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1話 おわり旅のはじまり
エンジンは良好だ。夜風に湿った土埃が、開け放った窓から香っている。風は涼しく、空は明るい。宴には、うってつけの夜だった。ハンドルを、掴む必要さえ感じられないほど真っ直な道を、走る。タイヤが草と土を踏んでいく振動が響いている。聞こえるのはそれだけだ。長閑すぎる道に、荒涼な気分になりながら俺は、声に出す。
――爽快な気分だ、と。
いっそ、このままどこまでも行ってしまおうか。隣で眠る男を……友達でもない、もう共に旅する仲間でもない男……ただ、俺が一方的に好いている男を連れたまま。夜明けはまだ遠い、人も魔物もいない、この道を。
結婚式はつつがなく執り行われた。小さい村の、いかにも牧歌的な式だった。勇者が生まれ育った村は、かくあるべき、という場所だった。
村のこじんまりとした教会の、古いが清らかに磨かれたステンドグラスの前で、ふたりは実にしあわせそうだった。村の伝統という、古典的、といえるほど洗練はされてない衣装を纏った勇者は、いつものように朗らかだった。その隣で、着古した鎧でない女戦士は、さすがに美しかった。泥や土や血の代わりに、白粉をはたいた頬は薔薇のいろだった。剣を携えない勇者の手が、素肌の肩を抱いていた。
神父はしめやかな声で神の御前に、この目出度いふたりを証明した。誓いのキスに、村人たちは沸き立った。が、俺たちは、ひたすらにむずがゆかった。仲間の結婚式というものは、奇妙なおかしみばかり襲ってきた。
……俺たち、といったが、女盗賊は化粧が落ちるほど号泣したし、格闘家もその細い目を何度も擦り、聖職者はいつまでも拍手をしていたので、尻の座りが悪くなっているのは、俺だけかもしれなかった。
勇者と女戦士は、ステンドグラスの明かりを受けながら、揃って面映ゆい顔をしていた。まるで救った世界の象徴、あるいは、そのものみたいに。
悪しき魔王の心臓を、勇者の聖なる剣が貫き、長きに渡る暗黒の時代は終わりを告げた。――それが、三ヶ月前。
「みんな、今日はほんとうにありがとう」
そう腕を上げた、勇者の傷だらけの手が、午の明るい日差しにきらめいていた。その隣で、紅をさしたくちびるが、晴れやかな微笑みを湛えていた。
勇者と女戦士は、ずっと思い合っていた。爛れたそれではなく、呆れるほどに健気で清らかだった。くちづけはおろか、手を繋いだかどうかさえ、謎だ。みているこっちが気を揉んだ。堪え性のない女盗賊が、口も手も挟もうとしたのを、聖職者が必死に止め、吟遊詩人が自然の開花に任せよう、などと言って宥めた。それが何度かあった。なので、ほんとうに、やっとだった。
「ルチア」
皆に律儀に挨拶をしてまわる勇者が、俺を呼んだ。その握手に応える。
「ようやくすぎるだろ。ほんと、清々した」
俺の横で聖職者が、俄かに顔を顰める。
「……あなたというひとは、こんな日もそうやって斜に構えて……」
勇者は照れくさそうに、幸せそうに笑うだけだった。
新郎が人の輪に戻っていって、俺は、ぽっかりと明るい青空に、ため息をついた。うそのように平和だった。今日は、このまま夜まで宴だ。いや、朝までか。勇者の母親を筆頭に、村人全員が腕によりをかけた料理の数々と、この日のために蓄えられた地酒は、まだまだたんまりある。
長らく禁酒をきめこんでいた格闘家は、注がれては盃を空にし、また注がれ、空にするを繰り返す。人だかりができている。さながらショーになっている。そういう絡繰り人形があった気がする。
酣は衰えない。
俺は席を立った。テーブルはどれもめいめいに席を代わりながら賑わうが、そこだけは停滞していた。はじめこそ数人が溜まっていたが、いまは閑散としている。善良な村人たちによる気遣いのためだった。そっと寝かせておいてやろう、という心配りの賜だ。
