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第3話 異化効果
生田にとって、久世と交わした口約束はなんのこともないことだった。
御曹司などという物珍しい人物と酒を飲み、二度と口にできないであろう食事を楽しんだことを頭に浮かべたのも二日程度で、すぐ忘れてしまった。
刹那的に生きている生田は、友人や同僚、もしくは関係をもった女性が自分に対して好意を抱こうが嫌悪を覚えようが頓着しない。
そもそも人と深く関わる気がなく、相手が距離を詰めてくる前にさらりとかわす術にも長けている。
その自負と調子の良さから、相手が望むことや求めているであろうことを察知するやいなや安易に口にしてしまったり、先の希望をチラつかせるような約束をしてしまうことも少なくない。
生田に近づく相手も同じタイプが多いからだが、ほとんどが社交辞令止まりであることも知っているからだった。
だいたいの人間が一度会った程度で他人に執着はしない。
互いに刹那的に楽しむ時間を過ごしただけならばなおのこと。
稀に本気で約束を守ろうとする人もいるが、だとしても喜んで相手をすればいいと考えている。
去る者を追わない分来る者も拒まない、そんな性質を生田は持っていた。
久世と交わした約束も、普段と同様に考えもなしにしただけで、みどりに呼ばれて東京へ行ったとしても彼に連絡を入れるつもりはなかった。
しかし久世の方は違っていたらしい。
「久世さんですか?」
東京へ行った日の四日後、いつものように昼食を買うため職場近くのコンビニに入って目にしたのは、この場にそぐわないどころか、異世界から別次元の人間が現れたかのごとくおかしな光景だった。
一目で高級だと見て取れるスーツは身体にフィットしていて、おそらくはオーダメイドなのだろう、見事なほどのスタイルのよさを引き立てている。
ドリンク売り場の冷蔵庫の前で商品を眺めている姿は、よくて合成映像、もしくは異化効果と言った具合いにあり得ない場面だった。
生田の声に振り向いた久世は、その端正な美貌を彫刻のように硬直させていた。
「どうしたんですか? ここ、僕の職場のすぐ近くなんですよ。奇遇もここまでくると驚きますね」
おかしさを堪えながらなおも声をかけると、彼は再起動したのか息を吹き返し、今度は目を泳がせ始めた。
「本を、本を返しに……」
「えっ?」
嘘だろう?
まさかの答えにおかしさを堪えきれなくなり、にやけてしまった口元を慌てて隠した。
「だとしてもわざわざ持ってくるなんて、そんなにあの小説が面白かったんですか?」
少ししたらまた東京へ行くと伝えたのに、律儀の度が過ぎている。
しかも、連絡を入れればいいものを職場近くのコンビニで待ち構えているなんて、考えなしに来てしまって狼狽えているかのようだ。
いや、もしかしたら事実かもしれない。
だとしたらなおのことやばい。おかしくてたまらない。
「僕はこれからお昼休憩なんです。せっかくいらっしゃったのでしたら、ご一緒にいかがですか? それとももう済ませてしまいましたか?」
すっかりその存在を忘れていたはずの久世が見せるおかしな行動に気が緩み、生田はまたもや気安い気持ちで誘いをかけた。
すると彼は狼狽えて震わせていた身体をハッとさせ、泳がせていた目を丸くしてこちらに向けた。
「いえ、まだです。その、よろしいのですか?」
「ええ、コンビニで済ませようとしていましたが、せっかく来てくださったのなら、今度は僕が前回のお礼をさせてください」
「お礼だなんて……」
生田は思いつく。
同時にそれがもし現実となったらと想像してニヤけてしまう。
「近くに美味しいラーメン屋があるんですよ。あ、ラーメンお好きですか?」
八海亭は、生田にとって一番美味いと思うラーメン屋であり、友人を連れて行くのに自信を持って誘える店ではあるが、御曹司を誘うような店ではない。
だとしても、この近くで味的に匹敵する店は他になく、車で移動するような店は休憩時間だけでは足りないため他に選択肢はない。
「ええ、ラーメンは大好物です」
久世の思わぬ返答を聞いて、とうとう吹き出してしまう。
嘘つけよ! ラーメンなんて単語も生まれて初めて口にしたんじゃないか?
