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第1話 序章
Dies ira, dies illa
solvet saclum in favilla
teste David cum Sibylla
(怒りの日、その日は、ダビデとシビラの予言の通り世界が灰燼 に帰す日)
男が唐突にレクイエムの「怒りの日」の章を歌い出した。
『人生とは理不尽なものだとは思わないか』
今度は突拍子もなく仁 に問いかける。何度も聞かされた男の人生論だ。
『息を吸うごとに死に向かっている現実から目を背け、、怒りや苦しみに耐え忍びそれでも生きることに執着する。時にご褒美のような至福の時を与えられ一瞬は辛さを忘れるが――』
Quantus tremor est futurus
quando judex est venturus
cuncta stricte discussurus
(審判者があらわれて、すべてが厳しく裁かれるとき、その恐ろしさはどれほどでしょう)
良く響くバリトンで続きを歌う。男の美しい声と、ラテン語の響きに意に反して仁は陶酔してしまう。
『しかし深い悲しみや怒りに満ちた苦しみからはなかなか逃れられないものだ。そうだろう? お前はそれをよく知っているはずだ。教えてくれないか。死ねば本当に解放されるのか?』
何度も男は同じ質問を繰り返し、レクイエムを口ずさむ。最後にこの会話をしてどれくらい経っただろう――と、思い出そうとした。半年か、それとももっとだろうか?
憎しみの対象である男との会話は回数を重ねるごとに仁を翻弄した。死ねば怒りや憎しみから解放されるのか本当に知りたいのは自分の方だ。この男のせいで失ったものは大きい。
偽りの人生を生きていることから逃げることは出来ない――この男がいる限り。この男のせいなのだと憎悪に支配され、自分以上の苦痛を味わわせてやりたくなる。憎しみが強くなればなるほど男にとり憑かれ、復讐の炎を燃やした。
その男の魂の火が消えかかっていると知った今、焦燥に襲われ、得も言われぬ恐怖に囚われている。
恐怖など、ずっと感じていなかった。その存在すら忘れていた。あの男の死を望んでいながら、願っていたその時に直面した今、狂喜乱舞していいはずなのに、恐怖心に囚われている。 不可解な己の心を持て余しながら仁はスマホを握りしめ思案していた。
ただ電話を入れればいい。
それだけで、もう終わることが出来る。
偽りだらけのこの人生から。そしてリセットするチャンスを掴める。
指先が反応した。短縮番号「5」を力むあまり無意識のうちに押していた。
言葉はいらない。仁が電話をしたことで計画は実行される。
スマホの画面を呆然と見つめていた瞼をゆっくりと閉じた。
『息を吸うごとに死に向かっている現実から目を背け、、怒りや苦しみに耐え忍びそれでも生きることに執着する。時にご褒美のような至福の時を与えられ一瞬は辛さを忘れるが――深い悲しみや怒りに満ちた苦しみからはなかなか逃れられないものだ』
まるで本当に傍にいるかのようにあの男の低く甘い声が耳元で悪魔の言葉を囁く。
レクイエムを歌う男の声が脳裏からなかなか消えてはくれなかった。
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