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No.7 三日目・執事「台風が近づく朝」

坊ちゃんの高層マンションにいるときと同じ時刻に目が覚めたが、窓の外はいつもより薄暗かった。 充電してたスマホを手繰り寄せ、習慣であるニュースの確認をする。 昨日は一日中バタバタしていたせいで、私としたことが、天気予報のチェックを怠っていた。 Webニュースによると、急に発達した熱帯低気圧が台風となって迫ってきているという。 坊ちゃんの乗った豪華客船は今朝、台湾の基隆港へ入港するはずだ。 ルート的に台風の影響はあまり受けていないはずだが、大きく揺れたりはしなかっただろうか。 昨晩お変わりなく熟睡されたかどうか、心配である。 アイロンの効いた長袖の白シャツに、黒いスラックスを身に着け、髪を丁寧にセットして眼鏡をかけた。 隙なく身支度を整えてから、テレビの天気予報で台風の影響を確認しようと居間へ移動する。 テレビはすでについており、画面の前には、起きたばかりなのかボサボサ頭のタンクトップが仁王立ちしていた。 (この下品なタンクトップ姿も段々と見慣れてきて、嫌悪を感じなくなってしまいましたね……。毒されているのでしょうか) 「おはようございます。猛烈な台風が日本列島に近づいているようですね」 「おはよう。俺もそれが気になって、テレビをつけてみた」 「この進路だと、坊ちゃんが乗った船の運航には支障がないとは思うのですが」 「あぁ、逸れてくれてよかった。多少は揺れたかもしれないが酔うほどではないだろう。CEOは乗り物にお強いし」 二人で画面を見ながら感想を述べていると、背後から突然叫び声が聞こえた。 「えーーーーーー!」 「ど、どうしたミカ」 「ど、どうされましたミカ様」 外の風音が強く、またもや彼女と白い犬が階段を下りる足音を聞き逃していた。 ミカ様はパジャマ姿のまま、我々も見ていたテレビ画面に釘付けになっている。 「いやだー!台風、直撃しちゃうじゃん!」 「いいえ。大丈夫ですよ。小笠原沖で発達した台風は北に向かって進んできますから、沖縄や台湾方面への影響は小さく済みそうです」 「執事の言うとおりだぞ、ミカ。それに大型の客船っていうのは台風くらいじゃビクともしないから安心だ」 彼女は腕組みをして私たちを睨みつけてくる。 「もう!なんの話してるの?台風、『本日深夜には関東直撃』ってテロップ出てるもん。『東京ももうすぐ雨が降り出すでしょう』だって。これじゃ、せっかくプールがピカピカになったのに、入れないよ」 そんな会話をしているうちに、窓ガラスにポツポツと大きな雨粒が当たり始めた。 お屋敷のある東京は、夜には暴風雨に見舞われ、深夜には突風などにも注意が必要らしい。 秘書と二人で視線を庭へと移し、留守を預かっている私たちはこのお屋敷の心配をしなければいけないことを、思い出した。 — 「そうだミカ様。忘れないうちにテラスの朝顔を屋内へ入れましょう。台風で飛ばされてしまっては大変ですからね」 ミカ様にお声を掛けると「はーい」と返事はあったものの、彼女は洗面所の鏡の前で身支度に忙しそうだ。 仕方なく、私は一人でテラスへ出て朝顔の鉢を窓辺へ取り込む。 今朝はコバルトブルーの花が、5つ咲いていて、中々に見事だ。 「ねぇ、執事のおじさん。ミカの髪の毛、二つに結んでくれる?」 宿題として花の数を記録していると聞いていたので、ミカ様へ報告に行くと、とんでもない頼まれごとをされてしまった。 「わ、私がですか?」 「だって、秘書のおじさんはトウモロコシのスープを作ってくれてるから」 筋肉オバケはミカ様のリクエストに応え、朝からミキサーを使いコーンポタージュスープを作っているようだ。 となると、私がやるしかない。 ミカ様はバレエを習っているそうで、真っ黒で美しい髪を腰まで伸ばしている。 一昨日お目にかかったときは、頭の高い位置で髪をまとめており、昨日は三つ編みに結っていた。 そのような技が、自分にできるとは思えない。 「ただ結ぶだけでよろしいですか?」 「それしか無理?」 「残念ながら、無理でございます……」 「じゃ、耳の横で結んでツインテールにしてほしいな」 私は彼女の指示を仰ぎ、ブラシを持って言われたままに手を動かすが、思うようには出来上がらない。 途中でミカ様は、「もうこれでいいよ」とおっしゃったが、左右の高さが微妙にずれている気がして、再びやり直しをさせていただいた。 (どちらかといえば、器用な方だと自認していましたが、認識を改めなければなりません……) 「おい、いつまでやってる。朝食ができたぞ。……あれ、ミカの髪、左が少し高くないか」 そう、秘書が声を掛けてきた瞬間、思わず汚い言葉を口にしそうになる。 そして、千葉の湾岸にて今朝も頑張っていらっしゃるだろうマドカさんに尊敬の念を送った。 — 朝食を食べ終わる頃には、雨脚が強くなっていたため、ミカ様の「プールで遊びたい」という気持ちは萎んでいった。 「代わりに、何して遊ぶ?」 そう言われても、私と秘書はただ顔を見合わせることしかできない。 「じゃあ、ハリーのコンサートを一緒に見よ!おばあさまが集めたBlu-rayがあそこの棚に入っているんだよ」 そういったご要望ならば私も賛同することができる。 「では、私は急いで掃除を終わらせて参ります」 「俺もキッチンを片付けて、昼飯の下ごしらえを急ピッチで終わらせる。ミカも昨日の絵日記、まだ書いてないだろ?誰が一番早く居間のテレビ前に集まれるか、競争しよう」 絵日記を猛スピードで書き終わり、一番早く居間に到着したミカ様にせかされて、朝食の一時間後には、Blu-ray上映会が始まっていた。 坊ちゃんが所属していたアイドルグループが、初めてドームでコンサートを行ったときの映像を見始める。 近所迷惑になる心配はないので音量も大きく、大きなテレビは臨場感たっぷりだ。 ミカ様は、会場にいるファンを真似て、手拍子をしたり、踊ったり、コールをしたりしている。 このグループが解散したとき、ミカ様はまだ1歳だったはずだ。 当然、坊ちゃんのコンサートを生で見たことはない。 「アナタは坊ちゃんのコンサートを生で見たことがあるのですか?」 小声で訊ねると、秘書は悔しそうに首を横に振る。 「私もです……」 32年間の人生において、もっとも後悔していることは、このアイドルグループの存在を知らずにいたことだ。 ミカ様と違って、この時代を生きていたのに。 見に行こうと思えば、行けたのに。 酷く悔しい。 (これでもし秘書が「見たことがある」と答えたのなら、私の悔しさは限界突破していたでしょうけれど) 「執事のおじさんは誰が推し?」 「もちろんハリー様でございます」 「秘書のおじさんは?」 「俺もメンバーカラー・オレンジのハリーに決まってる。ミカは違うのか?」 「ミカはね、紫色のムッチが推し!」 ムッチは可愛い系の目がクリッとした男の子で、特にダンスが上手だ。 ミカ様の目はハートになっているが、グループ解散後、他のメンバーをメディアで見ることは、ほとんどなくなってしまった。 ムッチも、今どこで何をしているのか分からない。 先日、秘書が言っていたように、このグループはあのタイミングで解散して正解だったのかもしれない。

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