「――おい」
返事はない。あたかも屍だ。手元の盃は倒れ、こぼれた酒が、よく糊のきいたテーブルクロスに染みになっている。
「おい、ヴァル」
突っ伏す男の名を呼んだ。やはり返事はない。黒いローブ――そいつにとっての正装だ――の肩が、鈍く上下するだけだ。俺は、その背を揺する気にもなれない。
「潰れているねえ、見事に」
軽薄な声が、気遣ったふうの言葉を吐く。吟遊詩人は、やれやれ、と突っ伏す男を見下ろした。
「彼、酒は?」
「下戸だろ。一滴も飲めなかったはずだ」
詩人は肩を竦めて、しかたないねえ、と言った。しかたないねえ、そういう気分なんだねえ。無理もないねえ。
「憐れだって?」
「いやいや何を言うかな」
詩人は大げさに首を振る。いつだって大仰だ。吟遊詩人ではなく道化師なのではないかと思う。
「うつくしい、とおもっているんだよ。心から」
うつくしい、ね。悪趣味、と俺は吐く。――けど、悪趣味なのはどちらだろう、とも思う。俺は、動かない男の右腕を掴んだ。重い。分かってはいたが、俺の力では無理だ。
「おや、手を貸そうか?」
手を貸す気など無い声がうそぶく。
「いまこそ格闘家の筋肉の出番だろ」
詩人はにっこり笑って、裾を翻しながら離れていった。ほどなく格闘家がやってきた。野次馬の女盗賊もついてきた。
「うげ~、完全に潰れてら」
「まったく、無茶をしたものだ」
格闘家の逞しい筋力によって、男の身体はようやく持ち上がった。脚をよろめかせるヴァルの左肩を、格闘家がしっかりと支える。頼もしいったらない。村人たちもやってきた。
「大丈夫かい? そのあんちゃん、随分と酔っているみたいでな」
「部屋を案内しようか。宿はないが、皆が泊まれるように準備したんだ」
心優しい村人たちの誘いを、俺は慇懃に断った。視線で村の出口をさした。
「大丈夫です。俺が回収してくので」
「……は? なに? アンタ、もしかして車で来たの? この宴に? 仲間の、勇者の結婚式に!?」
女盗賊に、俺は肩を軽くすくめてやった。ああそうだよ。俺は酒を一滴も飲んでない。
「嘘でしょ、信じらんないんだけど! 何? 泊まってかない気!? 祝う気ある!?」
「まあまあ、ルチアは得意でないだろ、こういうの」
「サイテー!!」
「なんとでも言え」
俺は格闘家と共に男を引きずり、車の助手席にそいつを放った。
ほお、これが自動車、というやつか。すごい発明だなあ。ついてきた村人が口々に言う。来たときも褒められたが、俺は満更ではない。魔王討伐の手柄。王からの報酬で手に入れた、俺のかわいい相棒だ。
「てことで、俺は帰る」
「アンタそれでも仲間か! パーティーメンバーか!」
「パーティーはもう解散しただろ」
「〜〜アンタってやつは!!」
女盗賊はぎゃんぎゃん煩くしていたが、「もうしらない!」と戻っていった。格闘家が苦笑いした。俺は礼を言って、車に乗り込む。
そう、パーティーは解散した。共に旅しない。戦うこともない。今日だって、三ヶ月ぶりの集合だ。魔王もいない。魔物もいない。パーティーの意味はもうない。勇者と女戦士は結婚した。末永く幸せに、この村で暮らす。
「ルチア! ヴァル!」
勇者だ。女戦士もいる。走るための衣装でないのに、走ってきた。
「来なくて良いのに」
「見送りくらいさせてよ」
「そうだよ、せっかくきてくれたんだもん」
そろって息が上がって、頬が高揚している。勇者は紙袋を差し出した。ふたつ。俺は受け取る。礼儀として。
「今日は来てくれて、ほんとにありがとう」
花嫁衣装の女戦士が、言った。剣を振るえば誰よりも勇猛だった。真っ先に魔物に飛び込んでいった。花嫁衣装と結った髪からは、花のような匂いが香った。
助手席の男は、ヴァルは、鈍く顔を上げた。女戦士を見上げた。
