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第1話 裾を掴む後輩と、月影館の扉

星窓大学のオカルト研究部は、名前のわりに地味な部だった。 活動内容は、古い怪談の資料整理、地元の噂の聞き取り、先輩たちが残した調査メモの整理。たまに夜の散歩みたいな現地確認。 怖い話を扱っているのに、やっていることは意外と堅実だった。 少なくとも、普段は。 「吉井。これ、読める?」 部室の長机の向こうで、牧野昇(まきの・のぼる)さんが古い紙を持ち上げた。 午後の部室には、西日が差し込んでいる。 積み上がった雑誌。 埃っぽい本棚。 謎に多い懐中電灯。 誰かが置いていった塩の小瓶。 いつものオカ研の部室だった。 俺、吉井和也(よしい・かずや)は、昇さんの手元を覗き込む。 「読めますけど、字が古いですね」 「数年前のOBが残した調査メモらしいよ」 「OB、ちゃんと字を書く気ありました?」 「そういう言い方はだめだよ。急いで書いたのかもしれないからね」 昇さんは、困ったように笑った。 その笑い方が、ずるい。 いや、ずるいというのは違う。 カッコいい。 俺が勝手にドキドキしているだけだ。 昇さんは、オカ研の先輩だ。 いつも穏やかで、誰にでも優しくて、声が柔らかい。 怖い話の調査中でも、誰かが不安そうにすると、すぐ気づいてくれる。 そういう人だから、困る。 優しくされるたびに、俺だけが勝手に意味を持たせそうになる。 「月影館」 昇さんが、紙の見出しを読んだ。 その名前だけ、やけに綺麗に残っていた。 「月影館?」 「うん。郊外にある古い洋館だって。管理者不明。建てたのは、明治の終わり頃の人らしい」 「いかにもですね」 「いかにもだね」 昇さんは小さく笑って、紙を机に置いた。 俺も隣に座って、古いメモを一緒に読む。 月影館。 古い洋館。 夜になると、二階の窓に明かりが灯る。 誰も住んでいないはずなのに、館の中から話し声が聞こえる。 調査記録は、途中で途切れている。 「途中で途切れてるの、かなりそれっぽいですね」 「本当に何かあったのかもしれないよ」 「先輩、信じてるんですか?」 「信じているというより、確かめたいかな。分からないまま怖がるより、見に行った方が落ち着くからね」 そう言う昇さんの横顔を見て、胸が跳ねた。 落ち着いた声。 柔らかい目。 怖いものを無理に笑わないところ。 そういうところが、好きだと思う。 思ってしまう。 「吉井?」 「はい」 「顔、赤いよ。暑い?」 「暑いです」 「窓、開けようか」 「大丈夫です。先輩の顔を見ていただけなので」 言ってから、遅れて気づいた。 何を言っているんだ、俺は。 昇さんが少し目を丸くする。 俺は慌てて視線を落とした。 「違います。変な意味じゃなくて、先輩の横顔が真面目だったので、つい見てました」 「それも、少し照れるね」 昇さんが笑う。 俺は、さらに顔が熱くなった。 またやった。 この人の前だと、思ったことが口から出る。 前からそうだった。 あの夜から、特に。 **** 入部して三ヶ月目の夜。 俺たちは、今は使われていない旧病院を調査した。 あの時も、俺は平気なふりをしていた。 怖くないです。 先輩こそ、怖かったら俺の後ろに隠れていいですよ。 そんな軽口まで叩いた。 けれど、廊下の奥で金属が落ちるような音がした瞬間、足が動かなくなった。 冷たい空気。 消毒液みたいな古い匂い。 暗い廊下の奥。 怖い。 そう思った時、後ろから昇さんの腕が俺の肩を包んだ。 「大丈夫だよ」 耳元で、声がした。 「俺がいるからね。怖いなら、このままでいいよ。ゆっくりでいいからね」 怖さがほどけた。 同時に、心臓が変な音を立てた。 安心したはずなのに、どんどん速くなる。 怖いからじゃない。 昇さんが近いからだ。 そう気づいた瞬間、俺はもうだめだった。 そのあと、昇さんは俺の手を取って、旧病院の外まで連れていってくれた。 「足元、気をつけてね」 「大丈夫だよ」 「よく頑張ったね」 優しい声を、何度もかけてくれた。 俺は怖さを隠すふりをしながら、本当は別のものを隠していた。 手が熱い。 胸がうるさい。 このまま離したくない。 その夜から、昇さんはただの先輩ではなくなった。 **** 「吉井」 名前を呼ばれて、俺は部室に戻ってきた。 「大丈夫? 少しぼんやりしてたよ」 「大丈夫です。月影館のことを考えてました」 嘘ではない。 ただ、半分くらいは旧病院の夜を思い出していた。 「怖かったら、無理しなくていいからね。今日は他の部員も来られないみたいだし、俺ひとりで下見に行ってもいいよ」 「行きます」 即答だった。 昇さんが、少し驚いた顔をする。 