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【1部】第1話 黎明事変

 今日の晩ご飯はグラタンだってお母さんが朝に言っていた。それだけが今日の楽しみだった。  六時間目が終わるとすぐに帰りの会が始まり、意識は家の方へとひと足先に向かってしまう。先生の声を遠くで聞いているような感覚で窓の外を見ていると、いつのまにか「起立、さようなら」と号令が響き、それが意識の目覚ましとなる。みんなよりワンテンポ遅く号令をすると、友達が席までやってきて一緒に教室を出る。  桜が散って、道路の脇にある細い木々は緑で生い茂っている。夕暮れが反射すると体を橙色が優しく包んでくれて、あたたかかった。友達と三人でいつもの帰り道を歩きながらゲームの話をする。ぽんぽんとリフティングをするように蹴っ飛ばしている体操着用の大きな巾着袋はお母さんが作ってくれた。『西垣 洸』とアイロンワッペンに書いてくれたのもお母さんだった。間接的にお母さんのことを思い出すと、それと一緒に晩ご飯のグラタンのことも思い出して、足取りが軽くなる。  互いの家に繋がる分岐点に立つと、友達が大きく手を振ってくれる。 「コウも帰ったらゲームやろうね」 「うん」  返事をしてから数メートル進む。友達はまだ後ろにいるかなと振り返ってみると、立ち止まってニコニコとこっちを見ていた。「じゃあね」と叫ぶと、「あとでね」と返ってきて、ようやくそれぞれの道を歩き出した。  友達とさよならをすると、頭の中はゲームのことよりもグラタンとお母さんのことでいっぱいになる。今日はお父さんも休みだから、三人でご飯が食べられる。  一年くらい前、しばらくじいちゃんの家に預けられていたことがあった。家に戻ってくると、二人はいつも自分の見えないところで喧嘩をしていた。リビングに入ると、二人はそれを隠して、ぎこちなく笑う。  そんな出来事がまるで元からなかったかのようになる瞬間が、三人での夜ご飯の時間だった。お母さんが学校のことを聞いてきて、自分がお話をすると、お父さんが笑ってくれる。まるで昔に戻れたみたいで、大好きな時間だった。  二階建ての我が家が見えてくると、歩調は速くなって、いつしか走り出していた。  無意識で浮かべた笑顔のまま、「ただいま」と大きな声で叫んで玄関を開けると、知らない靴が目に入る。少し汚れた白い運動靴で、自分より少し大きい。だけど、多分子供の靴だった。  誰だろう、そう思いながらリビングに繋がる廊下を歩くと、ふわりと変な匂いがした。鉄棒で遊んだ時に手につく匂いに似てる。だけど、匂いの強さは何倍もある。何かが変だった。グラタンを焼いている匂いが全然しない。  違和感を抱きながらリビングに入ると、ダイニングチェアに知らない人が座っていた。テーブルに向かい合うのではなく、横を向いて地面に落ちているものを無表情で見下ろしている少年は近所にある中学校の学ランを着ていて、顔を真っ赤に染めていた。  地面に転がっているのがなんなのか、すぐには理解できなかった。視界に刺さるような赤色は、まるで現実味がなくて、ゲームの中みたいだった。  ぼんやり立ち尽くしていると、少年が横目でこっちを見て、立ち上がった。手に持っている包丁は、お母さんがよく料理をする時に使っているもの。 「おかえり」  にこりと笑う顔は、綺麗なのに酷く冷たくて、笑っているように思えなかった。その瞬間に理解する。  ──お母さんとお父さん、この人に殺されちゃった。  後ろに横たわる母親と父親を見てから、頭ひとつ分高い少年を見上げる。  ──おれも殺されるんだ。  少年の手に握られた包丁をぼんやりと見つめて、食べ損ねたグラタンとお母さんとお父さんに話そうとした今日の出来事を頭の中で考える。グラタンはもう食べれないけど、あとで会えたらいっぱいお話をしよう。  包丁が振り上げられると、きっとそれは自分の頭を突き刺すんだろうと予想した。けれど、それはまた少年の横にぶら下がって、数秒後にストンと床に突き刺さった。  少年は無表情のままリビングを抜け、廊下を通り過ぎて玄関を出ていった。その後ろ姿を追いかけようとして玄関で立ち止まる。追いかけたらダメな気がして、リビングに引き返した。 