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第1話
二年前に会社を辞めた。
36歳で独立して、ガムシャラに働いてきた。家庭など顧みず、とにかく会社を大きくすることだけに命を懸けてやってきた。私が57歳の時、妻の百合子に癌が見つかった。末期だった。それまで妻のやっていた家事がどれほど大変な重労働だったか、その時初めて知った。そして会社の上場を機に、退職を決意した。妻の快復を心から願っていたけれど、介護のかいなく昨年9月に百合子は還らぬ人となった。すっと眠るように、穏やかに息を引き取った。葬儀の時ですら、あなた、心配かけてごめんなさい、もう大丈夫よ、と、今にも起き上がりそうな気がした。私は、妻の優しさに甘えていた。良い夫ではなかったこと、良い夫であろうと努力しなかったことを後悔した。
「ふぅ‥‥‥」
よっこらせ、と玄関に腰を下ろして、カラになったジョウロを足元に置いた。庭の野菜や花達への水やりが、毎朝の日課だ。最近は腰が痛くなってきて庭いじりも休み休みだ。昨年は妻の遺品の整理と一緒に、築27年の我が家を改修した。玄関の小窓から柔らかい陽射しが足元を照らしている。
9月も半ば近いが、秋雨に混じってポツポツと夏日が現れる。今日の最高気温は30℃とのことだから、熱中症に気をつけねば。庭いじりが終わればとりあえずやることはないので、掃除と洗濯が終われば近所の公園へ散歩に行ったりホームセンターまで買い物に行ったりして過ごす。それ以外にやることといえば、小学校の登下校の見守り運動くらいだ。時間は有り余るほどあるが、もともと仕事人間で趣味らしい趣味もない。一時期、料理に凝ってみたりもしたが百合子の味を超えることは出来ずほどほどになった。昼はもっぱら外食で済ます。孫の1人もいれば違うのかもしれないが、都内に住む一人娘の麻由子は結婚する気配すらない。あまり娘の人生に口を出すのもどうかと思うが、もう32歳なのだからそろそろ真剣に考えてほしい。
朝起きてすぐに沸かした、程よく冷めた麦茶を一杯飲んでシャワーを浴び、外に出た。腕時計を確認すると、まだ8時前だった。
「おはようございます」
「おはようございます」
隣家のご老人と差し障りのない挨拶を交わす。垣根のあたりに一輪だけ、白い彼岸花が咲いているのに気づく。綺麗だなと思って見つめていると、聞きなれない若々しい声がした。
「おはようございます!」
斜向かいにある、アパートメントの方から40代くらいの若い男と、歳の頃は7、8歳の小さな男の子だ。男は灰色のスーツを着て、通勤カバンを右手で、左手に男の子の手を握っている。人懐こそうな笑顔で、もしかしたら30代かもしれない。スーツ姿なのはこれから出社するからだろう。男の子はスカイブルーのTシャツと紺色のハーフパンツで黒いランドセルを背に、父親に連れられていた。痩せっぽちで髪には寝癖がついており、つり上がった大きな目をしていた。毎週、登下校の見守り運動はしているが、この子は一度も見たことのない子だった。
「おはよう」
「‥‥‥‥‥‥」
私が声をかけてもなんの反応もない。父親の後ろに隠れてしまった。
「こら、タクト、ちゃんと挨拶しなさい」
「‥‥‥‥」
どうやら、とても人見知りの強い子のようだ。ますますもって父親の後ろから出てこない。子どもからは結構好かれる方だと思っていたのでちょっとショックだ。
「すいません、コイツすごい人見知りで。引っ越してきたばかりなんで余計に。」
「そうですか。いつ越してこられたんです?」
「おとついです。あそこの秋名コーポへ」
「そうでしたか。ここに住む、泉と申します。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。高山と申します。」
それではまた、と微笑むと高山は息子を連れて早足で、小学校へと続く曲がり角へ消えていった。二学期も始まって2週間以上経つのに、転校なんて珍しいな、と思いながら私は少年に手を振った。最後にちょっとだけ手を振り返したのが見えて、微笑ましかった。とても恥ずかしがり屋なのかもしれない。
自分が高山ぐらいの歳の頃は、麻由子のことは百合子に全て任せきりで学校行事さえロクに出なかった。今の父親は感心だな、と思う。麻由子ももう30代。あの頃の小さかった麻由子の写真を見ては、後悔するばかりだ。
ーーやれやれ、歳を取ると過去のことばかり考えてしまうな。いや、過去のことばかり考えるから歳を取るのかもーー
ふ、となぜか笑みが零れる。そういえばこんな風に、初対面の人間と話したのも久しぶりだ。会社を辞めてからというもの、役所と病院以外で新しく知り合うことなどほとんどない。なんとなく気恥ずかしいような、嬉しいような気分だ。すると、とりとめもない考えを遮るように電話の鳴る音がして、急いで家の中に入った。
つづく
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