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第1話

「じゃあまた、お先に失礼します」 「お疲れさん」 宇佐美 響は店の裏で背広に着替え、自分の荷物を素早くまとめると、若干申し訳なさそうにbar KARA を後にする。まだ8月中旬なのに、店のある歌舞伎町一番街は、昼間とは違い、涼しげな空気が宇佐美の体を包んだ。一度、伸びをして、夜空を仰いでも、曇っていて星を見ることはできなかった。 店の閉店時間は夜の12時と決まっているが、個人経営の店はそうはいかない。常連のお客様と飲んでいるなら尚更、ある程度は付き合わなければ、やっていけない。こんな時間になっても賑やかなこの街では当たり前なのか、それとも、バーを営む者にとってこれは当たり前なのか、人に迷惑がかからない程度に遊んで欲しいものだと、宇佐美は思った。 中島先輩はもっと、自分勝手に生きていい。そう思うが、宇佐美自身が中島をそうさせていない原因の一つであるから、あの常連たちと同じだ。情けなくて頭が上がらない。 宇佐美の本職はバーテンダーではない。昼間は池袋の春日通り沿いにある向井ピアノ教室で月・火・金、働いている。そのため、bar KARAの経営者であり、高校時代の先輩である中島 京介は、バーの仕事が昼間のピアノ教室、また、ピアノの練習に支障が出ないよう、宇佐美を閉店時間に上がらせている。 今日、先輩が家に着く頃には3時を回っているかもしれない。そう思うと、つくづく自分は甘えた男だと思った。先輩にはもっと休んでもらいたいと思いながらも、自分が迷惑をかけていることは紛れも無い事実だ。 「お兄さーん、可愛い子いっぱいいるからさ、遊んで行きなよ」 「仕事帰りに一杯どうですか〜?」 「急いでますので」 ガラの悪い、いかにもこの街の店のキャッチ、と思わせるような男たちを通り過ぎ、新宿駅から自宅のある池袋駅へ向かう。ピアノを弾く以外、これといった趣味の無い宇佐美にとって、毎日同じ作業の繰り返しである今の生活は、味気ないものだが、冴えない自分には、お似合いだと思っている。 「また、明日も同じさ」 そんな独り言を呟きながらほろ酔い状態のフラフラした足取りで、誰も待ってくれていない家へ急いだ。 4日後、宇佐美は3時半頃、山手線で池袋から新宿へ向かっていた。いつもなら座れる時もあるくらい、余裕のある時間だが、今日は違った。ホームの非常停止ボタンが押されたらしく、15分程電車は止まったままだった。車内は混み合っていて身動きがとれない。汗でシャツが肌に張り付く感覚はなんとも気持ちが悪い。周りに誰がいるかも分からないし、もし女が近くにいて、痴漢扱いされたら大変なことになってしまう。宇佐美は手持ちのバックを左手で抱きかかえるように持ち替え、右手は吊革に掴まった。吊革はドア付近の物で、少し高めだが、宇佐美の身長ならば、普通に届く。 車内のエアコンの効きは良いが、流石にこの混み具合ではそこまで涼しくならないし、しかも空気も悪い。次は高田馬場で止まるが、そこからまた、全く動かない時間が来るのだろう。 『高田馬場、高田馬場』 ドアが開き、外の熱気と共に電車を待ち構えていた大勢の人たちが車内に乗り込んできた。宇佐美は一旦吊革から手を離し、流されるがまま、開いたドアとは反対側のドアに押される状態になった。相変わらず車内は暑いが、ドアのひんやりとした感触に落ち着きを覚え、ハンカチで額の汗を丁寧に拭いた。ふと、車窓に自分の顔が写っているのに気がついた。電車で額の汗を拭うなんて、もう立派なオヤジだな、と思ったその時、電車が前進し、また、急に止まった。そのせいで、ハンカチを床に落としてしまった。慌ててしゃがもうともがくが、後ろからの圧が強くて体を動かすことができない。そんな状態のまま1人でオドオドしていると、何かが尻を包んでいるように感じた。バックにしては柔らかすぎるし、尻の形にフィットしている。少しの間、宇佐美の中でグルグルと考える時間があったが、ゴツゴツしていて、バラバラとした物が自由に動く感じから、自分は痴漢にあっているのだと理解した。