度を整え、朝餉を運ぶ。武術の稽古中は刀の支度を整え、汗を拭う布を用意し、合間に水を差し出す。公務の間は静かに控え、呼ばれれば即座に応じる。 主に付き添い、支える。 それが家臣の仕事だ。 しかし、美桜に来て早一週間。 菊正は桜都がいかに型破りな主君であるかを身をもって経験していた。 服を着替える時に手を貸せば「触るな」。 汗を拭こうとしても「自分でやる」。 身の回りのことは全て自分でやる、という態度だった。こちらの仕事が奪われているようで、毎日戸惑いを覚える。 それだけではない。 公務や剣術の稽古での姿を通して、桜都がいかに優れた人物であるかも思い知らされた。無駄のない的確な指示、冷たい口調ながらも突き放してはいない距離感。城下町で聞いた話とは全く異なっていた。 そして、圧倒的な剣術の才。 最小限の予備動作で敵の急所をめがけて刀を振るう姿は、目が離せなかった。 細い腕が身長ほどの長さのある刀を軽々と操り、足は舞うように地面を踏む。長い髪が弧を描いて宙になびき、踊り子が舞っているかのようだ。 若く美しく、才色兼備な桜都。 そんな彼を見れば、各国の頭首が対抗心を剥き出しにするに違いない。ただでさえ、先代を失い立て直しを図っている今、敵に攻められるわけにはいかなかった。 しかし、これこそが勝日部の望みであった。 菊正という寄生虫を体内に住まわせ、弱ったところを一気に奇襲する。この作戦がうまくいくためにも、内部で情報を集め、報告し、来たる日に向け万全を期す。それが、菊正の使命だ。 「菊正殿、夕餉を部屋まで運びましょう」 声をかけてきたのは、三つ年下の同僚、壬芽(みと)だった。まだあどけなさの残る顔に似合わず、仕事が生きがいとでも言わんばかりの働き者だ。 桜都の世話をする家臣は菊正、壬芽を含めざっと二十人ほど。だが、そのうちの半数が帰省中のため、一人あたりの負担は倍近かった。それでも、誰もが容姿端麗、頭脳明晰で教養もあり、城内の基準は高い。 「そういえば、菊正殿は本当によく目立ちますね」 壬芽(みと)がお膳を持ち上げながら言った。 「そ、そうかな?」 菊正もお膳を手に持ち、壬芽(みと)の後に続いて廊下を歩く。 「そうですよ。特にその髪色。先ほども廊下ですれ違った女中たちが振り返ってましたよ」 「あははは……」 菊正は苦笑いを浮かべながら、視界に映った自身の髪に目をやった。 この地域では珍しい、色素の薄い髪色。遠方の国の血が半分混じっているためだった。 だが、見た目のおかげで得したこともあれば、厄介ごとに巻き込まれたことも少なくない。 (ここでは、なにも起きないといいけど) 菊正はそう思いながら、ふと桜都の姿が頭に浮かんだ。 女と見間違うようなきめの細かい肌に、紅を差したように艶やかな唇。そして、絹のように滑らかな髪。 (彼もそうだったのかな……) そんな考えがよぎったところで、現実に引き戻されるように、壬芽(みと)の声がかかった。 「殿、夕餉の準備が整いました」 「うん。ご苦労様」 「本日は白米、鰹出汁の味噌汁、鯛、玉子焼きでございます」 替えの利かない主君という立場上、食事も栄養の偏りがないよう、細かく管理されている。 桜都は箸を手に取り、ゆったりとした動きで米を口に運んだ。規則正しい咀嚼のたびに、形のよい喉仏が僅かに上下する。菊正は思わず視線を逸らした。 「今日、お忍びで城外に出たんだが、そこで商人からこれをもらった」 桜都は袖に手を入れ、お香袋のような小さい袋を取り出した。口を開けると、中からきらきらと光る粒が現れる。 金平糖だ。 「普段なら素性もわからぬ者から食べ物などもらわないのだが……近ごろ菓子を口にしていないのでな。もらってきた」 「も、もらってきたって……殿、早く捨ててください。