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第3話
自分が化け物だと知ったのは、17の冬だった。
ガキの頃から周りより図体がでかくて力も強かった。けど、それなりに〝普通〟の枠には収まってた――と思う。
変わり始めたのは、中学に上がる少し前。
ドアノブを捻っただけで、扉ごと外れた。
走って軽くぶつかっただけで、壁がへこんだ。
振り上げた腕に当たったやつは骨が折れたけど、俺は無傷。
音は聞こえ過ぎて吐きそうだったし、会話は勝手に耳に入り込んでくる。
光は痛いくらいに眩しくて、目が霞んだ。
何より、身体が重くて、いくら寝ても眠くて、起きていられなかった。
ぜんぶ、成長期のせいだと、思い込んでた。
だけど、今になって思えばあれが、Sub性の目覚めってやつだったんだろう。
ダイナミクス――第二の性。DomとSub。
中学と高校に入る前には検査を受けて、自分の性を知る。
“普通”なら。
俺は、その検査を一度も受けてない。
母親が拒んだからだ。
……母親は、Subだった。
親父や妹は、そのことを知らない。俺も、ずっと知らなかった。
母親はSub性を薬で抑え続けて、誰にも明かすことなく
〝普通〟を演じ続けた。
そして、DomでもSubでもない〝普通〟の親父と結婚した。
優しい夫、やんちゃな息子、活発な娘。
ありふれた〝普通〟の家族。
だけど、母親にとっては幸せな十数年だったのだろう。
『やっと幸せになれると思ったのに』って。
何度も何度も、泣いてたから。
そうやって少しずつ壊れていった母親が連れてきたのは、Domの男だった。
そのクソ野郎にコマンドとグレアを浴びせられた俺は、そいつをこの手で――
……そこから逃げて、もう5年。
あの日から、Subであることを自分で明かしたことはない。
気付かれると、ろくな目に遭わないから。
バレた時は、その場で黙らせた。
顎を砕いたこともあれば、……それ以上のこともした。
Subと違って、Domはグレアとコマンドがなければただの人間だ。
Subの速さと腕力で負けるはずがない。
SubはDomがいなきゃ、感覚の暴走でぶっ壊れる。
でも、そんなもんは抑制剤さえあれば誤魔化せた。
案外生きていける。
Domなんか、いなくたって。
母親のように普通の幸せなんて望んで、誰かに縋って、弱みを握られるような真似をしなければ。
――だから、わざわざDomのおもちゃになって、喜ぶ奴の気がしれない。
***
「あの子がいないだと?! ふざけるな! 出せ!」
突然の怒鳴り声で、現実に引き戻された。
立ったまま寝てたのか、頭がぼーっとする。
フードの奥で目を閉じていたら、また耳障りな声が響いた。
「辞めちゃったんですよ。他にいい子いますから」
「あの子じゃなきゃだめだ! あの子だって俺がいないと……!」
――うるせぇな。
頭が重い。目の奥がズキズキと脈打ってる。
今日の仕事は〝集金に付き添え〟ってだけだった。
電話で呼び出してきた男とは別の――名前は忘れたが、よく喋る下っ端と一緒に店に行き、俺はただ外に突っ立っているだけ。見張りとか、用心棒とか。なんか、そういうの。
もう2、3ヶ月、同じことの繰り返し。
この店は、Domが金払ってSubを〝買う〟場所だ。
メインのホールで『顔合わせ』――って言うけど、実際は"商品選び"。そのまま奥の個室に消えていく。
……中で何してんのかなんて、知りたくもない。
この入口にたどり着くまでに、いくつものチェックが必要な店だ。その時点で、だいぶまともじゃない。
通ってんのがバレたら即人生終了。
そんなとこで金払ってまで遊びたがるDomも、そいつらに媚びて笑ってるSubもイかれてる。
――どいつもこいつも、気持ち悪ぃ。
「何? トラブル?」
店の奥から、集金を終えたらしいヤクザの下っ端が顔を出した。
さっさとこんなとこ離れて寝たいのに、余計なことすんなよ。
「ああ、辞めたSub……っていうか実は飛んじゃったんですけど、あの客のお気に入りで」
「じゃあDomなの? あんなのが?」