「本当に?」 「はい。俺もオカ研なので、調査には行きます」 「無理はしなくていいよ」 「無理じゃないです」 俺は、メモの上に置かれた昇さんの指を見た。 旧病院の夜、俺の手を引いてくれた手。 あの手を思い出すだけで、胸が熱くなる。 「先輩と一緒なら、大丈夫です」 また、言ってしまった。 けれど、今回は取り消さなかった。 昇さんが、少しだけ柔らかく笑う。 「そっか。じゃあ、一緒に行こう」 「はい」 たったそれだけで、うれしい。 我ながら、かなり単純だと思う。 **** 月影館は、大学から電車と徒歩で一時間ほどの場所にあった。 住宅地を抜け、細い坂道を上がり、古い石垣の横を進む。 夕方の空は薄い紫色に変わりかけていた。 坂の上に、黒い鉄柵が見えてくる。 その奥に、洋館が立っていた。 月影館。 蔦の絡んだ外壁。 高い二階窓。 欠けた石段。 錆びた門扉。 庭には伸びすぎた草が揺れている。 想像していたより、ずっと本物だった。 「……これは、いかにもですね」 「うん。少し足元が悪いから、気をつけてね」 昇さんが先に門を押す。 ぎ、と古い音がした。 それだけで、背中がぞわっとする。 怖い。 でも、それよりも、昇さんと二人きりでこんな場所に来ていることの方が落ち着かなかった。 「吉井、無理そうなら戻ろうか」 「戻りません」 「顔が少し固いよ」 「先輩が優しいからです」 「俺?」 「そうです。怖い時に優しくされると、旧病院の時を思い出すので、ちょっと困ります」 言った。 言ってしまった。 俺は一瞬、口を閉じる。 またやった。 けれど、昇さんはからかわなかった。 ただ、少しだけ目元を柔らかくした。 「あの時、怖かったよね」 「怖かったです」 「でも、よく頑張ったね」 だめだ。 その言い方は、だめだ。 胸の奥が、あの夜と同じように熱くなる。 「……先輩、そういうところです」 「そういうところ?」 「人を簡単にドキドキさせるところです」 また本音が出た。 もうだめだ。 今日は口が軽すぎる。 昇さんが、少しだけ視線をそらした。 耳が赤いように見えた。 「吉井にそう言われると、俺も少し困るよ」 その声がいつもより低くて、俺は黙った。 昇さんも黙る。 夕方の風が、伸びた草を揺らした。 「行こうか」 「はい」 俺たちは門をくぐった。 **** 玄関扉は、鍵がかかっていなかった。 押すと、ゆっくり開く。 中は、思ったより広かった。 吹き抜けの玄関ホール。 古びたシャンデリア。 二階へ続く大階段。 壁に並ぶ古い肖像画。 空気は冷たい。 誰もいないはずなのに、どこかで誰かが息をひそめているような感じがした。 「すごいですね」 「うん。床が傷んでいるかもしれないから、ゆっくり行こう」 昇さんが懐中電灯を点ける。 白い光が、床板を照らした。 俺はその後ろを歩く。 一歩。 二歩。 階段の上から、かすかに音がした。 こつん。 靴音みたいな音。 俺は反射的に、昇さんのジャケットの裾を掴んでいた。 昇さんが振り返る。 「裾、掴んでるね」 「……掴んでます」 「怖い?」 「怖いのもあります」 「うん」 「でも、先輩の近くにいたいのもあります」 言った瞬間、顔が熱くなった。 まただ。 月影館に来てから、俺は本音ばかりこぼしている。 昇さんが、少し驚いたように俺を見る。 俺は裾を離そうとして、でも離せなかった。 「いいじゃないですか、もう。暗いんですから」 最後だけ、少し開き直った。 それくらいしないと、恥ずかしくて立っていられない。 昇さんは、怒らなかった。 笑うこともしなかった。 ただ、いつもの柔らかい声で言った。 「いいよ。そのままで」 「……いいんですか」 「その方が安心するなら、そのままでいいよ。俺も、吉井が近くにいる方が分かりやすいからね」 胸が鳴った。 ずるい。 いや、違う。 カッコいい。 この人は、どうしてこういうことを自然に言えるんだろう。 「じゃあ、少しだけこのままでいさせてください」 「うん」 昇さんが前を向く。 俺は、裾を掴んだまま歩いた。 あの旧病院の夜は、手を繋いで外へ出た。 今は、裾を掴んで館の奥へ進んでいる。 逆だ。 でも、近くにいることだけは同じだった。 **** 二階の奥に、ひときわ古い扉があった。 扉の上には、薔薇のような模様の小さな飾り窓がある。 月の光が入る時間なら、綺麗に見えるのかもしれない。 「薔薇窓の書斎、って感じですね」 「名前をつけるなら、そうだね」 昇さんが扉を押す。 中は書斎だった。 壁一面の本棚。 重そうな机。 古い長椅子。 窓には薔薇の模様が入っている。 机の上に、一冊の日記が置かれていた。 革表紙に、月と薔薇の模様。 他のものは埃をかぶっているのに、その日記だけが、ついさっき誰かが置いたみたいに綺麗だった。 