「…………きれいだ」
「わ、ヴァルがそんなこと言うなんて。へへっ、うれしい」
少し首を傾げるいつもの笑い方で、女戦士は言った。
「……おめでとう、ふたりとも。どうか、しあわせに……」
「ああ。ありがとう、ヴァル」
俺はエンジンを掛ける。空気が震えた。心地良い振動が身体を包む。
「じゃ、おふたりさん、お幸せに。達者で」
手を上げる。ふたりと、格闘家も手を上げる。村人も手を上げる。
じゃあね、元気で、また会おう。そういった声に見送られながら、車は宵の空の下を走った。吟遊詩人が、朗々と謳う声が聞こえていた。できたての新作だった。勇者とその一行の偉業を称え、世界平和を尊ぶ詩。
ついに光みちあふれ
愛と慈しみがさきほこる
まちわびたこの日
はれやかなる今日という日
さあ盃をかわそう
謳い踊りあかそう
闇は去り恐怖は消えた
あるのはうつくしい夜空
またたく星々
それらを結ぶように語ろう
勇敢で偉大なものがたり
これは勇者とその仲間たちの
生きた証のものがたり
行き先は決まっていた。この村にくるならと、目を付けていた。招待状の返事と同時に予約の便りを飛ばした。湖畔のロッジ。避暑にはまだやや早い季節だからか、折しもあいていた。
宿はともかく、人の家に泊まるのが嫌いだ。特に、ああいった村は。親しみ。気遣い。それらが満ちすぎていて、息が詰まる。距離が近すぎる。すべて善意であるからなおさらだ。延々と繰り返される乾杯のよう。
――じゃあね、元気で。
窓を開けた。舞う土埃も入り込むが、それよりも風を感じたかった。俺は、くちに出して言う。
「爽快な気分だ」
そう。すべて、爽快だ。
夕闇の空気はまだ蒸していて、けれど夜気が含む湿り気が、肌につめたく残っていく。風が耳元を、頬をなぶっていく。土の匂いがする。青い草の匂いがする。
隣の男は、再び目を瞑っていた。振動に合わせて頭が揺れる。シートに弾み、窓に凭れる。俺はそれを横目で見るだけにして、アクセルを踏む。エンジンが唸る。目的地までは一時間半だ。
――じゃあね、元気で、また会おう。
あの村にいけば、勇者と女戦士に会える。そして催しや、あるいは、なにか、たいそうめでたいことが起これば、皆してあの村に集まるのだろう。――たとえば、あたらしい生命の誕生、とか。
三ヶ月前のことが、もうずっと遠い。――自分たちのことなのに、すこしも実感がない。全員がそうだろう。勇者本人も。偉業。きっとずっと未来に語り継がれる。昔話として。
星の明かりのようだ。あれは、いまよりずっと過去の光らしい。長い時間をかけて、人々の目に届いているのだと。
(俺たちがいたのは、草の上で、古びた安宿で、火を囲んだ土の上で。ひとびとのくちにあがり、称えられているような、小綺麗なもののなかにはいなかった。それらの日々がひとびとの言葉になり、噂にあがり、人口に膾炙するなかで、全部がおとぎめいた。)
すべてわかったうえで、詩人は詩にする。物語は、ひろくあまねく、ひとびとを照らすものであるから。道しるべ。
魔王を倒した後、顔中に浴びた朝日も。そこから、国王の城へと向かった旅も。すべて終わった。過去のこと。完結だ。めでたしめでたし。
ただ必死だった。それだけだった。あの日々はもう立ち現れない。二度と。
快適なドライブを三十分ほど続けた。空が群青に染まってきたころだった。麻袋のように揺られていた男の頭が、ゆっくりと動いた。視界の隅でそれを眺めながら、俺は言ってやる。
「よう。ようやくお目覚めか」
ヴァルは、骨張った長い指で顔を擦る。低く呻く。魔物の生き残りがいたら、きっとこんな鳴き声だろう。
「なにか言ったらどうだ?」
嗤う俺に、ヴァルは答えない。手で顔を覆っている。なんて情けないざまだ、これが最強魔術師様なんてな、今からでも詩に追加してもらった方がいいんじゃないか?