「お母さん、お父さん」  呼んでも、返事はなかった。  後になって知った。  さっきの人は、お父さんが車で撥ねてしまった児童の兄だった。 ***  唯一の肉親だったじいちゃんが亡くなって、ちょうど五年が経った。高校を卒業する前に亡くなり、それからは一人で生きている。  ろくに勉強もせず、夢もなく、抜け殻のように生きてきたけれど、じいちゃんに「飯だけはしっかり食べろ」と言われ続けたから、自分は今日ものうのうと生きている。  高校時代から続けている、フランチャイズではない自営業のカラオケ屋のアルバイトで食い繋いでいる日々は決して裕福とは言えないが、人並み以下の欲望しか持ち出せていない自分にはちょうど良かった。 「コウくん、もう上がりでしょ?」  店長に呼ばれて腕時計を見ていると、短く柔い癖っ毛を雑に撫で回される。あとは任せろとウインクする店長の顔をチラリと見て、すぐさま目を逸らす。頭の上にある大きな手を払い除け、冷たい会釈で返してからエプロンを脱いだ。  二十二時の退勤時間を迎え、打刻を済ませる。夜風に溶け込む冷たい空気を吸いこみながら、最寄りのスーパーマーケットで今日と明日の分の買い出しを済ませる。鰆が安くて嬉しかった。どんなふうに調理をしようか考えながら、両手にエコバッグを持って帰路につく。  エレベーターのない自宅アパートは鉄階段を踏み締めて登るしかなかった。荷物の重さと立ち仕事ゆえの疲労で膝にくる。それを乗り越えて懐から鍵を取り出し、ようやく玄関に辿り着いた。十畳のワンルームには必要最低限の物しか置いていない。  調理台にドンと荷物を置き、上着を脱ぎ捨て、投げやりにソファに座る。特に見たい番組はないが、無音に耐えられず部屋にいる時はテレビをつける習慣があった。じんわりと倦怠感が襲うと、危機感も一緒に芽生える。このままだと立つことができなくなる。  エコバッグをダイニングテーブルに移動させ、近くにある冷蔵庫に次々と入れていく。  一つ目のエコバッグを片し終わった時。ふと、鉄階段を登る音がして、鍵を閉め忘れたことを思い出す。とりあえず、食材を全部入れてからでいいかと作業を続けていると、その間にも足音が近づいて、突然玄関扉が開かれた。  玄関先を見ると、背の高い男がニコニコと笑いながら立っていた。その姿を見た途端、手に持っていた未開封の牛乳パックがすり抜け、床に落ちると角が凹んだ。 「コウくん久しぶり」  この男の笑顔を見ていると、忘れたい赤色が鮮明によみがえる。  学ラン姿だった少年が、今では立派な青年へと成長を遂げていた。当時小学生だった自分と中学生だった彼だが、身長差は依然として開いたままだった。  無表情で青年を見ていると、あの日と重なって、青年の手元に釘付けになる。  ──銃と、包丁。  青年は、土足のまま部屋に踏み込んできた。 「死ぬなら、どっちで死にたい?」  風の噂で聞いた。母さんと父さんを殺した少年が、少年院を出たあと指定暴力団の構成員になったこと。そして、この青年の身内が世間の批判に耐えかねて一家心中をしたこと。これは彼なりの報復だった。  何も言わず、畏怖の念すら抱かずに幽霊のように立ち尽くしていると、銃口を額にあてがわれる。 「君、ほんとに変わんないね」  ──殺すなら早く殺せばいいのに。  あの日、母さんと父さんと一緒に自分の心は地獄へと連れて行かれ、皮肉にも身体だけが現世に取り残されたような感覚で生きてきた。早く、身体も還るべき場所に還してほしいと願っていたが、じいちゃんの「ちゃんと飯を食え」という言葉が足枷になって、この世界にとどまる理由になっている。  けど、ようやくこれで正当に終われる。  早く殺せと瞳で訴えかけると、おあずけをするように銃口が離れていく。 「ほんと、あの時と全部一緒……君って命乞いとかできないの?」 「命乞いって、どうやってするの」  淡々と問いかけると、青年が噴き出して笑った。その反応が不思議で、重ねて馬鹿正直に問いかける。 「なにが面白い?」 「いや、面白いよ。本当に面白い」  青年はひとしきり笑うと、包丁を投げ捨てた。次に距離を詰めてきて真上から覗き込まれると、銃が喉仏にあてがわれ、スライド部分で顎を上向かされる。 「君の母親もさ、僕が包丁向けても無表情だった。