笑いすぎて涙で滲んだ目を見られないように、きょとんとした久世から慌てて顔を背けた。
八海亭へたどり着き、券売機で彼の分も購入し、店員から案内を受けてカウンターに並んで腰を下ろした。
確かに味は美味い。
しかし、店内は古いうえに汚らしく、床はベタベタとして靴が粘着してしまうような店だ。
そして生田と同じ考えのサラリーマンで店は混雑していて、相席しなければ座れないほど狭い。
そんな中で身を縮こませ、伏し目がちに周りをきょろきょろと伺う久世は、またも異次元に現れた異世界人のようである。
ラーメンが届いたあと、久世は緊張しているのか、ラーメンが熱いのか、眉間に皺を寄せ、すするでもなく、パスタでも食べるかのようにおちょぼ口で食べ始めて、なんだか可愛らしく見えてきた。
最後の一滴まで丁寧にレンゲで食べきったところを見ると、意外にも舌に合ったらしい。
箸を置いて頭を下げた久世は、口の中で「ごちそうさまでした」と呟いていた。
中華料理店でもわざわざ料理長を呼び出して、料理の美味さと感謝を伝えていたのは、知らぬ世界のマナーなのかと思ったら久世特有のものなのかもしれない。
見つめていたら久世の目がこちらに向いた。
目が合った途端に彼はみるみる顔を赤らめ、視線を逸らしてぽつりと言う。
「ご評判通りでした」
なんだろう、一度可愛いらしいと感じてしまったことで、彼に対する印象が変化してきた。
女性に対して感じるように、妙にドキドキしてしまうのだ。
恋なんてしたことのない生田にとって、そのときめきとはつまり性欲に直結するものである。
なぜ男にそんな感情を?
不思議に感じながらも慌てて振り払う。
「それは良かったです。混んでいるのでもう出ましょう」
生田は退店を促し、店の前に出て灰皿を見つけたので煙草に火をつけた。
気持ちを切り替えるためにはニコチンが必要だった。
「久世さんはこれからどうなさるのですか?」
さすがに本を返すためだけに来るなんて無理がある。
しかも連絡も入れずにだ。
他の用事のついでであるに違いない。
「えーっと、とりあえずこれはお返しします」
久世はバッグから丁寧に包装された小説を取り出した。
「ありがとうございます」
生田は煙草を持っていない方の手でそれを受け取る。
そして久世のさらなる返答を待つも、彼は渡し終えて満足したとでもいうように景色を眺め始めた。
まさかのまさかかもしれない。
本当に、ただ返しに来ただけっぽい。
嘘だろう?
修士って暇なのか?
「もしご予定がないようでしたら、今晩飲みに行きませんか? 明日は休日ですし、急いで帰ることはないのでしょう?」
それならばと思って、さらなる誘いをかけた。
御曹司というだけでも物珍しいのに、聞くも想像するイメージとは懸け離れた気の弱さと、なにやら好意を感じずにはいられない人柄、そして奇妙なほどの行動力を持つ彼に興味が湧いてきた。
「え、あ、……その、えっと」
やはり予定があるのだろうか?
彼はきょろきょろとするまでにはいかないがまたも目を泳がせ、かすかに肩を震わせもし、何度もスマホを見たりポケットにしまい込んだりしている。
「……よろしいのですか?」
そしておずおずと、上目遣いにこちらを見て彼は問い返してきた。
「久世さんがよろしければ」
答えると、彼は嬉しげに口元を緩ませた。
その表情がなんとも可愛らしく、またも動揺してしまう。
男が見せたらキモい仕草なのに、彼の場合は魅力を増す効果があるらしい。
「では仕事が終わったらご連絡いたします。それまでお待ちいただけますか?」
「はい、もちろんです」
すっかり忘れていたはずなのに、今度ばかりは二度と会えなくなっても忘れることなどできそうにない。
わずか数時間で強烈な印象を植え付けてくれた久世に挨拶をして、生田は仕事へと戻った。
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