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第2話
『いい子』
『大丈夫』
『もう何も心配いらないからね』
耳元に、柔らかい声が降る。
――ああ、また〝あの夢〟だ。
いつも、そうだった。
何か思い出せそうで何ひとつ掴めない、白くぼやけた夢。
なのに、やたら暖かくて、柔らかく包まれている。
繰り返されるその声に、身体の力が抜けていく。
空気の重さまで変わるような気がして、呼吸が楽になる。
夢の中で、白く細い指先が髪を撫でる。
その手に、触れたくて、手を伸ばして、
掴んだものを抱き寄せた。
「きゃっ!」
悲鳴が響いて、目を開けた。
鼻を突くのは甘ったるい香水と煙草の匂い。化粧と酒の混ざった夜と女の匂い。
(……違う……)
匂いも温度も声も、何もかも。
欲しかったものは、もうどこにも残っていなかった。
「スマホ鳴ってたから……でも、したいなら、いいよ?」
抱き寄せた女が、甘えるように囁いてくる。無造作に伸ばして目にかかる前髪の隙間から、女を見る。
不自然に長い睫毛。元はどんな顔だったのかわからないくらい、作り込まれた目元。
(……誰だっけ、こいつ)
勝手に伸びてきた手を振り払い、背を向けた。マスクを引っ張って鼻を覆えば、少しはマシだ。
それでも、鳴りっぱなしのスマホの音が頭に響く。仕方なく拾い上げて、通話ボタンを押した。
「……なに?」
『お前、今どこだよ』
「は?」
『は?じゃねぇよ、どこにいるんだって言ってんだよボケ。まだ寝てんのか?』
スマホから、不機嫌な声がする。隠すつもりはないらしい。
(どこ?……どこだっけ、ここ)
見覚えのない部屋だ。薄暗い照明、安っぽいベッド。散らばった服と下着。あと、ほとんど裸の女が目の前にいる。
そう言えば、昨日の夜は街をふらついてたら女に誘われて、眠たいって言ったらこの部屋に連れて来られて――
『また女か?』
俺より先に気づいた男が、でかい舌打ちをした。
『もういい。さっさと事務所に来い。出かけるぞ』
ブヅッ、と一方的に通話が切れた。
いつものことだ。相手の名前なんかどうでもいい。用件だけ言われるのは楽だ。
「……俺の服は?」
「あっ、ここに……」
ベッド脇に放り出されていた服を女が差し出してきた。
受け取って背を向けた瞬間、首筋のあたりがチリッひりつく。
女の視線が、背中から首筋へと続く“それ”に――肌に浮かぶ模様に、吸い寄せられていた。
「なぁに、この……タトゥー?すごい……虎みたい……」
女の手が首筋に触れようと伸びる。腕で払いのけ、シャツを乱暴に羽織った。
タトゥーだと思ってくれていたほうが、都合がいい。ジロジロ見られて、余計なことまで勘付かれたら厄介だ。
虎の縞模様のような、トライバルタトゥーにも見えるそれは、見る人間が見れば”そんなもんじゃない”とすぐ気付く。
だけど、着替えている間も、女は構わずまとわりついてくる。
「ねぇ、また夜来て?私たち相性イイと思わない?だからこれ……あっ!ちょっと!」
やけに柔らかい女の肌が気持ち悪くて、振り払った。そのままドアを開けて、振り返らずに出ていく。
押しつけられた連絡先――紙切れはグシャ、と丸め、力任せに潰して、ゴミ箱へ投げ捨てた。
代わりにズボンのポケットから錠剤を取り出した。
Subの特性を抑え込み、感覚を鈍らせるための抑制剤。残りは数粒。
前に飲んだのはいつだっけ。渡された時に、間隔を開けろと言われた気がする。けど。
(……どうでもいいか)
2つ放り込んで噛み砕く。特有の苦みが広がっていく。
外は夕暮れの薄明かりで、吐く息は白く、冷たい風が頬を刺してくる。
思わず顔を伏せ、フードを深く被り直した。
伸びきった前髪が頬にまとわりつくが、切る気にはならなかった。隠せるなら鬱陶しさくらい我慢できる。
誰の顔も見たくないし、見られたくもなかった。
男と目が合えば喧嘩を売られ、女と目が合うと纏わりつかれる。碌なことにならない。
今だって、身体がやけに重い。何度も求められて朝まで続いた行為で、余計にだるかった。
……あの夢を途中で断ち切られたせいも、ある。
数年前から、同じ夢を見ていた。
どこの誰かもわからないはずなのに、その声を聞く何もかも忘れて、深く眠れる。
……はずだった、のに。
途中で遮られたことに今更腹が立ってきた。
(……眠ぃ)
馬鹿みたいな喧騒。目に痛いネオン。乾いた冷たい空気と欲望の匂い――夜になると、Subの鋭い神経を擦り減らす刺激が増える。
だけどそれも、ぜんぶ遠ざかっていく。抑制剤が効いてきた証拠だ。
代わりに、脳の奥がずんと重くなる。
気怠さを抱えながら歩き出した、その時――
「やめてください……っ」
足が止まった。心臓が鋭く跳ねる。
抑制剤の分厚い膜をぶち抜いて、耳に響いたその声は――あの夢の声と、似ていた。
(どこだ……?)