普通、叫んだり取り乱したりするだろ。なのに平然として、『早く殺せ』って顔でこっち見るんだよ。君、お母さんにそっくりだね。顔立ちも、性格も、全部」  母さんに似ているということは、母さんを知る人みんなによく言われていた。 「その顔を歪ませるには何をすればいい? 君はきっと、暴力にも屈しないんだろう」  細められた目は不気味な笑みで歪んでいて、あの時と同じように冷たく四肢に絡みついてくる。  ──いつまで付き合わなきゃいけないんだろう。  ため息をついて銃口を握り、引き剥がす。 「目的があってここに来たんじゃないの。決断できないなら出直せ」  言うと、青年がキョトンとしてからやれやれと笑い、銃を後ろポケットにしまった。 「君って、ほんとにムカつく」  独りごちる青年を無視して、床に落ちた牛乳を拾おうとした時、突然胸ぐらを掴まれて壁に叩きつけられた。 「ほんとにムカつくから、ぶち犯す」  ──何を言われているんだろう。  理解する前に、エコバッグの置かれたダイニングテーブルに身体を乱暴にぶつけられ、押さえつけられる。その拍子にエコバッグが雪崩れて玉ねぎがはみ出した。コロコロと床に落ちたそれが合図となって、次々と中にあった丸い形状の食材たちが床にこぼれ落ちていった。  ベルトを外され、ボトムスをずり下ろされる。ぶち犯すって、そういうことか。  コウは抵抗することもなく、テーブルの上でぼんやりとしていた。すると、冷たいものを臀部にかけられる。ぬるぬるとしたテクスチャから察するに、潤滑剤。 「……用意周到」  呟くと、青年が「あはは」と笑った。 「最初から犯すつもりでいたからね」  ぐに、と指が侵入してきて、異物感に気持ち悪さを抱く。ぐちゅぐちゅと音が聞こえてくると、すでに蹂躙が始まっていることを自覚せざるを得なかった。 「ボコボコに殴られたり、滅多刺しにされるより、男としての尊厳奪われる方が君には堪えるんじゃないかなって思ったんだけど……どうかな」  答えずに、奥歯を噛みながら耐え忍んでいると、敏感なところを撫でられる。膝がガクリと跳ねると、机に押さえつける腕に力を込められる。 「こんなので気持ち良くなっちゃうなんて、卑しい子」  語尾には小馬鹿にしたような笑みが含まれている。  子、なんて言われる年齢じゃないのに。だけど体は高校二年頃から成長をやめ、二十三歳になろうとしている今でも高校生と勘違いされる。それに反して、背後にいる青年は当時からすでに背が高く、あの後もすくすくと成長したのだろう。体格にも恵まれ、身体を押さえつける力もかなり強く、生物学的に勝ち目がなかった。  指を増やされ、内臓を掻き回されながら下半身をガクガクと揺らしている自分は、かなり滑稽なんだろう。生理的な涙をこぼしながら、眉根を寄せ、ぎこちない呼吸を繰り返していると、背後で嗜虐心に溺れるようなゾッとする気配を感じ取る。  ずるりと指を引き抜かれると、押さえつける腕が離れる。ビニールを千切るような音がしてしばらくすると、ゴム越しに伝わる熱く滾った青年のものが中に入ろうと、ぬちっ、と音を立てる。  心臓が強く拍動するのに、やはり抵抗をする気にならなかった。腰を掴まれ、ぐっと押し込まれると圧迫感で息苦しくなる。下っ腹を満たす異物感に膝の裏がわなわなと震え始める。 「君からすれば、生で、もっと乱暴に、オナホみたいに扱われる方が望ましいのかもしれないけどさ……こうやって普通の女の子にするみたいに、丁寧に扱われた方が屈辱感あるよね?」  ──まぁ、確かに。  思っても口にはしない。同意はするけれど、あくまで他人事。犯されること自体、傷つくべきことじゃなかった。最後に殺されるなら、この行為にも意味なんてないし。  何も言わずに腹の奥にある異物感を強く感じながら目を閉じていると、ずるりと引き抜かれてすぐさま奥を突かれる。思わず「あっ」と声が漏れ、その衝撃に熱い息を吐く。背中に覆い被さってくる大きな身体がその呼吸を楽しむように密着してきた。 「親の仇にこんな風に犯されて、そんな甘い声出しちゃうんだね。親御さん、あの世で泣いてるんじゃないの」  揺さぶられながら耳元で囁かれる。プライドなんてものは持ち合わせていないため、与えられる衝撃に素直に喘ぐと、後ろにいる青年は満足しているのか、笑うような吐息を漏らしていた。  