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第5話 もう一人の桜都

その日も、菊正はいつものように桜都の傍らで公務に当たっていた。 重要書類に筆を走らせ、桜都が花押を書いたものを右に積む。そうでないものは書物庫へ。もう何枚目かわからない書類に手を伸ばしたとき、襖の向こう側から廊下を蹴る足音が響いてきた。 だんだんと大きくなるその音に、部屋の全員が顔を上げた。乱暴に襖の戸が開く。 「はぁ……っ、はぁ」 飛び込んできた家臣は肩を激しく上下させ、膝に手をついていた。 「公務中だぞ。礼儀をわきまえろ」 静かな叱責の声が飛ぶ。 しかし次の瞬間、その言葉を遮るように飛び出した一言が、部屋の空気を一変させた。 「殿っ!お助けください……ッ!」 一刻を争うほど焦った声にも、桜都は一切の動揺を見せなかった。優美な動作で筆を置き、顔を上げる。 「話してみろ」 「城門で、商人たちが暴れております!現在、あの方が対応されておりますが、商人たちの怒りは収まりそうになく、このままでは押し切られてしまいます……!」 桜都の目がわずかに細められた。 「私が出る」 その言葉に家臣たちが一斉に立ち上がった。慌てて菊正も立ち上がる。 「お前たち、準備を頼む」 「かしこまりました」 すぐさま部屋を出ていく家臣たち。菊正はとっさに近くにいた壬芽(みと)の腕を掴んだ。 「こ、これからどうしたら……」 「やることはいつもと変わらない。桜都殿を支え、お守りするのです」 「わ、わかった」 城門に着いたとき、状況は想像よりも悪化していた。 数人の商人とおぼしき男たちが家臣たちに掴みかかり、怒号が飛び交っている。家臣たちは必死に押し返しているが、じりじりと押し込まれていた。 そしてその場の中心に、一人の男が立っていた。 深紫の袴に、腕を組んだ姿勢。 一目見て位の高い人物だとわかる。 その顔は不機嫌そうに歪んでおり、友好さは微塵も感じられない。 「そんな下賤な者どもは、さっさと刀で斬ったらどうだ」 菊正の顔がぴくりと動く。 気だるそうな男の声は、火に油を注ぐだけだった。商人たちはさらに形相を変え、男に掴みかからんと身を乗り出す。 「貴様……ッ!我らの話など、最初から聞く気はなかったのだろう!」 「何が桜都殿だ!無能も甚だしい……!」 ────桜都殿。 その呼び名が菊正の耳に刺さった。 「焼け跡など今さらどうにもならん。危険なら近づかなければよいだけだ」 「桜都、貴様……ッ」 商人のうちの一人が遂に防衛線を突破し、集団の奥で腕組みをしている男へ飛びかかろうと手を伸ばした。 (待て。この男も桜都……?) 混乱する菊正の前に、すっと影が差した。 「止めろ」 刹那。 鈴の音のような芯のある声が、空気を切り裂いた。この場にいる全員の動きが止まった。興奮していた商人たちも黙り込み、声の主は誰かと視線を巡らせている。 サク──── 砂を踏む音が静かに響く。 菊正は弾かれたように振り返り、息を呑んだ。 (桜都……殿) だが、桜都はいつもの姿ではなかった。市女笠を深くかぶり、完全に素顔を隠している。 なぜと問う前に、桜都は前に出ていた。 「まずお前たち、ここは城内だ。喧嘩をしたいのなら、外でやれ」 「な……っ!」 冷たくあしらう桜都の言葉に、商人たちは再び口を開けようとする。 「もし」 しかしそれを遮るように桜都の声が響く。 有無を言わせぬ気迫に、商人たちは声を詰まらせた。 「何か要望があるのなら、手ではなく口を使え」 怒声でも威圧でもない。だが、圧倒的な風格と拒否を許さない声に、商人たちは渋々と手を離した。 「……お前は誰だ」 先ほどまで鬼の形相だった商人の一人が、困惑したように口を開いた。 「そこにいる殿に頼んだって相手にされん。お前に言ったところで変わらんだろう」 「私は……この城の顧問といったところだ」 しん、と空気が静まり返る。 桜都は静かに、しかし迷いなく言い切った。 「今後、例の東街道を封鎖し、西の倉を開ける。避難民の名簿も再確認し、仮住居も建てよう」 「……っ!」 商人たちの瞳が大きく見開かれる。 