「さあ?Domだったら黙っててもSubが寄ってくるはずなんで……Dom気取りか、出来損ないですよ」
「なるほどねぇ」
「たまに勘違いするやつがいるんですよ。金払ってくれりゃ何でもいいんですけど、騒がれるのはちょっと……ねぇ?」
「あー……?」
チラリ、と店員が意味ありげに視線を向けると下っ端が頷いてこっちを見た。
「ああ、そうだな。まったく、お客様の迷惑だ」
「……」
「……おーい、仕事仕事!ちょっと適当に捨ててこいよ!」
視線を無視してたら、チャラついた声が飛んできた。
下っ端の男がパンッパンッと手を鳴らして、こっちを見てやがる。
──ウザ。
肩越しにだけ睨む。返事なんかしてやるもんか。
ただでさえダルいってのに呼ぶな。
外の冷気の方がまだマシだ。店内の甘ったるい匂いに比べたら。
どこの国の音楽かもわからない妙なリズムのBGM。
腐りかけの果物と花が混ざったみたいな匂い。
一歩入るだけで、頭の芯がぐらぐら揺れた。
抑制剤とはまた違う、脳を溶かされる感覚に吐き気がした。
それに、Dom性を持ってる奴は俺がSubだと気付きやすい。フードの奥に隠れても、Domの視線は肌に突き刺さるから、すぐわかる。
……思い出すだけで、虫唾が走る。
気分最悪。やる気なくした。
下っ端の声なんか無視して背を向けた。――その瞬間。
「どうしたの? 何の騒ぎ?」
耳に届いたのは、ただの呟き。なのに、この場には似合わない、柔らかいのによく通る声だった。
その声に、心臓が跳ねて、身体が震えた。
――この声、あの夢の、
反射的に、顔を向けた。
フードと前髪の隙間から覗いた視線の先――店の奥には、夕方会ったあの細身の男が立っていた。
淡い色のストールが、歩くたびにふわりと揺れてる。
落ち着いた色のジャケットに、脚のラインが綺麗に出るスラックス。足元にはハイヒールのブーツ。
女には見えない。けど、男にしてはやけに色気があって、しなやかだ。
髪は光の加減で、明るい茶色にも金色にも見える不思議な色。
暗い店内なのに、肌は冷たく白く、浮かび上がるように見えた。
耳に髪をかける仕草でさえ、目が離せない。
ピアスの宝石が揺れて、きらりと光った瞬間、ハッとして視線を外した。
――なんで、こんなとこに……?
立ち姿も、声も、笑みもこの場所では浮いている。
だけど、そいつが現れただけで、明らかに喧騒が止まった。
「お? なんだよ、やっと仕事する気に……あ? おい?」
気づいたら、何かに引っ張られるみたいに足が動いていた。
下っ端や他の店員も押しのけて、真っ直ぐ突き進む。
細身の男は、黒服の店員から耳打ちされている。「ああ」と頷くと暴れる客の前に出て、柔らかく微笑んだ。
「こんばんは。お客様、僕とお話しませんか?」
洗練された身のこなしは、威圧的じゃない。それでも客の男は大人しくなった。
「……僕ではダメですか?」
戸惑う客に、小首を傾げて寂しげな表情を見せる。
客の表情が緩みきって、目には下卑た光が宿った。
「じゃ、じゃあ……ひっ!?」
客が細身の男に手を伸ばした瞬間
その手を、迷わず掴んだ。
「な、なに……?!」
「消えろ」
「ひっ…」
客の男の手を離したら、慌てて店から出ていった。
結果として、下っ端の命令を聞いたみたいになったことに腹が立つ。……でも、そんなのは、どうでもいい。
振り向くと、細身の男が俺を見上げて、目を丸くしていた。
「あ、ありがと…あっ……!」
「来い」
そう言って、細い腕を掴んだ。
戸惑う声がした。けど、知ったことじゃない。
「おいおい、店の物に手ぇ出すなって」
「邪魔」
「ああ?!てめぇ、舐めた口きいてんじゃ……」
「ごめんなさい?」
「……え?!」
細身の男が間に入ってきて、下っ端が間抜けな顔でぽかんとしてる。
「この子、僕とお話したいみたい。連れていってもいいですか?」
「え、いや……は?」
「ありがとう」
「え??」
「店長さん、お部屋借りますね」
「はあ……まあ、どうぞ」
「ごめんなさい、すぐ戻ります」
周囲に有無言わせない笑顔を向けて、ようやく細身の男は俺を見た。
「ねえ君、こっちでいいかな?」
「……」
――なんなんだこいつ。
笑顔一つであっという間に場を丸め込んだ。
