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第2話 吉井和也は、もう戻れない

扉は開かなかった。 昇さんが何度かノブを回し、押して、引いて、それでも玄関扉はびくともしなかった。 窓も同じだった。 一階の窓。 二階の窓。 書斎の薔薇窓。 どれも外の光は見えているのに、開かない。 ガラスを叩いても、音が館の中に吸い込まれるだけだった。 「建て付けが悪い、って感じじゃないですね」 俺は、なるべく軽い声で言った。 「そうだね」 昇さんは落ち着いていた。 少なくとも、そう見えるようにしていた。 「何か仕掛けがあるのかもしれない。まずは、落ち着いて確認しよう」 「はい」 頷いたけれど、俺は落ち着いていなかった。 壁には、さっき浮かんだ文字。 『契らぬ者、出口なし』 机には、月城怜司の日記。 『肉体の契りなくして、出口なし 欲を偽る者、月影館に留まるべし。 深く結ばれ、互いの熱を受け入れぬ限り、朝は来ぬ』 文字が、頭から離れない。 しかも最悪なことに、その文言は昇さんの声で再生された。 深く結ばれ。 互いの熱を受け入れぬ限り。 朝は来ぬ。 「……っ」 俺は、慌てて首を振った。 だめだ。 何を考えている。 閉じ込められている。 怪異かもしれない。 まずは脱出方法を探すべきだ。 そう思うのに、視線は昇さんへ行ってしまう。 昇さんは書斎の扉を調べている。 指先が、扉の縁をなぞる。 いつもは穏やかなその手が、今は少しだけ強張っていた。 耳も、かすかに赤い。 平気じゃない。 昇さんも、あの文字を読んだ。 読んで、意味を理解した。 それなのに、俺を不安にさせないように、いつもの先輩の顔をしている。 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。 怖いはずなのに。 怖さより、昇さんに近づきたい気持ちの方が強くなる。 最低だ。 でも、もう止められそうにない。 「吉井」 昇さんが振り返る。 「大丈夫?」 また、その声。 旧病院の夜と同じ、柔らかい声。 俺は息を詰めた。 「……大丈夫じゃないです」 正直に言うと、昇さんの表情が少しだけ変わった。 「怖い?」 「怖いのもあります」 「うん」 「でも、それだけじゃないです」 自分の声が、妙に静かだった。 言ってはいけないところへ、少しずつ近づいている感じがした。 「先輩は、平気なんですか」 「平気に見せようとしてる」 「見せようとしてます」 昇さんは、少しだけ笑った。 困ったような笑顔だった。 「吉井を不安にさせたくないからね」 そういうところだ。 そういうところが、本当に困る。 「そういうところが、困るんです」 言ってしまった。 昇さんが黙る。 俺は、もう戻れないところへ一歩踏み込んだ気がした。 「先輩は、いつもそうです」 「吉井」 「優しくて、落ち着いてて、俺が怖がると大丈夫って言ってくれて」 声が震える。 でも、止まらない。 「旧病院の時も、そうでした」 昇さんの目が、わずかに揺れた。 「旧病院……」 「はい」 あの夜が、胸の奥から蘇る。 入部して三ヶ月目。 旧病院の処置室前。 俺は強がった。 怖くないです。 先輩こそ俺の後ろに隠れていいですよ。 そんなことを言っていた。 でも、金属が床を転がる音がした瞬間、足が動かなくなった。 情けないくらい怖かった。 その時、昇さんが後ろから包むように立ってくれた。 「大丈夫だよ」 耳元で、そう言った。 「俺がいるからね。怖いなら、このままでいいよ。ゆっくりでいいからね」 怖さがほどけた。 体から力が抜けた。 安心した。 なのに、心臓だけはどんどん速くなった。 怖いからじゃなかった。 昇さんが近かったから。 昇さんの声が、耳元にあったから。 俺の背中を包む熱が、優しすぎたから。 その時、分かった。 俺はこの人が好きなんだ。 