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第1話 脱獄

 粗雑なレンガに硬質な靴底のあたる音が徐々に近づいてくる。カチャカチャと陶器のこすれる音がかすかに聞こえてきて、腹の空き具合を考えながら、夕食が運ばれてきたことを知る。  そして、ギイと鉄の軋む音がして、聞き慣れた声、いや、この三月(みつき)の間唯一耳にしていたと言っていい声が、静かなこの我が寝床に響き渡った。 「おまえの処刑は明日に決まった」  ガチャンと、鉄がこすれ合う音を聞きながら、想定していたよりもだいぶ早い朗報に、フランツ・カーフセルはほくそ笑んだ。 『アルカトラズからの脱出』『ショーシャンクの空に』『抵抗』数多ある脱獄映画のごとく、スプーンでも手に入れば、まだ希望はあった。しかし、どうやらこの世界ではそんな御大層なものを囚人には用意してくれないらしい。牢にある小窓は食事の乗ったトレーを通す程度のサイズでしかなく、看守は牢の鍵を携帯していない。  牢は魔封の術が施されており、世界一の魔力を持ってしても壊すことは不可能である。  脱獄なんてとてもではないが、叶わぬ状況だった。  しかし、長くても半年程度耐えてさえいれば、無理に出ようとせずともその日が来ることは知っていた。  おそらく俺の行動によって、本来の時期よりも早めることはできたと思う。こんな下水溝のような場所に半年もいたい奴がいるかよ。  俺は明日に備えるため、ゲロのほうがマシな最後の晩餐を腹に詰めたあと、無駄な体力は使わぬようにそうそうと寝床に入った。    ◇ ◆ ◇    昼夜のない闇の中、半日と経たずに再び靴音が響いてくる。  日光も届かないこの地下の世界では、耳と嗅覚だけが感覚のすべてと言っていい。  聞き飽きた足音と、性に飢え血を求めた醜悪な匂いで、ランプの灯りが見えずとも、あいつがやってきたことはすぐにわかった。   「朝飯はない。昨夜のが本当に最後の晩餐だったようだな」  はっと鼻で笑う声がした直後、ここへ来て一度も聞いたことのない音、鍵が錠前に差し込まれる音がした。  きいと無機質に耳へ届いた音は、心地よい音楽の調べと等しかった。俺にとっては、まさしく地獄から連れ出してくれる序曲である。  目を開けると、ランプに照らされた看守の淫靡な笑みが浮かび上がった。  男から性的な目で見つめられてはぞっとする。しかもこんな丸々と超えた出荷前の豚みたいな中年からであればなおのこと。  これまでは、このおぞましき顔を見ないよう、やつが現れたと知るや目をつぶっていた。しかし、今日という晴れの日は別である。週に二度も俺に屈辱を与え続けてくれたこいつが、驚愕に顔を歪めるところは是非とも見届けたい。  腕をつかまれ、手首にひんやりと堅い鉄が触れた。魔封術の施された手枷である。 「十分しかない」  看守は言い、ねちゃっと舌なめずりしたあと、おもむろに俺の首筋へと不快な歯を突き立てた。  鈍い痛みの直後に、じゅるじゅると吸い上げる不快極まりない音を聞きながら、最期の屈辱を甘んじた。  俺の血は人間の精力を高ぶらせる効力がある。  それは、自身のが旺盛になるだけでなく、他者のものを誘発するフェロモンも同時に放つため、落としたい相手をその気にさせることができる。  看守なんてストレスの溜まる仕事をしていれば、飛びつくのも無理はない。  本来この効力が知られることになるのは、俺が斬首されたときだった。  ほとばしるその血の芳香が、淫欲を誘発し、その効力にぴんとくる。どくどくと失われていく血液を集め、血清として培養したものがのちに『魔王の血清』というアイテムとなるはずだった。  しかし、その日がくるのを悠長に待ってはいたくない。  俺は自ら看守を誘惑し、血を吸わせ、その効力を味わわせてやった。  すると性欲旺盛となった看守は誰彼構わず相手ができるようになり、週に二度も血を求めて通うようになった。この豚がそんな真似をして不審に思わないやつはいない。同種の人間同士は、相手の変化に敏感だ。こいつを問いただし、その理由を探り出すのに大して時間はかかるまい。そう計算した通り、三月(みつき)と経たずにこの日を迎えることができた。  それは、魔王の断首というレベルの予定をも早めることのできる権力を持った人物が、俺の血がもたらす効力を欲しているからである。  しかして、牢は出られても手枷をはずさなければならない。この苦痛の三カ月は、そのための準備に費やした。  魔封術の施された牢にあっても、すべてゼロにできるわけではない。人間の生命エネルギーに必要な程度の、微量の魔力はまとっている。  その微力な魔力をじっくり練り込み、歯型の残る定位置に魔法紋様を仕掛けておいた。