4 / 4

第4話

母親はずっと怯えていた。 俺のSub性に気付いた日から、ずっと。 だから、俺にも検査なんて受けさせなかった。 あの頃の俺は、理由がわからない不調や強い眠気に苛立って問題を起こしてたから その日学校にいなくても、気づくやつなんて、一人もいなかった。   親父は無関心ってわけじゃなかった。「検査の結果は問題なかった」という母親の言葉を疑わなかっただけだ。 ……それでも、「一時的なものですぐに落ち着くよ」と母親を励ます姿も見た気がするし、「一緒に走らないか?」って時々俺を外に連れ出そうとした。 気の強い妹は俺が何をしようが、どう言われようが、変わらずに懐いてて、叱って、心配してくれていた。   そんな家族が完全に終わったのは16の秋。 その頃の母親は俺のSub性を隠し続けることに疲れ切っていた。抑制剤を、いくら飲んでも効いていないように見えた。 だから、『本性』が現れる前に、Domの男に縋った。 『不倫』はすぐにバレて、離婚。 それでも母親は、Subだと知られたくない一心で、俺だけは渡さなかった。 親父は妹だけを連れて、家を出ていった。   それから数カ月後、俺が17の冬。 泣き続けていた母親が連れ込んだ男がDomだったのも、……まあ仕方ないと思う。 ただそいつが、息子の俺もSubだと知って「Subは男の方が好みだ」と笑うようなクソ野郎だったのは、本当に見る目がないし、運もない。   生まれて初めて浴びたコマンド。 そいつは、自分の力を試したかっただけなんだろう。 そんな奴の遊び半分のコマンドで、俺の身体はただのおもちゃに成り下がった。 抵抗もできない。逃げられもしない。声も、出せない。 そうやって、数日間、散々嬲られた。 そいつと、そいつが呼んだ仲間たちに。 ……よく覚えていない。思い出したくも、ない。 気付いた時には、そこは血の海だった。 男たちの身体と壁には、鋭く裂かれた爪痕が残ってた。部屋中に飛び散った血は、まだ温かかった。 『……なんだ、これ』 声に出したはずなのに、聞こえたのは獣の唸り声だった。 割れた鏡に映った俺は、ヒトの形をしていなかった。    人のものとは明らかに違う猛獣の腕と脚。  鋭い爪。  獰猛に光る目。  剥き出しの牙。  長い白髪と毛並み。  そして、背中から首筋、肩を覆い、顔の端にまで浮かぶ黒い縞模様。   Subの身体能力が異常なほどに高い理由。 昔は”先祖返り”だかなんだかと言われていたらしいけど……そんなもんどうでもいい。 母親がずっと怯えていた理由が、やっとわかった。 誰かに支配されなければ制御できないような暴力が、この身体には宿っている。 だからその姿を見て、ああ、そういうことか、と妙に納得した。 もうまともに生きていくことはできないんだ、って。 あの日から消えない背中の痣がその証だ。 虎柄にも見える模様は、背中から少しずつ広がって、肩や首筋にまで刻まれている。 ……母親を哀れだとは思う。 でも、俺は同じにはなりたくない。 飼い殺されるくらいなら、怯えて生きていくくらいなら 誰のものにもならず、一人で生きて、一人で死ぬ。 Domなんかいらない。 これからも頼らない。 舐めた真似してきたら、また殺してやる。 おもちゃにされるのは、もう二度とごめんだ。 そうやって、いつかひとりで静かに眠りたい。 ……それでいい、だけなのに。   *** 「おはよう、よく眠れた?」 優しすぎる声が耳に響いて、ゆっくり染み込んで満たしていく。 あたたかくて、心地良い。 ――俺にはもう、そんな場所あるはずないのに。 はっとして目を開けると、俺の頭は、誰かの膝の上にあった。 (……は?) 柔らかそうな髪。 笑みを浮かべた唇。 そして、細められた夕陽色の瞳。 綺麗な顔が目の前で微笑んで、あまりの近さに思考が全部吹っ飛ぶ。 だけど、ふわりと髪を撫でられた瞬間、首筋の毛が逆立った。 思わず跳ね起きて、距離を取る。   「てめぇ!なにしてっ」 「あ、尻尾が」 「!!」 違和感に振り向くと、白と黒の虎柄の尻尾が揺れていた。揺れながら、ぶわりと逆立って、威嚇するように膨れてる。 どうなってんだこれ?!こんな状態でも出るなんて知らない!聞いてない! 慌てて隠したが、もう、遅い。 ――最悪。 「……ふふ、元気そうだね?」 「……」   笑い声に気付いて、睨みつける。 ウザってぇ。 にやけてるこいつも、何よりこの身体も。勝手に反応して、邪魔しやがって。 だけど、そいつは怯むどころか、細い指を口元に添えて悪戯っぽく見つめてきた。 「そんなに睨まないで。可愛い顔が台無しだよ?」 ――なんなんだ、その顔。