いくら睨んでも少しも怯むことなく、笑ってる。
……怪しいが、ついていくしかない。今更、引く気はなかった。
大人しくついて行って部屋に入ると、扉が静かに閉まった。
「……今の美人もSub? 羨ま…いや、いいのあれ?」
「ああ、いいんですあの人は」
***
案内されたのは、奥の個室だった。ドアを閉めると、外のざわめきが嘘みたいに消えた。
フードの影に隠れたまま、前髪の隙間から周囲を伺う。
窓はなく、出入口は背後のドアが一つだけ。薄暗いが、俺の目には関係ない。むしろ、好都合だった。
部屋の中心には黒革のソファがあって、そいつはゆったりと腰を下ろした。
「お隣どうぞ?」
整った顔が微笑んで、小首を傾げるけど無視した。
数ヶ月前からこの店に通っているが、表に出てくるのはいつも同じSubばかりで、こいつを見た覚えはなかった。
……俺は、な。
「……会ってんじゃねぇか」
「ふふっ、ごめんね?」
「バレちゃった」と白々しく笑ってる。……ふざけやがって。
女狐、っていうんだ、こういう奴を。
離れたまま睨む俺に、そいつは柔らかい声を向けてきた。
「二回も助けてくれて、ありがとう」
「助けた覚えはねぇ。邪魔がいたからどかしただけだ」
「でも嬉しいよ、覚えてないと思ってたから」
「覚えてはねぇよ」
「あれー? 残念だなぁ」
くすくすと笑う声がムカつく。わざとらしい。馬鹿にしやがって。
「それで、僕に何の用?」
「……用は、……」
「?」
「…………声が……」
「声?」
「……」
「…?」
……なんて言えばいいんだ?
お前の声が、夢で聞こえてくる声と似てる気がした――とか?
は?言えるかよ。頭おかしいだろ。
それに、今となっちゃ本当に声が似ていたのかも微妙だ。
夢から覚めた瞬間は匂いまで思い出せる気がしたのに、今はどんどん薄れていく。
ただ、少なくとも――
「えーっと、声って僕の声? それがどうしたの?」
女狐顔の男はきょとん、とした顔で首を傾げている。
少なくとも、こんなに甘ったるい声じゃなかった。……気がする。たぶん。
Domだと思ったけど、この店にいるならSubのはずだ。でも、それなら
『待って!』
あの時の感覚は――
(……どうでもいいか)
答えにたどり着く前に、思考が途切れた。
もしあの声の奴を見つけたところで
それがこいつだったとして
SubじゃなくてDomだったとして
……だからなんだ?何が変わるんだ?
馬鹿らしい。考えるだけ無駄だ。
「……別に何もない。もういい」
視線を合わせる気にもならず、フードを深くかぶったまま背を向ける。伸ばしっぱなしの前髪がさらに視界を狭めたら、あいつの存在も気にならない。もうどうでもいい。こいつも、夢の声も。
……何も変わらないのに、何を期待してたんだ。馬鹿みたいに。
背を向けたまま扉へ向かう。だけど、ドアノブに手が触れる直前
「――『待って』」
全身が、鎖で縛られたみたいに硬直した。
「……」
自分の手を見た。
動く。何もなかったみたいに。
だけど、確かに感じた。一瞬だったけど、今度は間違いない。
ハッと乾いた笑いが漏れた。
「あんた、Domか。……そうは見えなかったな」
「よく言われる。でも、お互い様じゃない?君もSubでしょう?」
……だから嫌なんだ。Domってやつは。
隠しても、前髪で目を覆って、フードで閉じても、
声ひとつ、視線ひとつで暴いてくる。見抜かれる。
そして、笑って、触れてくる。
いつだって勝手に、上から。
それが当たり前みたいに。
――気持ち悪ぃ。
模様のある背中の奥から首筋にかけて熱が走った。皮膚がざわつき、爪先まで疼いたのはほんの一瞬だった。
バキッ、と手の中で鈍い音が響く。簡単に握り潰されたドアノブは、指の中でぐにゃりと歪んでいた。
壁に叩きつけると、ガランと音を響かせて、床を転がった。
「……黙ってれば、見逃してやってもよかったのに」
DomにSubだと知られたまま放っておくなんて無理だ。
面倒事にはうんざりだが、放置する方が何倍も厄介だってことは、嫌というほど思い知らされてきた。