その毒魔法は、命を失わせるには足りずとも、意識を酩酊させる程度の力はあるはずだ。  豚は最後の晩餐よろしく、牢を出る際に血をすするはずだと予測し、そしてまさしくの行動をしてくれたのである。 「んがっ」  豚は悶絶の顔をこちらに向け、泡を吹きながら足元に崩れ落ちた。  本来の魔力であれば即効性のあるしろものである。味の変化に気づくか多少の懸念はあったものの、何度となく繰り返してきた慣れもあったのだろう。  効力も文句なし、狙いどおりに効いてくれた。    驚愕に見開いた目が閉じられ、寝息が聞こえてきたのを確認したのちに、看守のポケットから取り出した鍵で手枷をはずした。足蹴にしたいところだが、時間と手間が惜しいため、つばを吐くだけで済ませて、階段のほうへと進む。  音を立てぬよう配慮しながら、日に三度、食事を運びに来ていたその足音から頭の中につくりあげたマップをたどり、手探りならぬ足で探りつつ、階段をのぼっていく。  連れて来こられたときの記憶から、この牢は城下町の北東の端、エンデの森のそばに建つユーア教会の地下であることはわかっている。  魔王の護送というからには、教会の前には重々しく騎士団が待機しているであろう。  一応は変化の術で相貌を変えるつもりではあるが、この囚人服までは変えられない。脱獄したのはまるわかりである。  しかし、階上のホールさえ凌げば問題ない。ここユーア教会には隠された裏口があり、出るとすぐに魔族の隠れ家へと繋がる洞窟がある。  この教会を収める神官は、下級の魔族と内通しているのである。    末端が人間とそのように繋がっていたことは、魔王の俺は知らなかった。しかし、今の俺は知っている。聖女率いる戦士パーティに打ち倒され、手枷をはめられた瞬間に思い出した。  この世界は『聖女の剣(セイントソード)』という名の乙女ゲームであり、俺はその制作チームの一人だったことを。  ラノベやアニメなんかでよくあるゲーム世界への転生なんてものが、現実にあるとは思わなかった。しかし、どうやら虚構のできごとではなく、しかもありがたいことに俺の身にそれが降りかかってくれたらしい。  俺はこのゲームの開発チーム主任補佐として、社畜のごとく自宅へも帰らず制作に打ち込んでいた。  このゲームは乙女ゲームでありながらもRPG要素を含んでいることが売りで、召喚された聖女が、魔族の反乱を鎮めるために冒険をしながら、攻略対象である三人のイケメンとの好感度をあげていく。最終的に魔王を倒し、ターゲットにした相手と結ばれてトゥルーエンドを迎える。その後やり込み要素として、エバーアフターモードが搭載されているが、その最終調整の段階で俺は担当を外されてしまった。  制作責任者であった上司が、自分の業績にするため、ほとんど俺がつくったといっていい我が子(わが子)を完成間近で取り上げやがったのだ。  しかしてゲームは大ヒット、上司は出世し、俺は口を塞ぐためか社内編纂室という名ばかりの窓際部署へと移動になった。  ゲーム開発を夢見て入社したその会社で、ようやく制作に携われる地位にまで上り詰めたというのにと絶望し、やけ酒を煽るようになった。そしておそらくは、激務による不摂生でぼろぼろだった身体が限界を迎え、心臓発作や脳溢血かなにかでぶっ倒れたのだと思う。    この三月(みつき)の間、漆黒の闇の中で考え続けていた。  前世の記憶が蘇った今、魔王として行ったことのない場所も、建物の間取りさえも、アルカディアーヤのそのすべてを知っている。憎き敵である聖女一向のキャラクター設定も、この先の未来に何が起きるかも、すべて知っている。  このゲームは、俺のつくった時点では全年齢対象だった、俺は乙女ゲームであっても老若男女が楽しめるよう苦心し、RPG要素をも入れてこだわった。しかし上司(あのくそ)は、完成間際で取り上げたあと、乙女ゲームなのだからと、レイティングをR18へと引き上げたのだ。  その理由はエバーアフターモードにある。魔王が斬首される残酷な展開もそうだが、乙女ゲームの真骨頂である、結婚したあとに当然する行為を盛り込んだからである。  上司(ごくつぶし)が改変したせいで、魔王の俺は終身刑であったところが斬首されることとなり、さらには血に妙な設定を付加された。俺の血『魔王の血清』とはエバーアフターを楽しむための、聖女が王子との営みに必要なアイテムとなるのである。  そんなアホみたいな展開をおめおめと享受していられるだろうか?  答えは、(ふざけるな)だ。  俺は前世の知識を活かして、再びこの世界を征服してやろうと、牢獄の中で決意したのだった。

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