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第2話 御曹司とは

 お茶に誘われたものの空腹になりつつある。  彼から店の希望を聞かれたので、生田はカフェではなく昼食にしないかと提案してみた。  初対面での食事に気が引ける人は少なくない。しかし生田は街で女性に声をかけられるのは日常茶飯事であり、食事だけでなく翌朝までともにするくらいなので、考えなしに誘いをかけたのだった。   「え、あ、はい。構いませんが……」  すると男性は、思ってもみなかったとでもいうように動揺した様子を見せた。  そこでようやく距離感を見誤ったことに気づく。 「無理にとは申しません。昼食というには少し早いですから」  後から撤回してみるも、彼は目を泳がせながらも快諾してくれて、何が食べたいかを問い返してきた。  東京へは年に一度も来ないから好みの店などわからないと答えると、何度も言い淀みながら「もしよければ馴染みの店へお連れしたい」と言ってくれたので、彼に任せることにした。 「中華料理店なのですが……」 「いいですね、大好物です。中華は自宅でつくるよりも店で食べるものですからね」 「お時間はどれくらいありますか?」 「え?」  なんの時間だろうと聞くと、店はここから車で1時間はかかる場所にあるのだと言う。  電車や地下鉄で行くと乗り継ぎの関係でさらに30分はかかるらしい。 「最終の新幹線に間に合えば構いませんが、わざわざそんなところにまで行くんですか?」 「ええ。せっかくですから……」  1時間もかかる距離のタクシー代に戦々恐々としていたら、ビルを出たあと彼は、なぜか路肩に停まっていた黒のセダンへと歩み寄っていく。  すると運転席から白手袋をはめたスーツの男性が降りてきて、丁寧な所作で後部座席のドアを開け、彼に向かって恭しく頭を下げた。 「参りましょう」  彼から乗るように促され、生田はおずおずと車に近づいた。  この車はもしかしてプレジデントだろうか。だとしたら公用車やハイヤーなんかで使われるような車種だ。  生田に続いて彼も乗り込み、スーツ姿の男性はドアを閉めて運転席へと向かっていく。  男性はもしかしなくても運転手であろう。  高級車とお抱え運転手。ということは彼は── 「瑞鳳(ずいほう)へ」 「かしこまりました」  彼の言葉を受けて運転手はハンドルを切り、車は静かに発進した。  彼は、久世(くぜ)(とおる)と名乗った。  現在は大学院で修士課程に進んでいるらしい。  聞き馴染みのある名字に反応すると、与党の総裁選に出馬している久世議員の孫であることも口重く説明してくれた。久世議員と言えば幅広く会社を経営している財閥系の富豪でもある。  オメガが似合うわけだと思いながらも、おどおどとして世慣れていない態度の彼をまさか御曹司だとは思うまい。    天は二物を与えずというが、おそらく180センチは超えているであろう長身のうえに、切れ長の目が特徴的な美貌は俳優かモデルと見紛うレベルである。  艶がかった黒い髪が恐ろしいほど綺麗で、洗練された所作を見るに、立てば芍薬云々の文句を口にしたくなるほどだ。  その美貌に気を取られて服装にまで目がいかなかったが、一見なんでもないウールコートはよく見ると素材が自分のとまるで違う。  0の数が二つ、いや三つは違うような気がしてきた。   「私は、映画のほうは見たことがあるんです」  気恥ずかしげに、頬を淡く染めながら、伏し目がちに久世は言った。  彼の美貌とコートに目を奪われていた生田は、声をかけられてハッとする。   「映画って『戦争と平和』ですか?」 「はい。有名なのはオードリー・ヘップバーンがナターシャを演じているハリウッド映画ですが……生田さんはご覧になられましたか?」 「えっと……」  オードリー……なんだっけ? 誰?    返答に詰まったからか、久世は伏していた目をこちらに向けた。  その瞬間、生田は息を呑んだ。  美貌の主となっている切れ長の目に上目で見られて、射抜かれたようになり、心臓が跳ねてしまった。   「古い映画ですから、ご存知ないのも無理はありません。最近でしたらイギリスのBBCがドラマ版を制作しておりましたが、そちらは……」 「えっと……申し訳ありません、映画やドラマには疎くて」  答えたら、彼は再び顔を伏せてしまった。   「こちらこそ失礼いたしました」 「いえ、ですが興味はあります。その、ハリウッドのほうは映画だとおっしゃっておられましたけど、二時間くらいであの長編をまとめているのですか?」  今度の返答では、彼の顔をあげるのに成功したようだ。  