振り向いても、そいつは怯えもしない。一瞬だけ転がったドアノブの残骸に目を向けて――何もなかったみたいに、真っ直ぐに俺を見つめてきた。
――この視線。Domだ。間違いなく。
まるで『Subの君に何ができるの?』とでも言うような、薄気味悪い眼差しは。
「……で? Subだったらどうする? 跪かせてみるか?」
「君がそう望むなら、してもいいよ?」
穏やかすぎる声が、俺には挑発にしか聞こえなかった。
睨みつけながら目の前まで迫っても、足を組んで座ったままだ。目は逸らさないくせに、グレアを使う気配すら見せない。
――俺がSubだってわかってるくせに。
その舐め腐った態度にますます苛立った。
「顔色が良くないね。一緒に寝てあげようか?」
ドゴッ――
言い終わる前に、そいつの顔すれすれを踏みつける。ソファが軋み、背もたれが鈍い音を立てて傾く。
それでも表情を変えることはなかった。怯えも怒りも感じない。
まるで野良猫に威嚇された飼い主みたいな顔で、小さく首を傾げて……まだ、笑ってやがる。
「そんなに怖がらなくても、優しくするよ?」
「そう言って近づいてくるDomにまともなのはいねぇよ」
「試してみる?」
「……あ?」
「君が望むなら。……優しく、甘やかしてあげる」
甘い声が絡みつく。息が詰まる。考える前に、身体が動いた。
「ッ――!」
顔を掴み、押し倒した。DomとSubの差なんて、コマンドを塞いでしまえば関係ない。
呻き声すら許さない。こんな華奢な身体で、抵抗なんて無意味だ。
殺しはしない。顎を砕けばいいだけの話だ。
このまま力を込めれば、終わる。
……終わるはずなのに。
そいつの顔が視界に入って、手が止まった。
――女みてぇな顔してるな。
夜の街で見慣れた派手さはない。化粧も飾り気もない。なのに、長い前髪の隙間からでもわかるくらいに、整っていた。
乱暴に張り倒されてぐしゃぐしゃになった髪は、それでもまだ柔らかそうで
冷たそうに見えた肌は、触れたらちゃんとあたたかくて、近くで見ても透き通るように白かった。
髪と同じ色の睫毛はやたら長くて、瞬きするときらきらと光る。その奥で、濃い夕焼けみたいな色の瞳が静かに揺れる。
その目が俺を映した。その瞬間、頭の奥に火花が走った。
「――っ!?」
瞳の奥の光に、目が眩む。
……今のは、グレア?それもわからない。抵抗する暇もなかった。
ただ次の瞬間には、膝から崩れ落ちて、何もできず
そいつの胸元へ倒れ込んだ。
「……て、めぇ……っ」
起き上がれない。それでも、睨み返す。
動ける。声も出せる。
まだ、負けてない。
だが、視界の隅に映った細く白い手が、ゆっくりと俺の頭の方へと伸びてきた。
――やめろ、触んな。
喉の奥から、唸るような低い声が漏れた。
けれどその指は、ためらいもなく俺の髪に触れた。
「ッ……!」
その瞬間、背中が疼く。消えない模様の熱が、首筋まで走り、ぶわっと、全身の毛が逆立つ。
振り払おうにも、身体はこれ以上動かない。
その手は、そっと俺の頭に触れて――撫で始めた。
――は?
まるで壊れ物に触れるみたいに、丁寧に。
優しく、ゆっくり、時間をかけて。
――なんだ、これ……何してんだ……!?
細い指が、脱げかけたフードを外して、伸びた髪をかき分ける。ゆっくりと、撫でていく。
撫でられた場所がじんわり熱を持って、くすぐったくて、妙に安心しそうになって……
「大丈夫。怖くないよ」
気付けば、抱き寄せられて、そいつの腕の中にいた。
背中には、あたたかい手。
耳元には、低く落ち着いた声。
鼻先をくすぐるのは、甘い匂いとやわらかな体温。
「……っ、やめ……ろ……」
そう言おうとした唇は、ただ震えるだけだった。
意味がわからない。
さっさと殴れよ。踏みつけて、笑えよ。
それが、Domだろうが。――それなのに、なんで。
振り払って、逃げたいのに、力がはいらない。
強張っていた全身が、解けて緩んでいく
視界が滲んで、ゆっくりと遠ざかっていった。
「おやすみ。……いい夢を」
甘く、囁くようなその声は、夢の中で聞いたあの声と似ているような
……気が、した。
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