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第7話

彗月は小さな寝息を立てて寝ていた。頬に伝った涙をそっと拭ってあげると、いくぶんか表情が和らいで見えた。疲れ切ったような寝顔を見ているだけで、俺の心はぎゅっと締め付けられるように悲鳴を上げる。 ゆっくりと、彗月の頭に手を伸ばした。 だが、触れるか触れないかのところで手が止まった。 髪に触れるまで、あとたったの数ミリ。その先に手を伸ばすことができない。俺は拳を握ると、そのまま力なくだらりと手を下ろした。 彗月に吸血するとき以外に触れることは、ほとんどない。 俺が触れようとすると彗月は怯えたように肩を震わせ、嫌悪や恐怖感を滲ませる目を向けてくるからだ。 そのことに気づかないほど鈍くはない。むしろ、痛いほどわかっていた。それでも、吸血することを拒否されていなかったものだから、心の奥底で期待してしまったのだ。 もしかしたら、正式なパートナーになってくれるんじゃないか、と。 結局、そんなことはありえなかった。 はっきりと拒否された。 細い体が震え、瞳は焦点が合っていなかった。触れようと手を伸ばせば、体の痙攣はより激しくなる。 叩かれた腕が赤くなり、じんじんと熱を帯びていたが、腕の熱よりも、胸に刻まれた痛みの方がずっと強い。あんな反応をされてしまえば、もう一生彼に触れられない気がした。 「彗月……初めてこの家に来たときも、そうだったよね……」 問いに答える声はない。 それでも、俺は彗月の隣でしゃべりかけ続けた。そうすれば、幼いころの記憶が蘇ってきて、また昔のように戻れるんじゃないかと、そう祈りにも似た幻想を心に秘めながら。 * その日は、雪が降っていた。 呼吸をするたびに白くなる息や、手のひらに触れる雪がすぐに溶けて消えるのが面白くて、幼い頃の俺はそれがとても特別なものに感じられた。 「わ〜い! 雪だ!!」 「零夜様、いけません! そんな薄着で外に出ては、風邪をひいてまた旦那様に叱られてしまいますよ!」 お手伝いさんの横をひょいっと通り抜け、重たい玄関のドアを押して外へ出た。後から慌てた様子で追いかけてくるが、俺にはそんなの関係ない。 「うわぁ……綺麗!」 空からは綿毛のように白いふわふわとしたものが降り注いでいた。雨と同じで冷たいのに、不思議と嫌な感じはしない。 いつもなら緑の綺麗に整えられた芝生も、今日は真っ白に覆われていた。狙いを定め、降り積もった雪の上へ、ベッドに飛び込むみたいにジャンプした。 やっと追いついたお手伝いさんが、「あ!」と声を上げたときにはもう遅かった。俺の体は宙を舞い、白い地面へと吸い込まれていった。ぼふっと低い音がし、雪の中に着地した。 「あははは! 冷たーい!」 全部が初めて見るもの、触れるものばかりで、世界そのものが眩しく輝いて見えた。 太陽が沈んだ後、さすがに家の中へと引き戻された俺は、すぐにお風呂場へと連れていかれた。自分の手や足先が真っ赤に染まっていることにも、そこで気がついた。 お風呂から上がり窓から外の景色を見ると、まだ雪が降っていた。もう空は真っ暗で遠くまでは見えなかったが、雪が反射して時折キラキラと光っていた。 窓に張り付いてじーっと外の景色を見ていた時、ガチャッと玄関の扉が開く音がした。 「父さん!」 走って玄関まで行くと、思った通り父さんがいた。最近は会社が上手くいっていないせいで、家に帰ってくるのが遅い。 「おかえり……って、え? 誰その子」 父さんが横に一歩ずれた瞬間、淡い光が一人の少年を照らした。 雪で濡れた服からは水滴が落ちていて、玄関の床を濡らしている。細い肩は小刻みに揺れていて、手で押せば簡単に折れてしまいそうだ。髪の毛も乱れており、長い前髪が顔を隠していて表情はよく見えなかった。 「神代くん、この子は私の息子の天城零夜だ」 「天城、零夜……」 その子が俺を見た。 差し込んだ光が瞳の中で輝いていて、昼間見た雪の結晶のようにきらめいていた。初めて見る美しい瞳に、俺は視線が合った瞬間ドキリとした。 「零夜、この子は神代彗月くんだ。しばらくここで預かることになったから、仲良くしてやってくれ」 「う、うん……」 いきなり家にやってきた見知らぬ子に、少し抵抗感はあったものの、なぜか嫌だという感情は湧いてこなかった。むしろ、この子をもっと知りたい、そんな興味に似た気持ちの方が大きかった。 「天城零夜、六歳です。よろしくね!」 父さんがこの間のパーティーで、人は第一印象が大事なんだと言っていた。そのことを思い出し、にっこりと笑って手を差し出した。 だが、その子の瞳から一瞬で光が消えた。 顔色が急激に青ざめ、唇からは血の気が引いていく。焦点の合わない視線は、何もない宙を見つめていた。 「ひっ」 喉の奥から引き攣れるような音がしたかと思うと、その子は全身を震えさせ始めた。 「ど、どうしたの?」 「うわああああ!! 来るなああああ!」 心配になって手を伸ばしかけたが、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。異常なほどに震える姿に、一歩後ずさった。父さんがすぐにその子を庇うように抱えた。 「零夜、部屋に行ってなさい」 「で、でもその子………」 「行きなさい」 「……はい」 部屋へ戻ろうと足を踏み出すが、もう一度後ろを振り返った。まだその子は荒い呼吸と共に震えていた。 父さんの言う通り、ここから離れた方がいいのかな? でもまだ苦しそうにしている。助けてあげたい。 そう思ったが、父さんの冷たい視線で戻ろうとした足がすくんだ。俺はぶるりと身震いをして、階段を駆け上るしかなかった。 あれから何年たっても、彗月は時折あの日のように怯えた視線を俺に向けることがあった。その理由が知りたくて、過去に何があったのか尋ねたこともあったが、教えてくれることはなかった。 何度拒まれても、離れたいと思ったことは一度もない。けれど、もし彗月が拒む理由が俺なのだとしたら──── これから先も彗月の隣にいたい。 触れたい。 そう願い続けることすら、あまりにも残酷だった。

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