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No.22 八日目・秘書「しっかりしなくては」
「他には何が書いてあったのですか?要求は?」
マドカさんは、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
いや、落ち着いたわけではない。
怒りが彼女を、妙に冷静な精神状態へと導いているのだ。
『あの男の要求は、私自身がお金を持って指示された場所へ行くこと。そこにミカがいるって書いてあったわ。場所はこれから連絡するから屋敷で待つようにって』
執事は不安を抑えきれず俺の腕にしがみついていたが、徐々にいつもの切れ者に戻りつつあるようだ。
今はもう強張りも取れ、俺を掴む指の強さも弱まってきた。
『今日、大きな商談があることを知った上で、それを邪魔したいんだわ。私が会社の代表としてやってるSNSに商談の意気込みを書いたばっかり……。とにかくこれから屋敷に向かいます』
「どうか、慌てずに安全運転で」
『ありがとう』
つまりマドカさんは、大切な仕事を部下に任せることになったわけだ。
これも父親の望みの一つならば、それは叶ってしまったことになる。
「私たちはまず、朝食を食べてしまいましょう」
通話を切ったあと、執事がそう言う。
「今?そんな場合じゃないだろ?」
「いいえ。私たちは、しっかり動けるように備えておかなければいけません。アナタがよく言う効率的な判断をしたまでです」
執事の言うことも、もっともだ。
俺たちは食堂に行き、それぞれの席につく。
ミカがいないだけで、テーブルが広く感じた。
すっかり冷めてしまったエビとトマトのオムレツと、スープと、クロワッサンを、温め直すことなく黙って食べた。
味なんて何も分からない。
ただ、エネルギーを補給するために、咀嚼し、飲み込んでいく。
いつもならクロワッサンを小さく千切って上品に口へと運ぶ執事も、今はそのままかぶりついていた。
俺は、秘書よりも一歩遅れて、身体が恐怖に乗っ取られそうになっている。
手が震え、スープを飲むためのスプーンが器と当たり、カチカチと音を鳴らしてしまう。
ミカは痛い思いをしていないだろうか。
怖くて泣いていないだろうか。
「おじさんたち、助けて」と叫んでいないだろうか。
(しっかりしなくては。おそらく目的は金銭だ。俺たちがちゃんと立ち回れば、ミカは無事に戻る)
食事を終え、自室へと行っていた執事が戻ってくる。
ドンッと音を立てて、俺の前にエナジードリンクの瓶を置いた。
彼自身も一本、手に持っている。
「さぁ、アナタも飲んで。なんとしてもミカ様を救出いたしましょう。私はレディが、ほんの少しの傷でも負うことがあったら、犯人のことも、自分のことも許せません」
「あぁ。そうだ。そうだな」
俺たちは頷き合って、酷く不味いドリンク剤を飲み干す。
身体がカッと熱くなり、滞っていた血が、全身に巡り始めたのを感じた。
—
テーブルに置いてあったスマホに、マドカさんから連絡が入る。
執事はスピーカーモードにして、電話に出た。
『あの男からメッセージが届いたわ。「現在地を送れ」って書いてあったから、車を停められるところまで行って、位置情報が分かるアプリをスクショして送信したの』
彼女は今、イベント会場のある千葉から離れ、もう東京へ入ったそうだ。
(位置情報を確認するということは、やはり商談を潰すことが目的の一つだったのだろう。なんとゲスい野郎なんだ)
「それで先方はなんと?」
『「ミカは今、ある男と動物園にいる」って写真が添付されていたわ。屋敷から車で40分くらいのところにある、多摩のほうの動物園よ』
俺は、スマホに向かって問う。
「写真っていうのは、ミカの?ミカは、怪我をしたりはしてなかったですか?」
『えぇ、元気だった。動物園の入口で撮った写真で、あの子、すごく笑顔だったの』
「笑顔?」
『ミカ一人が写っている写真でね、撮影してる人に対して笑いかけていたわ。確かに人見知りをする子ではないけれど、知らない人に対して、あんなにも無防備ではないと思うのよね……』
「つまり、動物園に連れていったのは、父親だと?」
『いいえ。それはないわ。あの子の父親とはミカが物心つく前に別れているの。だから懐いてなんかいないわ。それに「ある男と」ってわざわざ書いてくるんだから、違うと思うのよね。アナタたち、心当たりはある?』
祭りで知り合った誰かだろうか?
山本さんちの和彦くんは高校生だし、ミカを勝手に連れ出すなんてことはしないだろう。
他の役員や、お手伝いの人、青年団の顔も浮かぶが、思い当たるような人物はいない。
『それでね。今から動物園でミカを探し、一緒にいる男に50万円を渡すようにっていう指示なの。お金とミカを交換だって。とにかく私はこのまま車で、動物園へ向かうわ』
「俺も今すぐに車で動物園へ向かいます。俺のほうがマドカさんより、かなり早く着けますから」
『お願いするわ。執事さんにはお金の用意をお願いしてもいいかしら?後ほどちゃんと返しますから』
「お任せください」
『それじゃ、執事さんには後ほどまた連絡します。お金を用紙して、幹線道路まで出て来てもらうことになるわ。それで私の車で、一緒に動物園に向かいましょう』
通話を切ってすぐ俺は車の鍵を掴み、「行ってくる」と執事に告げる。
執事は、ミカの麦わら帽子と万華鏡を差し出してきた。
「ミカ様に持って行ってあげてください。動物園は暑いはずですから」
「わかった」
「よろしく頼みます」
執事は、深々と頭を下げた。
—
俺が玄関ホールへ行くと、当たり前のようにサモエドのユニがついてくる。
「オマエも行くか」
そう問えば「ワン!」と返事を寄越す。
食堂にいる執事に大声で、報告だけしておく。
「ユニは俺が連れていくからなー」
玄関に置いてあるリードも荷物に加え、「行くぞ」と白い犬に伝えて、駐車場まで走った。
オレンジ色の愛車の助手席ドアを開けてやると、利口な犬はシートの上に上手に座り、前方を見据えている。
「ユニ。ミカを迎えに行こう!」
俺は、ナビに動物園の場所を入力し、アクセルを踏み込んで屋敷を出発した。
通過した隣の家では、山本さんが洗濯物を干しているのが見える。
その先には、ミカとユニの散歩に何度か来た公園があり、夏祭りでも見かけた子が、蝉取りをしていた。
角を曲がるとクロワッサンの美味いパン屋があり、その向こうには食材を買いに行った大型スーパーがある。
執事と二人でギスギスした時間を過ごすことにもなりかねなかった、この夏季休暇。
ミカのお蔭で、とても楽しい夏を味わうことができた。
(CEOにも、昨日送りつけてしまった浴衣写真の説明がまだ出来ていない。アナタの姪っ子と、アナタの大切なお屋敷でこんなことをした、あんなことをしたと、楽しい話をたくさん聞いてもらいたいんだ)
無事に祭りが終わった翌日に、俺と執事が油断したばっかりに、ミカに辛い思いをさせることになって、今は猛烈に悔いている。
でも執事にも言ったように、反省はミカの無事が分かったあとにすればいい。
今はとにかく、彼女の無事を祈り、少しでも早く駆けつけてやることが、俺にできる全てだ。
オレンジ色の車はナビに導かれ、動物園へと近づいていった。
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