そう嘲笑ってやるために息を吸った。それを俺が音にする前に、ヴァルの喉の内側から、鈍い音が鳴った。太い背が前屈みになる。手がくちを押さえている。俺は、思い切りブレーキを踏んだ。
「おい、冗談じゃない! ここではやめろ!」
俺はドアを開け、そいつを蹴り出した。黒いローブが泥のように草の上に転がった。俺はその肩を押して、顔を向きを変えた。あと一秒でも遅かったら、かわいい車体が悲惨なことになっていた。タイヤのすぐ脇の草むらに向けて、ヴァルは嘔吐した。
「――……バカかお前は」
答えない。繰り返しえずいている。魔物の尾に腹を殴られても、戻すことなんてなかった男が。嫌な音と、饐えた匂いがする。舌を必死に突き出し、胃液と酒を吐き出している。
まったくもって惨めだった。目も当てられない様だ。強張る首筋に汗の膜が浮いて、長い襟足が張り付いている。大木の幹の色をする髪は夕闇に濡れている。俺は、うずくまる背に触れた。魔術師にはおおよそ必要ない筋肉が、堅く、熱かった。
「――本当に、ばかだな」
この情けなくて憐れな男の、いったいどこが俺は好きなんだろう。
狙撃手を探している話を、酒場で聞いた。話だけでも聞いてやってくれんか。店主はほとんど頼むようだった。聞けば、屋根に登って暴れる魔物を退治したのがそいつらだとか。つまり、その恩義があるわけだ。
「適任は、あんたくらいしかいないんだよ、撃ち落とせない獲物はいないんだろ? ガンナー・ルチアン」
約束の時間にやってきたのは、成人したてだろうと思われる、善良さを丸出しにした、田舎くさい青年だった。古びた鎧を着込んだ女と、土のように黒いローブを纏った男もその後ろに続いてきた。
――いまあるのは、これだけなんだけど……。そういって、青年は……勇者は、後生大事に抱えた麻袋を、おずおずと酒場の暗いテーブルに置いた。
「遠距離攻撃ができるひとがいてほしくって……ヴァルも魔術でできるけど、回復もあるから……」
まあ、別に、という気分だった。
他に依頼はなかった。町も出ようと思っていた頃合いだった。だから請け負うことにした。それに、東の森の魔物を倒しにいくなどとも言う。あの暗い洞窟をねぐらに群れを作り、退治向かう連中を次々餌にしているという、魔鳥を。俺は、暇を持て余すことはなさそうだ、と思った(そして実際、そうなった)。
魔鳥を倒した後、繰り返し礼を述べる勇者と女戦士に相槌で返しながら、俺は、フードのしたの目ばかり見ていた。青葉色だと思った。森のなかの泉。
その日から、俺はその色ばかりを目で追う。
近くの小川でくちを濯がせた。胃の腑のなかみは、すべて出したようだった。顔色は夕闇で分からない。そいつは獣のように顔を洗った。
「気分は?」
「……よくない」
「だろうな」
ヴァルは、無駄に立派な体躯を膨らませるように息を吸うと、ゆっくりと、吐き出した。くたびれていた。顎から水がしたたった。瞳は川の水を向いている。焦点は、どこにも定まっていなかった。空で、虚。――その目から、俺は視線を逸らした。
「行くぞ」
肩を押すように叩いた。どこへ、とそいつの喉が震えた気がしたが、聞こえないふりをした。
ヴァルとは趣味が合わなかった。ヴァルは古くさく地味なものばかりを好んだ。都会より田舎を、マシンより木や土を。紙に書かれた言葉を好んだから、本屋でつれば都市行きも快諾した。酒も煙草も呑まない。娼館にも行かない。最新技術より古くからの呪文を重んじる。そのくせ、呪文を唱えるより早いと、杖で殴った。回復しろという場面でも、それをした。(そのために、回復要員として聖職者を加えることになる。彼女は最後まで、この脳筋魔術師の杖殴り戦法に頭を抱えた)。