外に出るまで、昇さんは俺の手を取ってくれた。 足元が危ないから、と言って。 でも、俺は知っていた。 本当は、その手を離したくなかったのは俺の方だ。 旧病院を出てからも、ずっと。 あの手の温度を覚えていた。 声を覚えていた。 後ろから包まれた時の安心感を覚えていた。 それから、夜になるたびに思い出すようになった。 布団の中で。 浴室で。 一人の部屋で。 昇さんの声を思い出して、腕の熱を思い出して、手の温度を思い出して。 俺は、何度も一人で自分に触れた。 恋だけで済まなくなった。 触れられたい。 見られたい。 優しい手で、見せたくないところまで暴かれたい。 昇さんが、俺を見て余裕をなくすところが見たい。 その欲を、ずっと隠していた。 後輩の顔をして。 軽口を叩いて。 怖がりをごまかして。 普通のオカ研部員みたいな顔で。 「先輩」 俺は、昇さんを見た。 「大丈夫じゃないです」 昇さんの喉が、小さく動く。 「怖いからじゃないです」 「吉井」 「先輩のせいです」 言った。 もう、言ってしまった。 胸の奥で、何かが壊れる音がした。 「旧病院の夜から、ずっとです」 昇さんは動かなかった。 俺だけを見ている。 「俺、先輩のことが好きです」 声は震えていた。 でも、はっきり言えた。 「でも、好きなだけじゃ足りないです」 言った瞬間、昇さんの目が揺れた。 「先輩に触れたいです。触られたいです。見られたいです。優しい手で、俺のこと、全部めちゃくちゃにしてほしいって、ずっと思ってました」 胸が苦しい。 でも、止まらない。 止めたら、もう二度と言えなくなる気がした。 「俺、先輩のことを考えて、何度も一人でしました」 言い切った瞬間、書斎の空気が変わった。 昇さんが、息を呑む。 「吉井」 声が、いつもより低い。 でも、まだ優しい。 まだ、先輩の声だった。 「待ってね」 昇さんが一歩近づく。 「君は、館に煽られているだけかもしれない」 「違います」 俺は、すぐに首を振った。 「館に入る前から、ずっとこうでした」 「でも」 「俺は、ずっと偽ってました」 昇さんの目を見た。 逃げなかった。 「責めてるんじゃないです」 声が少しだけ震える。 「もう、認めてるんです」 その瞬間、床の影が動いた。 黒い筋のようなものが、書斎の床を走る。 「吉井!」 昇さんが俺に手を伸ばそうとした。 でも、その影は俺には向かわなかった。 昇さんの腕に絡む。 足に絡む。 椅子の脚へ、床へ、黒い模様が伸びていく。 「っ……!」 昇さんの体が、椅子に縫い止められた。 「先輩!」 駆け寄ろうとして、俺は足を止めた。 俺には、影が絡まない。 足元は自由だった。 壁に、赤い文字が浮かぶ。 『欲に従う者、自由なり』 「……最悪」 俺は呟いた。 館は、俺を自由にした。 昇さんを縛った。 俺が欲を認めたから。 昇さんが、まだ理性で止めようとしているから。 「吉井」 昇さんの声が少し強くなる。 「来ないで」 「先輩」 「近づかないで。だめだよ、こんなのに従う必要はないからね」 昇さんは俺に言っている。 でも、それ以上に、自分へ言い聞かせているように聞こえた。 俺は、ゆっくり近づいた。 一歩。 昇さんの腕が影に縛られている。 二歩。 足も動かせない。 三歩。 それでも、昇さんの目は俺を見ている。 止めたい。 逃がしたい。 でも、そこに熱がある。 俺はそれを見てしまった。 「名前で呼んでください」 昇さんが息を詰める。 「今だけじゃなくて、ちゃんと俺を見てほしいです」 俺は、椅子の前で立ち止まった。 「後輩じゃなくて、吉井じゃなくて、和也として見てほしいです」 昇さんは、すぐには答えなかった。 影が、彼の手首に絡みついている。 その指先が、ほんの少し俺の方へ動こうとして、止められる。 それを見た瞬間、胸の奥が甘く痛んだ。 本当に、止めたいだけなら。 そんなふうに、俺へ手を伸ばそうとしない。 「……和也」 声が落ちた。 