抑制剤の影響で感覚が鈍くなっていく。感覚が閉じていく前に、声を拾おうと耳を澄ませた。
「僕行かなきゃいけないところが……お願い、離して」
――いた。
吸い寄せられるように、近くの路地裏に目を向ける。フードを深く被り、身を低くして路地に近づいて覗き込んだ。
路地裏の奥と手前に、男が二人。声は、手前にいる細身の男のものだ。背を向けてて、顔は分からない。
そいつの細い手首は、にやにやと笑う男に掴まれていた。
「Subのくせに、店で俺を無視したよな?……ああ、それとも、叱られたくてわざとやってる?それなら、お仕置き……してあげなきゃな?」
「目を見ればわかる」「コマンドで躾けてやる」とかなんとか。
こちらには気づかず、男は得意げに喋り続けてる。
――気持ち悪。
聞きたくもない言葉と声に、吐き気がした。声が響く度に、神経がザリザリと削られていく。
……だけど、それよりも。
(さっきの声……やっぱり、似てる)
もう少し聞けば何か分かるかもしれない。そう思った時には、真っ直ぐに突き進んでいた。
男の細い肩を掴んで、無理矢理引き剥がして、振り向かせた。その瞬間、柔らかそうな髪がふわっと舞い上がった。
夜なのに、淡く光を放っているみたいだった。
金にも淡い栗色にも見える髪が、ほんの少しの光でもキラキラと輝いている。
緩やかに揺れながら、薄く透ける前髪の奥。
大きく見開かれた瞳は、何よりも鮮やかなで――
「――えっ!?」
声があまりにも近くて、心臓が跳ね上がった。
ハッとして目を向けると、声の持ち主が大きく見開いた瞳で見上げていた。
(なんだ、今の……)
伸びた前髪が視界を覆っているのに、淡く光るそいつの髪と瞳だけが、やけに鮮やかに映った。吸い寄せられているみたいに、目が離せなかった。
そいつは、俺を呆然と見上げたまま、黙ってた。
俺はその声が、聞きたいのに。
「お前……」
「お前なんだよ!?」
声をかけた瞬間、別の男の声が響いた。横からいきなり殴られたみたいに、頭がぐらんと揺れる。
男の存在を忘れていた。もろに”喰らって”、思わず睨みつけたら、男は「ひっ」と悲鳴を上げた。
「な、なんだよ……!お、お前に、かっ、関係ないだろ!?」
男の声は震えて、目が泳いでいる。
――散々キモいこと言ってたから、Domだよな?Domの癖に、”目”を逸らすって……雑魚過ぎだろ。
鬱陶しくて、一つため息をついてから男を睨む。
「……俺もこいつに用がある」
「は?ふざけんな、俺が今――」
「うるさい。邪魔」
黙らせようと、男の顔に手を伸ばした。けど触れる前に、男は顔を引きつらせて、慌てて逃げ出した。
……顎、砕くまでもなかったな。
「助けてくれてありがとう」
「……あ?」
振り向いて、細身の男を見下ろした。
こっちは逃げてなかった。それどころか、一歩近付いて来て思わず身構える。
フードはいつの間にか脱げていたが、どうでもよかった。
路地裏の薄暗さと長く伸びた前髪が邪魔をして、視界が狭い。それでも、相手をじっと見つめた、が。
(……顔、どんなのだっけ?)
白い部屋に柔らかい光。
指先が優しく触れる感覚。
遠くから聞こえる声。
それ以外は、ぼんやりと濃い霧に覆われている。
それが、あの夢の全てだった。
何度夢を見ても、目を凝らしても、声の主の姿は見えなかった。
だから、こいつの顔なんか見ても、わかるはずがない。
(声、似てる……か?)
さっきは身体が反応した、はずなのに。
感覚が鈍って、頭が重く、考えてもまとまらない。……抑制剤、飲み過ぎた。
「あの……僕に何か?」
黙ったまま見下ろす俺に、声の持ち主が首を傾げてる。
「……あんた、どっかで会ったか?」
「いいえ?どうして?」
「じゃあ、もういい」
違うというなら、それで終わりだ。
時間の無駄だ、と歩き出した瞬間、
「あの、ちょっと……『待って!』」
「――っ……!?」
重く鈍った頭にも、はっきりと響いた声。
――コマンド……?!
全身に走った衝撃に、咄嗟に身構えた。
振り向くと、そいつの手が俺の腕を掴んでいた。
「怪我してるよ、手当てを……」
腕には、確かに血が滲んでいた。かすり傷程度、いつものことで、今まで気付きもしなかった。
なのに、そいつの触れた場所から、焼けるような熱がぶわりと広がった。
「――ッはなせ!!」
背筋の震えを振り払うように叫んで、その場から逃げ出した。
「あっ、待って!君は――」
乱れた長い前髪が視界を覆って、そいつの顔はよく見えなかった。
だけど、その声だけは、やけに鮮明に響いた。
***
自分の腕を強く掴んで、走る。
背中の模様が肩へ、さらに腕へと広がっていく。皮膚がひび割れていくような熱と痛みが駆け巡った。
見なくてもわかる。
腕の皮膚に薄く浮かぶ虎模様。長く厚く尖った爪。口内に感じる鋭い牙。――Subだけが持つ特性が、抑えきれず滲み出ている。
「クソッ……!!」
どうしようもなく、邪魔な身体だ。Subの性に目覚めた時から、ずっと。
獣化しかけた腕は落ち着くまで隠すしかない。今ここで誰かに見られたら、一発でバレる。
「――ッはぁ、……ッ!」
息が上がってる。心臓がうるさい。フードを被って上から耳を押さえるが、止まらない。鼓動に合わせて頭が重く、痛む。
『待って!』
――さっきのは、コマンド?だとしたら、あいつはDom?
……危なかった。
もう少しで、
殺すところだった。
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