その声。  甘ったるくて、溶かすみたいな……。 「君が眠ってから、だいたい一時間くらいかな。誰も入ってきてないよ。……まあ、君が扉壊したから誰も入れなかったんだけど」 そいつは立ち上がると、迷いなく距離を詰めてきて、俺の顔を覗き込み、そっと頬に触れた。 反射的に身を引いたが、それ以上は追ってこない。ただ、もう一度やわらかく微笑むだけ。 「少しは、楽になった?」 「……っ?」 何の話か、さっぱり分からない。 ソファから落ちたブランケットを拾いながら、あいつは勝手に喋り続ける。 「その尻尾は虎かな?顔色も良くないし、隈も出てる。あまり眠れてなかったんじゃない?」 意味の分からないことを話し続けてるそいつから、視線を外さないように、じりじりと後退る。そしたら、何かにぶつかって……背後の扉の存在を思い出した。   「もし眠れてないなら、いつでもケアしてあげるし、お店が苦手なら別の場所でも」    バキンッ   「……バキン?」   あいつの声はそれが最後だった。 俺は扉を蹴り壊して、部屋から飛び出した。   走って、走って……何かにぶつかる。壊れる音。誰かの悲鳴。 全部どうでもいい。 あいつから。 あの声から。 あの笑顔から―― とにかく離れたくて、走った。     「……嫌われちゃったかな……」 一人残されたあいつの呟きなんて、俺は知らない。   *** 走った。何度も角を曲がって、ただ全力で。 吐く息が白いのも、手先が冷たく痛いのも、息が切れるのも無視して。 気づけば、ヤクザ事務所の前に戻ってきてた。 他に行くとこなんかないから、仕方なく。 何か言われた気がするけど、全部無視して部屋に入る。 ソファがあるだけの殺風景な部屋。寝泊まりする場所がなかったら勝手に使ってる。 落ち着くわけじゃない。でも、ここなら誰も来ない。 「おい待て、話を――」 扉を閉める。ゴンッ、と鈍い音がした。知らない。どうでもいい。 眠すぎて限界だった。狭いソファに、倒れ込むと固かった。あの店のソファやアイツの膝とは全然違う。……いや、そんなのも、どうでもいい。   「ってぇな!なんなんだよあのクソガキ!!」  「やめとけ、入るとキレるぞアイツ」 「なんでも良いけど、事務所壊すなよ〜」 扉越しの声も、遠くに感じる。 ――クスリ……いや、いいか……。 抑制剤は残り少ない。いつもなら、これが無くなる前にどうにかしてた。 だけど、今は、必要すら感じない。 頭の奥がずっとふわふわしてて、扉の外の騒がしさも、だんだん気にならなくなってきた。手足がぽかぽかと温かくて、まぶたが重くなる。 それなのに、……アイツの笑顔が浮かんだ。   ――笑顔も、声も、全部甘ったるくて、……気持ち悪い。 『そんなに睨まないで。可愛い顔が台無しだよ?』   ――なんだったんだよ、あいつ……。   そんな疑問も、ふわりと溶けて消えていく。 いつもは沈むように眠るのに、今日は軽く浮かぶように微睡む。心地よく、やわらかく、軽くなって ――そして、夢に包まれた。   *** 濃い霧の中にいた。 白い部屋に柔らかい色と光。 指先が触れる感覚。 遠くから聞こえる声。   ――〝あの夢〟だ。   今日はこの夢のせいで散々だった。 だけど、これで深く眠れると安心してしまう自分もいる。 『大丈夫。――もう怖くないよ』 甘く、柔らかい声。 (……似てるか?アイツと……) 分からない。だけど、もうこれ以上考えたくない。あんなDomのことなんか。 深く眠って、全部忘れたい。 あいつの顔も、声も、色も、匂いも―― それでも、何故か声が聞こえる場所を見つめていた。 どんなに目を凝らしても、いつものように白い靄が覆ってるだけだ。 何も変わらない。――はずだった。 今日は、何かが、あった。 濃霧の向こう側に、ぼんやりと何かが映る。霧も、少しずつ晴れていく。 最初に見えたのは、指先だった。 白くて、誘うみたいに静かに揺れる。 声は変わらずに響いて、形を纏っていく。輪郭が現れる。 そして、姿が浮かびあがった。   柔らかそうな髪。 白い肌。 笑みを浮かべ、淡く色づく唇。 そして、鮮やかな夕陽色の瞳。   『おはよう、よく眠れた?』 優しく微笑むその姿に、 胸の奥で何かがぽうっと灯って――       は? …………はぁ?!!   思わず、飛び起きて胸のあたりを掴んだ。 掴んだ胸の中では心臓が暴れてる。灯った何かは跡形もない。 なのに、 ――なっ……なんで、あいつが……!? 何年も声だけしか聞こえなかった。そんな優しくて穏やかな夢に現れたのは、紛れもなく あの、女狐のようなDomだった。

ともだちにシェアしよう!