名前を呼ばれた瞬間、体が震えた。 「あ……っ♡」 自分でも驚くくらい、甘い声が漏れる。 名前だけで。 昇さんが呼んだだけで、俺はこんなになる。 「もう一回、呼んでください」 言ってしまった。 恥ずかしい。 でも、欲しい。 「和也」 「あっ……♡」 胸の奥から、熱が上がる。 俺は、椅子に縛られた昇さんの前に膝をついた。 昇さんの目が揺れる。 「和也、だめだ」 「だめでも、呼んでくれました」 「それは」 「嬉しいです」 俺は、昇さんを見上げた。 「先輩が、俺を見てくれてるって分かるから」 昇さんの唇が、わずかに開いた。 何かを言おうとして、言葉にならない。 俺は、彼の膝に手を置いた。 触れた瞬間、昇さんの体が小さく強張る。 「先輩」 「和也」 「反応しました」 「言わないで」 声が掠れた。 その声に、俺の体がまた熱くなる。 「だって、嬉しいです」 「和也」 「俺だけが欲しがってるんじゃないって、分かるから」 昇さんの喉が動く。 目が逸れない。 俺を見ている。 困っている。 抑えようとしている。 でも、体はちゃんと俺に反応している。 その事実が、胸の奥に甘く広がった。 「俺、ずっと怖かったんです」 俺は、手を置いたまま言った。 「俺だけが、こんなふうに先輩を見てるのかと思ってました」 「和也」 「でも、違うんですね」 言いながら、指先に少し力を込める。 昇さんの息が乱れた。 ほんの少し。 でも、分かる。 「先輩の声、変わってます」 「言わないで」 「先輩も、平気じゃない」 「和也、待って」 「待ちません」 俺は首を振った。 「ずっと待ってました」 その言葉で、昇さんの表情が苦しそうに歪む。 でも、俺は止まれなかった。 今、止まったら。 また、ただの後輩に戻されてしまう。 それだけは、嫌だった。 「俺、先輩に触れたいです」 膝に置いた手を、少しだけ滑らせる。 昇さんの指先が、影の中で強く握られる。 「先輩が俺で困るところを、もっと見たいです」 「そんな顔をしないで」 昇さんの声が苦しそうに揺れる。 「俺が、困る顔だよ」 「困ってください」 俺は、さっきと同じ言葉を返した。 「先輩のせいで、俺はずっと困ってました」 涙が出そうだった。 でも、泣きたいわけではない。 胸の奥が熱すぎて、どうしていいか分からないだけだ。 「先輩に優しくされるたびに、嬉しくて、苦しくて、触れられたくて」 俺は昇さんを見上げる。 「その優しい手で、俺をちゃんと見てほしかった」 昇さんは何も言わない。 でも、耳が赤い。 息が乱れている。 縛られた腕が、また俺の方へ動こうとしている。 それだけで、十分だった。 俺は、昇さんの首筋に顔を近づけた。 「嫌なら、言ってください」 昇さんは、何も言わなかった。 ただ、俺を見ていた。 唇がわずかに開く。 息だけが漏れる。 喉が動く。 縛られた手が、俺の方へ動こうとする。 俺は、その全部を見た。 止める言葉はない。 あるのは、揺れている理性だけだ。 「あ……っ♡」 声が漏れた。 昇さんが俺で揺れている。 俺に触れられることを、完全には拒めていない。 それが分かった瞬間、体の奥まで甘くなる。 俺は、昇さんの首筋に唇を押し当てた。 「っ……」 昇さんの息が跳ねる。 それだけで、俺も震えた。 「先輩」 「和也」 「今、声が出ました」 「言わないで」 「嬉しいです」 「和也」 「先輩が、俺で崩れていくの、嬉しいです」 口にした瞬間、自分の欲がはっきり形を持った。 俺は、優しい昇さんが好きだ。 でも、優しいままの昇さんだけが欲しいわけじゃない。 俺を見て、困って、余裕をなくして、理性を揺らす昇さんが見たい。 それを、ずっと隠していた。 「俺、ちゃんとしたいです」 「ちゃんと?」 昇さんの声が震える。 「先輩が、気持ちよくなること」 昇さんが目を閉じかけた。 でも、閉じない。 俺を見ている。 「ずっと、考えてました」 俺は、首筋から少しだけ顔を離して、昇さんを見る。 