毒かもしれない」 「こういう時のためにお前がいるのだろう、菊正」 至極当たり前のように言い放ち、視線をこちらに向けてくる。 「……毒見をしろと?」 「もちろんだろう?」 変わることのない表情からは、なにも感情が読み取れなかった。だが、その全てを吸い込むような黒い瞳から、わずかに疑念の色が見えた。 (僕の忠誠心がどれほどのものであるか、試しているのだろうな) 菊正は覚悟を決めると、袋の中から無造作に三粒掴み、口に放り込んだ。様子を窺うように、桜都がじっとこちらを見つめている。 瞬間、わかった。 わずかな苦味と金属っぽさのある後味。毒だ。 しかし、ここで吐き出すわけにはいかなかった。もし吐き出してしまえば、彼からの信頼を勝ち得ない。そう反射的に悟った菊正は、そのまま奥歯で金平糖に似た何かを噛み砕き、飲み込んだ。 「……殿は、食べないでください」 「そうか、残念だ。今日は久しぶりに菓子が食べられると思っていたのに」 桜都はつまらなそうに残りの袋を家臣へ渡した。 「処分しておけ」 「かしこまりました」 しばらくして、体に違和感が出始めた。 口の中が急激に渇き、胃はぎゅっと握られているようにズキズキと痛む。指先も微かに震えていた。 「大丈夫か?」 顔を上げると、桜都が冷たい瞳でこちらを見ていた。心配しているのかいないのか、気持ちが読めない。 「は、はい……いえ、やはり先ほどの金平糖のせいで……体に違和感が」 「富司成(ふじなり)、今すぐ薬を持ってこい」 指示を出した相手は、富司成という典医だった。 「い、いえっ、薬を頂くほどでは」 「毒は、時間が経つにつれ体中に回る。そうすれば今以上の症状が出るやもしれぬ。その前に薬を飲め」 桜都の言い分はごもっともだった。 眩暈、少しの吐き気、手の震えなど、すでに先ほどよりも毒の特徴が顕著に出ていた。これ以上放っておくのは危険だった。 富司成はすぐさま薬を運んできた。 菊正は煎じ薬を一口で飲み干すと、ふうと安堵の息を漏らした。 「ここの典医は仕事が早いのですね。こんなにもすぐ薬が運ばれてくるとは驚きです」 「すぐ対処ができてこその典医だ。住み込みでいるのだから、これぐらい当たり前だ。ところで菊正。今日はもう床に入れ。症状が悪化しては、明日に障る」 「そうですね、わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」 菊正は桜都の言いつけ通り、自室に戻るなり布団にくるまり横になった。気持ち悪さに耐えながら、どうにかして眠りにつこうと、きつく目をつぶった。 その日の深夜。 襖の戸が、ほとんど音もなく開いた。 その微かな摩擦音に、菊正は目を覚ました。 いつの間にか眠っていたようだ。体の気持ち悪さは、だいぶ薄れている。 (それにしても、こんな時間にいったい誰が) 菊正は相手に悟られぬよう、狸寝入りをきめ込みながら、瞼をうっすらと開けた。 暗闇の中に立っていたのは、桜都だった。 予想外の来客に体が跳ねそうになったが、なんとか目を再び閉じるところまでに抑えた。 桜都は何をするでもなく、ただそこに立っている。普通の者なら、そこに人がいることにも気づかないだろう。 しかし菊正にはわかる。 桜都が、まだそこにいる。 心配して様子を見に来たのか、それとも別の理由があるのか。 無音。 完全なまでの静寂。 どれほどそうしていたか。 寝返りを打ちたい衝動に耐え切れず、わずかに体を動かした瞬間、人の気配が消えた。 次に目を開けたときには、襖の戸はしっかりと閉まっていた。

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