切れ長の目は細められ、口元は微笑というには大きい角度にまであがった。 「最後まで描かれているようですが、三時間はあります。ロシアにも映画版がありまして、そちらのほうは……」  彼はもしかしたら、いやもしかしなくても、映画マニアっぽい。  オタク語りとはこういうものなのだろうかと薄ぼんやりと考えてしまう速度と熱心さで、そのロシア産の映画版について滔々と語り始めた。   「……そのボンダルチュク監督がピエールを演じているのですが、年齢的にナターシャ役のサベーリエワと離れすぎていて違和を感じてしまう点が難ですね。ですが、アンドレイを演じているチーホノフは端正な顔立ちで演技も上手いですし、原作そのままだと聞くので、原作既読の方は一見の価値があるのではないでしょうか」 「それは気になりますね。あの中ではアンドレイに感情移入をして読んでいるので、ピエールに違和感があっても見てみたくなります」  生田は場を盛り上げることを率先するタイプであり、聞き役に回ることをむしろ嬉々として引き受ける。  自分と対面した相手は笑顔でいて欲しいというのが、彼の享楽的な性格から生まれた願いだからである。  楽しく心地よく時が過ぎるためなら、多少の労苦は惜しまない。  そんな生田の仕事は製菓会社の営業である。  1時間と経たないうちに久世の馴染みの中華料理店へ到着し、恭しく頭を下げられた店員から案内を受けて奥の間に通された。  二人きりなのに、10人は囲めそうな円卓である。  メニューを探すも見当たらず、きょろきょろとしていたところに、店員が湯気のたつ料理を乗せたワゴンを押しながら現れた。 「老酒(ラオチュウ)はいかがですか?」 「はい」  店員がテーブルに置いたくれた杯を持ちあげると、久世はその中に黄金色の液体を注ぎ入れてくれた。  昼から飲む習慣はないが、よだれが垂れんばかりの芳香を漂わせる料理を前に、断るのは無理というものだ。  料理は、ボーナスが吹き飛ぶのではと怖気づくほどの美味さだった。  とはいえ、カードに頼る生活でもないし、貯金もある。  将来が決定づけられたショックを美食で紛らわせるというのはありだ。  未だにボソボソと『戦争と平和』の映像版の違いを語り続ける久世に対して適当なタイミングで相槌を打ちながら舌鼓を打ち、支払いについては考えないことにした。 「そのヴャチェスラフ・チーホノフの凛々しさと言ったら、DVDを停止してしまうほどでして、彼が舞台から消えるときは何度見ても涙が出てしまいます」 「え……まさかアンドレイは……」 「あ、いえ画面から消えるときと言う意味です」  軽いネタバレを食らいながら食事は進み、これ以上食べたら口から出るというところにまで来たとき、彼は用を足しに席を立った。  必要に駆られたかもしれないが、彼から誘われたことと彼が御曹司であることを併せて考えれば、その行動は普段なら生田のほうがしているはずの仕草ではないかと推測した。  間を置かずに生田も席を立ち彼の後を追ったが、彼は本当にトイレに行っただけのようだった。  丸くした目を伏せ、「参りましょう」と言われて店を出るように促される。  そしてそのまま、いつの間にやら店の前に停まっていたプレジデントに乗り込んだ。 「父の友人の店なんです」    なんとトイレに立つ振りをして会計を済ませるどころではなく、そもそも払う必要自体がないらしかった。  御曹司とは、単に金を持っているのとはわけが違うようだ。    またも1時間かけて山の手のほうへと車は進み、今度は東京駅のロータリーにつけてくれた。  生田は降車する前に小説を取り出して、久世に差し出した。 「僕はもう読んでしまいましたので、もしよろしければ受け取ってください。新品ではありませんが、購入していらっしゃらないようでしたから」 「そんな、悪いですよ」 「では、試し読みということでお貸しします。お礼するにしても他に思いつきませんし、次にお会いする機会にお返しいただければ結構です」  生田が笑顔で言うと、久世はおずおずとしながらも受け取ってくれた。 「ありがとうございます。必ずお返しします」 「おそらく来月あたりにまた東京へ出てくることになると思います。もしお時間が合いましたらまたお茶でもいたしましょう。いただいた連絡先にご連絡いたします」 「……わかりました。その時までには読み終えて、感想をお伝えできればと思います」  何やら目を潤ませた久世に生田は重ねて礼を伝え、二人はそこで別れた。

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