「先輩に触れたいって。先輩が俺で変になるところを見たいって。優しい先輩が、俺のせいで余裕なくなるところを見たいって」 昇さんの呼吸が、また乱れる。 それが嬉しい。 俺が言うたび、昇さんが反応する。 俺の言葉が、昇さんの理性を削っている。 「和也」 「はい」 「今の君は、館に」 「館のせいじゃないです」 俺は、すぐに言った。 「館は、俺が隠してたものを見えるようにしただけです」 言いながら、胸が少しだけ軽くなった。 そうだ。 館に命令されたからじゃない。 日記に書いてあったからでもない。 扉が開かないからでもない。 俺が、ずっとこうだった。 先輩に触れたい。 先輩の熱を知りたい。 先輩が俺で揺れるところを、もっと見たい。 それだけだった。 「見ないでください」 思わず言った。 昇さんの目が、少しだけ揺れる。 すぐに俺は首を振った。 「違います。見てください」 もう、自分でもめちゃくちゃだ。 「見られたら、変になります。でも、先輩に見られたいです。あっ……♡」 声が勝手に甘くなる。 昇さんは、縛られたまま俺を見ている。 その視線が、優しいのに熱い。 俺のことを止めたいのに、見てしまう目だった。 俺は、もう一度昇さんに触れた。 指先で確かめるように。 少しずつ。 昇さんの体が、俺の触れ方に合わせて反応する。 息が乱れる。 喉が動く。 肩に力が入る。 「先輩」 「和也」 「もっと、反応してます」 「言わないで」 「言います」 俺は、顔が熱いまま言った。 「嬉しいので」 昇さんが、苦しそうに眉を寄せた。 でも、目は逸らさない。 その顔を見て、胸の奥がいっぱいになる。 「俺、先輩のそういう顔、見たかったです」 「そんなことを」 「見たかったです」 もう隠さない。 「優しい先輩が、俺のせいで余裕なくなる顔」 昇さんの息が、また震える。 「和也、だめだ」 「だめでも、もう戻れません」 俺は、昇さんの膝に手を置き直した。 「戻りたくないです」 「和也」 「先輩」 俺は昇さんを見上げた。 「俺、もう本当に戻れません」 言い切ると、書斎の空気が静かになった。 まるで、館がこちらの答えを聞いているみたいだった。 肖像画の方から、微かな木のきしむ音がする。 でも、怖くなかった。 今は、館よりも昇さんが近い。 昇さんの息が近い。 昇さんの熱が、俺の指先に伝わっている。 俺はゆっくり顔を近づけた。 昇さんの目が、大きく揺れる。 「和也、待って」 「待てません」 「俺は、君を」 「後輩だから、ですか」 昇さんが言葉を詰まらせる。 俺は小さく首を振った。 「俺は、後輩だけじゃ嫌です」 胸の奥が熱い。 「和也として、先輩に見てほしいです」 昇さんの唇が震える。 「見てるよ」 その声は、掠れていた。 「もう、見てる」 胸がいっぱいになる。 「あ……っ♡」 また声が漏れた。 見てる。 昇さんが、俺を見ている。 後輩としてだけじゃなく。 吉井としてだけじゃなく。 和也として。 「じゃあ」 俺は、昇さんの膝に置いた手に力を込めた。 「俺が先輩に触れるのも、見ててください」 昇さんは、止めなかった。 止められなかったのかもしれない。 でも、止める言葉はなかった。 俺は、昇さんの熱に、そっと唇を近づけた。 まだ、怖い。 でも、それ以上に胸が熱い。 俺だけが欲しいわけじゃない。 昇さんも、俺で揺れている。 それが分かったから、もう戻れなかった。 「先輩」 「和也」 「好きです」 声が震える。 「先輩が好きです」 昇さんの息が、また乱れる。 俺は、彼を見上げたまま、小さく笑った。 泣きそうなくらい、嬉しかった。 「戻りたくないです」 昇さんが、俺の名前を呼ぶ。 「和也」 俺は頷いた。 「はい……っ♡」 そして、昇さんの熱に、そっと唇を触れさせた。

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