肉と肉が激しくぶつかり合う音は、コウを追い詰めて、押し潰そうとする。うねる中を楽しむように、広げるように、執拗に叩きつけてくる。  激しい快楽で歪む表情と控えめながらもはしたなさを感じさせる声は、青年が望んだ通りのものなんだろう。だが、満足させているはずなのに行為はエスカレートするばかりで一向に終わる気配がなかった。 「ふ、……っ」  腿の内側が痙攣して、あとひと押しで楽になれるような気がした。自身の中心に手を伸ばしたいのに、テーブルに腹這いにさせられ、手首は青年の大きな手に掴まれ、固定されている。逃げられなかった。  視界が白飛びして、噛み締めていた奥歯が浮く。無意識に声が漏れて、青年のものを食いちぎるように締め付けると、あろうことか触らずに射精した。ふわふわとしながら、内臓がヒクつく感覚に身体の奥が疼く。それでも律動は止まずに青年が自身を励ますように中を擦り上げていた。 「っ、……」  切羽詰まった呼吸が背後にある。青年がコウの頸に顔を埋めて、ゴムの中にびゅくびゅくと欲を吐き出した。  お互い乱れた息を吐いて、コウに関してはいまだに体をびくんびくんと跳ねさせていた。 「ほんとに、プライドないんだね……」  ずるりと腹に埋まっていたものを引き抜かれて、ようやく体を放されると、コウは床にへたり込んだ。体の中を好き勝手にかき混ぜられ、体に大きな穴が空いているような錯覚すらあった。  ──これでやっと、殺されるのかな。  期待したが、しかしそれは裏切られる。二の腕を掴まれ、無理やり立たされるとダイニングテーブルに腰掛けるような体勢に誘導される。 「次、生でしよ」  向かい合い、両膝の裏を掴まれて押し開かれる。ぐぷ、と中に侵入してくる光景を見せつけられ、あまりの苦しさで眉間に皺が刻まれる。向かい合うことで、青年のそれが大きかった事を知る。苦しさは、これのせい。根本まで入ると、奥が突き破られそうになり、息が喉に詰まる。  ゴムがないと感触が違う。熱さがはっきりと伝わってくる。  コウは天井をぼんやりと見上げながら、再びゆさゆさと体を貪られて「あ、あ」と甘い声を出す。  ──そういえば、このダイニングテーブルは家族で使っていたものだった。彼が父と母の亡骸を見つめていた時、彼はこのダイニングテーブルの前に座っていた。  不思議な感覚に耽りながら、辱めを受け、追い詰められていく。  母さんと父さんはこの光景を見たらどう思うんだろう。この人の言葉通り、泣くのかな。  ぱんぱんと憎しみを込めて激しく腰を打ち付けられ、うまく呼吸ができなくなる。気持ち良いのに不快で、自分が分からない。快楽に溺れながらも、それとは別に理性が遠いところで自立していた。この人の名前、なんだっけ。  迫り上がる感覚に手の甲で口を押さえる。  またイかされる。  青年も切羽詰まった息を吐き出しながら、達しそうになっていた。そうして同時に果て、中に出される。熱いものがじわじわと粘膜に浸透するような体感の中で、この青年の名前を思い出す。  花澄──。 「理一、さん……」  呼ぶと、青年──花澄理一が無表情でこちらを見下す。 「名前、覚えてたんだ。そりゃあそうか……親の仇だもんな」 「……長いこと忘れてた」 「それはそれで、思うところがあるけど」 「だって、もう二度と会わないと思ってたから……」  理一は萎えた自身を抜き去ると、コウの腕を掴んで強引に上体を起こさせる。間近で目が合うも、感情がまったく読み取れない。 「犯した後に殺そうと思ってたけど、やめた。これから毎日しよう。君の身体が壊れるまで」  淡々と告げてくる声は平坦で冷たかった。読み取れなかった感情は、次第と憎悪を感じさせてくるように変化していく。 「君の身体が使い物にならなくなった時に殺すよ。だから、これからは自分で準備してね」  自分が腰掛けているダイニングテーブルを意識すると、背徳感だけが湧いてくる。羞恥心や、屈辱感はないのに。 「言うこと聞けるよね」  コウは空虚な理一の目をまっすぐに見つめて。 「うん」  短く答えた。

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