男は太っているのか、自分の背中に男の腹が密着し、体温と存在感が嫌という程伝わってくる。 気持ち悪い。率直にそう思った。実際に痴漢にあったら腕を掴むとか、別の場所に移動するとか、考えたことはないが、きっと相手が離れていくのをひたすら待つのが普通なのだろう。いつか観た、警察と共に痴漢魔を取り押さえるドキュメント番組でも、痴漢にあった女たちは皆、そんなようなことを言っていた。 痴漢とは別で、宇佐美は人に体を触れられること自体、あまり好きではなかった、痴漢は誰だって嫌だろうが、普通に友人と話していても、肩を組まれたりだとか、頭を撫でられたりだとか、そういう普通のコミュニケーションが苦手なのだ。尻を撫でられているだけでも、どんどん気分が悪くなる。少女のような乙女心を持ってる訳ではないから、怖いだとか、助けて欲しいとかは思わない。自分を触っているのは同じ男で、しかもたぶんホモだ。ホモを差別したりはしないが、こんなことになっているのだから、そういう人に対する印象は下がる。 「あんた、ホモか?」 ギトギトした汚い声が宇佐美の耳元で囁いた。自分はこいつと同じ、ホモだと思われて痴漢されているのか?一体どこからどう見ればそうみ見えるのだろう。宇佐美は咄嗟に首を振った、相手が後ろにいるから、どんな男か分からない、だが、今の声からして、きっと宇佐美よりは年上の男だと思った。 「じゃあなんで、前、反応してんだよ」 宇佐美は何を言われてるのか分からなかった。自分のものが男の手によって反応しているなんて…… 宇佐美は必死に気持ちを落ち着かせ自分のそれが静まるように努力した。しかし、それとは反対に、男の手の動きは次第に速く動き始めた。心臓は知らない男に急に話しかけられた驚きと、触られている部分の熱のせいでバクバクだが、宇佐美も男だ、しかも自分は歌舞伎町の店で働いているんだ、という訳の分からない、中学生の様な気持ちが宇佐美をほんの少し奮い立たせた。 「……へ、変態野郎……」 ただ、それだけを言った。言ってみたものの、自分の心臓の音は消えない、なぜか恥ずかしさで、どうしようもなくなった。そして、まさか逆ギレとかしないよな、という不安が生まれた。 宇佐美の予想に反して、その言葉の後から痴漢男は何もしてこなくなった。そのお陰で、硬くなった宇佐美のそれはやっと落ち着きを取り戻した。 混み具合は全く変わらなかったが、無事に新宿に到着できた。しかし、新宿では多くの人が下車したため、痴漢男はどんな容姿なのかは最後まで分からなかった。振り向けば分かったのだろうが、顔を確認するほどの事ではないし、むしろ相手の事など知りたくもなかった。わざわざ痴漢男をどうこうしたいと思うほど、宇佐美は感情的なタイプではない。 ようやく店に着くと、まだ開店前なのに、数人の男たちの姿があった。3、4人といったところか。もしかしたら店の奥にもいるかもしれない。こんな時間に一体誰だ、先輩の知り合いか?それとも…… 「おい、お前ここのもんか?」 男たちの中でグラサンをかけた男がカウンターの方から、店の入り口にいる宇佐美に声をかけてきた。 「はい、そうです」 「彼はうちのバイトの子です」 中島が付け足して答えた。中島はカウンター越しでドリンクを作りながら、男たちの相手をしているようだ。 男は不機嫌そうに、酒を飲むと、こちらを睨みながらグラスを勢いよくカウンターに置いた。 「響、準備をお願いできるかな?」 「はい」 宇佐美は男たちの視線を無視しながら、店の裏へ急いだ。あの男たち、見るからにヤクザだ。この店を手伝うようになってから、今まで一度もそういった類いの人間を見たことはない。もしいたとしても、堅気には迷惑をかけまいと、なるべく静かに過ごしてくれていたと思う。中島先輩の知り合いか?でもそれなら、もっと愛想よく俺に振る舞うのではないか。それに店の雰囲気からして、歓迎しているムードではない。 宇佐美が店の裏へ入り、今あるお酒と、そろそろ発注が必要な物を確認していると足音が近づいて来た。中島先輩が男たちの対応を終えたのかと思い、振り返ると、そこには宇佐美よりずっと背が高く、目鼻立ちのしっかりした男が立っていた。