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第32話 身勝手な願い

「なに飲む?」  海莉の空いたグラスを持ち、神室が訊ねてきた。神室は自分のを取りに行くとき、なぜか毎回海莉の分も取ってきてくれるのだ。 「たまには俺が行くよ。なにがあるのか見たいし」 「おまえは歌える曲を探してろって」 「もう隅々見たって」 「見てない。コーラでいいだろ?」 「コーラは飽きた。他に何があるのか見たいんだって」 「あとはカルピスとかオレンジとか、爽健美茶とかしかない」 「うそ。他にもあるだろ? 自分で見たいからさ」 「だめだ。コーラとオレンジを混ぜたりとか、キモいことするから絶対に行かせない」 「……なんでわかんの?」 「わかるもなにも、いつもしてるだろうが」 「いいじゃん。好きなんだよ」  海莉は神室の手からグラスを二つひったくり、「隆司はコーラでいいんだよね?」と言って、いまだ制止しようとする神室の答えを聞かずに部屋を出た。  神室は海莉が勝手にすることでも、自分が否とすることをしようとすると看過できないらしい。ポテトチップスとポッキーを同時に口へ入れるようなことだ。交互に食べる場合は神室も嬉々としているのに、混ぜて食べると途端に忌避感情が湧くとは変わっている。  ジュースだって、コーヒーとポカリとかならキモいと思うけど、と海莉は考えて、試してみるのも面白いかもと思いつき、神室はぎょっとするだろうなとほくそ笑みながらドリンクバーへと向かった。  そこに、レイがいた。  突然のことに、グラスを落としそうになった。まさかのことだ。  廊下の角を曲がってすぐのところにあるドリンクバーの前に、レイが一人で立っている。  海莉は驚いて立ち止まったが、きゅっとスニーカーのこすれる音がしたせいか、レイの顔が海莉のほうへ向いた。  その瞬間、海莉は雷に打たれたかのように放心となった。    目が合ったのはどれくらいぶりだろう。  一ヶ月は経っている。期末テストも終わり、これから体育祭があるという時期だ。夏休み後半から数えれば、一ヶ月半はレイと目を合わせていなかった。 「海莉って、歌わないんじゃなかったっけ?」  笑みを見たのも一月半ぶりだ。遠慮がちなそれは、いつものあの花が咲いたような笑みとはまるで違っている。しかし、レイの笑みというただそれだけで、海莉は涙が出そうになった。 「……歌うよ。童謡とか」 「ドウヨウってなに?」 「『鬼のパンツ』とか」 「鬼の……パンツ?」  なにそれ、と続けて、レイはくしゃりと笑みを大きくした。  ああ、だめだ。  たまらなくなる。嬉しさや愛おしさが込み上げて、滲む涙を堪えきれなくなる。 「天王寺さんと来たの?」  慌てた海莉は話題を変えようとして、思いついたことを口にした。レイの傍らには必ず天王寺の姿がある。海莉の隣には神室がいて、遠くから目が合ったような気がしても、互いに逸らし合っていた。  まるでそのときのように、レイの顔が途端に強張った。 「……海莉は神室と来たの?」  問われたそれで、神室はレイが来ていることを知っていたのではと思いついた。知ったうえで、海莉と顔を合わせないよう気遣ってくれていたのかもしれない。  海莉はそんな神室の優しさにこの一月半何度となく助けられ、その意図することに気づくたび胸が締め付けられる想いをしていた。   「そうだよ。……隆司と以外は出かけたりしないし」 「へえ。他の人とは出かけないんだ」 「レイこそ、天王寺さん以外とは出かけないだろ?」 「なんで? ユウやエミとも出かけるよ。アオトやユウキとも遊ぶし」  レイが名をあげた生徒たちのことは知っている。天王寺と親しい友人たちだ。レイが言うのは、天王寺と二人ではなく、グループで遊ぶ機会もあるという意味なのだろう。 「友達がたくさんできたみたいだね」 「うん。無理にでもつくらなきゃ、一人でいてもつまんないじゃん……海莉に恋人ができたんだから」  海莉は飛び上がりそうになった。まるでそんな陰もないのに、思い違えるにしてもとんちんかん過ぎる。   「恋人なんてできてないよ」 「……ああ、兄弟だっけ? 表向きはそう隠してるんだね」  驚いたと同時に、海莉は納得した。レイと気まずくなったきっかけは、神室とキスをしていたものと誤解されたからだ。恋人だと思い違えていてもおかしくない。   「それ、隆司のことを言っているんなら、隠してることなんて何もないよ。兄弟ってだけだ」 「僕に嘘なんてつく必要ないよ。誰にも言いふらしてないでしょ?」 「レイに嘘なんてつかないって。あのときのあれは、そういうんじゃなくて」 「ごめん。侑李たち待たせてるんだ。もう行くね」  レイは突然慌てたようにして、器用にもグラスを四つ両手で持った。海莉は声をかけようとしたが、何を言えばいいやらわからず、ただレイの去る様子を眺めていた。  あのときの状況を説明して何になるのだろう。今さらだし、神室との複雑とも言える関係を伝えることになる。神室から好意を向けられ、しかし自分はレイを好きだから受け入れられないと応えて、今では兄弟として過ごしている。  そんなことをこんな場所で説明してどうなるというのだろう。微妙な空気になるだけだ。    レイは数歩ほど先の部屋へと入っていった。両手でふさがっている状態で開けられるのかと海莉は心配になったが、誰かが開けてくれたらしく、ドアが自動ドアのように開いて「ありがとー!」という声とともに姿が見えなくなった。  ドアを開けてくれて、両手がふさがるほどのドリンクを持って行く友人がいる。  レイは海莉とは違う。離れて寂しい想いなんてこれっぽっちもしていない。  今さら言い訳をしたところで、レイにとっては過ぎたことでしかないのだ。 『僕は海莉がいるから生きていけるんだよ』  二度と聞くことのない言葉が頭をかすめていく。何度も聞いた愛しているという言葉も、二度と耳に届くことはない。レイを見るたびに思い出すそのことが、繰り返し海莉の心を痛めつける。  友人が楽しい日々を送っているのなら喜んであげるべきだ。それなのに、以前のように二人だけの世界に戻りたいと願ってばかりいる。なんて薄情なやつなのだろう。なんて卑小な人間なのだろうと、考えるたびに自分が嫌になる。  しかしそんな独占したいという身勝手な欲望が、恋をするということなのかもしれない。

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