「……触らない方がよさそうですね」 「そうだね。でも、これが調査対象かもしれない」 「先輩、そういう時だけオカ研らしいですね」 「普段も一応、オカ研らしくしているつもりだよ」 昇さんが少し笑って、日記を開いた。 俺は隣から覗き込む。 最初の方は、古い日付と短い記録だった。 館の建築。 天気。 客人。 庭の薔薇。 書き手の名前は、月城怜司。 やがて、日記の中に同じ名前が何度も出てくるようになった。 律。 ただ、それだけ。 姓はない。 でも、文字の丁寧さが違った。 律が来た。 律が笑った。 律が窓辺に立った。 律の指が、茶碗に触れた。 それだけで、書き手がその人をどれほど見ていたのか分かってしまう。 「……恋の日記ですね」 「そうみたいだね」 昇さんの声が少し静かになる。 ページをめくる。 内容は、少しずつ変わっていった。 会いたい。 触れたい。 声が聞きたい。 欲を隠すたび、夜が長くなる。 律を前にすると、理性が苦しい。 俺は、息を飲んだ。 理性が苦しい。 その言葉が、妙に胸に残った。 昇さんが、さらにページをめくる。 そこから先の文字は、少し乱れていた。 『肉体の契りなくして、出口なし』 昇さんの指が止まる。 俺も固まった。 「……読みました?」 「読んだね」 「読み間違いですか?」 「いや、たぶん、そのままだと思う」 昇さんの耳が、少し赤い。 俺は見ないふりをした。 でも、見てしまう。 だめだ。 こんな文を昇さんの声で聞くと、変なところに熱が集まる。 さらに下に、続きがあった。 『欲を偽る者、月影館に留まるべし。 深く結ばれ、互いの熱を受け入れぬ限り、朝は来ぬ』 息が止まった。 互いの熱。 受け入れる。 その言葉が、頭の中で勝手に形を持つ。 昇さんの手。 声。 旧病院の夜。 背中を包んだ腕。 手を繋いでくれた温度。 全部が、一気に近くなる。 「吉井」 「はい」 「大丈夫?」 「大丈夫です」 大丈夫ではなかった。 でも、何が大丈夫ではないのか、言えるわけがない。 昇さんは日記を閉じようとした。 その瞬間だった。 ばたん、と書斎の扉が閉まった。 俺は肩を跳ねさせる。 昇さんがすぐに扉へ向かった。 ノブを回す。 開かない。 「鍵がかかった?」 「先輩、さっき鍵なんてありました?」 「見ていないね」 昇さんは落ち着いた声で言う。 けれど、ノブを握る手に少し力が入っていた。 俺も窓へ向かう。 窓は開かない。 古い建物だから固いのかと思ったが、びくともしなかった。 「……閉じ込められました?」 「そう決めるのは早いよ。古い仕掛けかもしれない」 「古い仕掛けで扉と窓が同時に開かなくなるの、かなり嫌です」 「うん。俺も嫌だね」 その返しが、少しだけ普通で、俺は変に安心した。 けれど、安心は長く続かなかった。 壁に、文字が浮かび上がった。 最初は染みのようだった。 それが、ゆっくり形になる。 契らぬ者、出口なし。 俺は声を失った。 昇さんも、黙った。 部屋の空気が、さっきより冷える。 でも、俺の体の奥だけが熱かった。 怖い。 怖いはずなのに。 日記の言葉が、頭から離れない。 肉体の契り。 欲を偽る者。 互いの熱。 昇さんが隣にいる。 優しくて、カッコよくて、旧病院の夜からずっと忘れられない人が。 昇さんは壁の文字を見たあと、ゆっくり俺を振り返った。 「吉井。落ち着いてね」 「はい」 「こんなのに、従う必要はないからね」 いつもの柔らかい声だった。 俺を安心させようとしてくれている声。 でも、昇さんの耳は赤かった。 指先も、わずかに震えていた。 それに気づいた瞬間、俺の胸の奥で何かが跳ねた。 先輩も、平気じゃない。 そう思った。 そして、そう思ってしまった自分に、さらに熱くなった。 書斎の隅にある肖像画が、視界に入る。 若い男の絵だった。 たぶん、月城怜司。 油絵の中の男は、薄く笑っているように見えた。 まるで、ずっと前からこうなるのを知っていたみたいに。 「……月影館」 俺は小さく呟いた。 扉は開かない。 窓も開かない。 日記は机の上で、閉じられている。 壁の文字だけが、夜より濃く見えた。 契らぬ者、出口なし。 昇さんが俺の前に立つ。 「大丈夫だよ。俺がいるからね」 旧病院の夜と同じ言葉だった。 胸が、強く鳴った。 怖さだけではない。 むしろ、怖さよりもずっと厄介なものが、体の奥から上がってくる。 俺は、昇さんのジャケットの裾を掴んだままだった。 離せなかった。 離したくなかった。 そして月影館は、静かに扉を閉ざしたまま、俺たちの沈黙を待っていた。

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