「この城がお主たちの支えになると、私は誓う」 次の瞬間。 商人たちは次々に頭を下げた。中には膝をつく者もいた。 「ありがとうございます……ッ!」 「行け」 桜都はただ一言促す。 彼らは頭を何度も何度も下げながら去っていった。城門が閉じ、菊正はふうと息を吐いた。 直後。 「桜都殿……っ!」 壬芽(みと)の鋭い声が響く。 弾かれたように振り返った瞬間、菊正の体が固まった。 深紫の袴の男────商人から「桜都」と呼ばれていた男が、菊正の知る桜都の胸元を掴んでいた。 その衝撃で市女笠が落ちる。 陽光の下に、桜都の美貌が晒された。しかし、いつもの綺麗な顔が、今は苦しそうに歪んでいた。 「お前ごときが、我が一族の名を名乗るな」 あまりの迫力に、家臣たちも止めに入ろうとした足が一瞬止まった。 「表に出てきたと思えば、この私のやり方に文句か?」 「……文句ではない」 桜都は短く答えた。 「それに、私は家臣たちにずっと復興を指示していた。それを止めていたのは、兄上でしょう」 「ほう。証拠もなく私のせいにするとは、さすが下賤の子だな」 男は汚物を払うように桜都を突き飛ばした。 「殿!」 家臣たちが慌てて桜都を取り囲んだ。 「はっ」 鼻を鳴らし、男は振り返ることなく城内へと歩いて行った。 「殿……っ、大丈夫ですか!?」 咳込む桜都を家臣たちが取り囲んだ。 「大丈夫だ。気にするな」 「典医を今すぐ呼んできます……っ」 「いい。必要ない」 桜都は駆けだそうとした家臣の腕を掴んだ。 「まだ今日の公務が残っている。すぐに取り掛かれ」 「はい……」 桜都は家臣たちに支えられながら、静かに城へ戻っていく。 漆黒の髪が、ゆったりと左右に揺れていた。 その後ろ姿だけが、変わらず凛々しく美しい。 (桜都……あなたは、いったい何者なんだ) * その日の公務が終わり、城がすっかり寝静まった頃。菊正は|壬芽《みと》を人気のない廊下に呼び出した。 「どうしたんですか、菊正殿。もう就寝の時間ですよ」 壬芽(みと)は目をこすり、欠伸を噛み殺した。 「聞きたいことがあるんだ」 菊正の真剣な声色に、壬芽(みと)も何事かと表情を改めた。 「今日、城門にいたあの男は誰だ」 「あの男」と言っただけですぐに合点がいったらしい。壬芽(みと)は答えるべきか否かと逡巡するように、視線を左右に揺らした。 「……あの御方は、桜都殿の兄君です」 「それにしては歳が離れすぎている」 桜都は二十。 あの男はどう見ても四十を超えていた。 「腹違いのご兄弟ですから」 壬芽(みと)は静かに答えた。 「それに……」と菊正は続ける。 「商人たちが彼のことを桜都と呼んでいた。どういうことなんだ」 探るような低い声に、壬芽(みと)は怪訝そうな表情を浮かべた。菊正はこほんとわざとらしく咳払いをする。 「あ、いや。ただ気になっただけだ。自分の仕える殿のことは、知っておきたいから」 少しの間、壬芽(みと)は何かを迷うように口を閉じていた。しばらくして、静かな声が耳に届く。 「……“桜都”は、人の名ではありません」 「どういうことだ」 「美桜国の主君が代々受け継ぐ名です」 菊正ははっと息を呑んだ。 「現状、この国に正式な桜都はいません。先代が亡くなられてからずっと、殿がこの国を支えてきました。正式な主君ではないのに、誰よりも主君らしく」 壬芽の声には、かすかな慈しみが混じっていた。 「じゃあ、なぜ正式な主君を立てない。あれだけの人望があれば……」 「それは」 壬芽の表情が曇る。 「僕の口からは、言えません……とにかく、殿はあまりに多くのことを背負いすぎている。僕はただ、それを助けたいのです」 それだけを言い残すと、壬芽は逃げるように廊下を走って行ってしまう。 「まっ……」 とっさに手を伸ばしたが、虚しく空気を掠めただけだった。 はぁ、と大きくため息をつく。 まだ知りたいことはたくさんあるのに、謎は増えるばかりだ。取り残された菊正は、その背が闇に溶けるのをただ見つめていた。

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