艶のある黒髪は前髪の方は流しており、その前髪の奥にある冷たい瞳がなんとも言えない、危険でセクシーな雰囲気を漂わせていた。簡単に言えば色男だ。黒いスーツを纏った身体には、きっと鍛え上げた筋肉が隠れているのだろう。同じ男から見ても、羨ましい限りだ。しかしその思いは、すぐに打ち砕かれる。 「女みたいな形してんな、お前」 「っ!?」 初対面の相手に女みたいな、とは、せっかく綺麗な容姿をしているのに、一瞬でも男として見惚れた自分が馬鹿らしく思えてきて、一気に落胆した。こいつは失礼な男だ。 「ここのバイトなんだってな、お前、俺たちの要件ちゃんと聞けよ?」 「要件……とは?」 宇佐美はキョトンとした。ただ酒を飲みに来ただけには見えなかったが、要件とは一体何のことだ? 「なんだ聞いてないのかよ、ショバ代払えって言ってんだよ、最近繁盛してるんだろ?」 男は呆れたように髪をかき上げると、その手で宇佐美の背後に腕を回し、髪を引っ張って強制的に顔を上に向かせた。 「うっ……」 宇佐美は恐怖心と頭髪を引っ張られる痛みで顔を歪ませた。 「言う通りした方がいい、でないとバイトだろうが、経営者だろうが、どんな目に合うかわからないからな」 男は宇佐美の顔をまじまじと見つめると、満足したように手を離し、カウンターの方へ歩いて行った。 ーーショバ代 その言葉を聞いた時、カウンターの男たちと先輩の会話にも予想がついた。 歌舞伎町に店がある時点で、予想はしていたことだが、やはりその時がくるというのは、もう今までの店には戻れないという、これからの生活への覚悟をさせられるようで怖い。 さっきまでの出来事を、悪い夢だと思いたいが、あの男に掴まれた髪が、まだジンジンと痛んで、それを許さない。 冷や汗をかいてしまい、それを拭こうとポケットからハンカチを出した。額を拭こうとして、手を止めた。 いつだ、いつ、ハンカチを拾った。 宇佐美は、ハンカチを電車に落としてしまったのだ。それを、いつ取り戻したのか。 あんなに混んでいたのだから、しゃがむなんて無理だ。自分の周りにいた人でないと… 『お前、ホモか?』 男の声が蘇る。まさか、あの時の痴漢男か?でも、電車から降りた時には、まだポケットの中は空だった。 もしかして、今の男…… 「響ー!」 ハッと我に帰る。 宇佐美は考えるのを一時中断して、カウンターへ向かった。 男たちは、もう帰ったようで店の中はガラリとしていた。中島に呼ばれた宇佐美は、カウンターに座った。 「はー……遂に来たか」 「来ましたね」 自分にも十分関係のある話だが、当事者である先輩には、何と励ましの言葉をかけてあげればいいのかが、いまいち分からない。 「これからは、毎月くるんですか?あの人たち」 「いや、来させない。絶対に。金も渡さない」 「え?でも」 「髪、乱れてるぞ」 中島が宇佐美の頭をそっと触り、髪の毛を整えた。 「藤城にやられたのか」 「藤城? あの身長の高い男の事ですか?」 「ああ、下っ端たちがそう呼んでた。全く暴力的な奴らだ」 そう言うと、中島はカウンターを端から丁寧に拭き始めた。もう長いことこの店で働かせてもらっているから、中島がカウンターを拭く姿は何度も見て来た。だが、今日はいつものような穏やかな、余裕のある動きではなかった。 「とにかく、あいつらに好き勝手させないよ。ここは俺の店だ。俺が守らないと」 カウンターを拭いていた中島の手が宇佐美の目の前で止まる。 「これからはきっと今まで以上にお前に迷惑をかける。悪いが、これを期に他の仕事を探して欲しい。お前に危険な目にはあって欲しくない」 「そんな、迷惑だなんて、俺は今までずっと先輩にお世話になってきました。こんなことくらいでやめるわけにはいきません。それに俺だって男ですよ、必要になれば、いつだって戦えます」 「そ、そうか……心強いよ」 ちょっと笑ってみせた。上手く励ますことは出来ないが、これが宇佐美の精一杯だった。 正直、いつも温和な中島がヤクザへの支払いを拒否するとは思わなかった。 妹さんのためか、それ以外考えられない。

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