これっぽっちも、話が合わない。というよりそもそも言葉を発しない。野営ではだいたい隅の方で黙っている。宿でも同じだ。本をひらいているか、ぼんやりしている。意見を求められたとき、呪文を唱えるとき、森の底に響くような声で喋る。
俺は、その低い声が紡ぐ回復呪文を浴びるたび、脳の奥が痺れた。そいつに似合わず、あたたかく、やわらかだった。まぶたに触れる、木漏れ日のような。
そいつの緑色の目が追うのは、いつも決まって同じだ。古びた鎧。結った長い髪。溌剌とした瞳。どこからどうみてもあからさまで、あけすけだった。笑えるくらい明瞭すぎた。
なので、そいつらの関係性はすぐに分かった。勇者は女戦士を、女戦士は勇者を。そして、ローブの男は女戦士を想っている。難儀だなあ、と他人事に思っていた。「難儀だねえ」と、後に加わる吟遊詩人は謳うように俺に言った。くそくらえ、と俺は返した。くそくらえ。
ロッジについた頃には、けぶっていた茜色も山の向こうにとっぷり落ちた。エンジンを停めると、あたりは静まりかえった。入り口は掃き清められ、剪定された木立の間からは、初夏の夜の風が滑り込んできた。それを深く吸い込み、鼻から吐きだす。内部で繋がる部屋は、すべて貸し切りだ。管理人はいない。もてなしがないぶん、好きに使う宿だった。気軽で良い。だから選んだ。良い場所だ。素直に思った。魔物が消えた今、富裕層が足繁く通う場所になるだろう。
助手席で屍になっている男を引きずり、ベッドに転がした。ひどい重労働だった。肌が汗ばんだ。暑さが勝って、俺はシャツのボタンを全て外し、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。床に転がしておけば良かった。それで充分だったのに。
ベッドに運んでしまった男を見下ろす。目は閉じられている。静寂に慣れはじめた耳が、枝葉のさやめきを拾いはじめていた。ヴァルの酒臭い息が、深い呼吸で吐き出される。それを、睨みつけた。
「……起きてんだろうが」
睫が震えた。瞼が、幽かに持ち上がった。
「…………きもちわるい」
ヴァルは呻いて、頭を重そうに動かし、横を向いた。頬と首筋に髪が張り付いている。服越しにもわかる分厚い胸が、苦しげに膨らんで萎む。――背中の熱を手のひらが思い出して、そいつから見えない角度で、きつく握った。爪が手のひらに食い込んだ。
「――難儀だな」
愚かだな、と言うつもりだった。舌先で発音が変わっていた。なんぎ、と、そいつのくちびるが真似た。なにかの呪文のようだ。鈍くまばたきをする。酒のせいで充血している目を。なんぎ。
車の後部座席には、土産が乗っている。ふたり分。引き物だ。焼き菓子だ。夫婦になったふたりが焼いた。味はきっと美味いだろう。女戦士は料理も菓子も上手かった。
――いつか落ち着いたら、お菓子をいっぱい作りたいな。
いつだったか焚き火に向かって話していた。
世界を救うまでは。誰もくちに出したことはなかったが、それは不文律として常にあった。世界を救うまでは……。
いつか落ち着いたら。そのいつかは、いまだ。
ヴァルの、太い喉仏が上下した。喉が渇いているかもしれない。俺は腰を浮かしかけて、やめた。――どうして俺がそこまでしてやる? ……思って、呆れる。「そこまで」の域とは? そんなもの、とうに逸脱しているんじゃないか。黙る俺に気づかず、掠れた声が、乾いて僅かにひび割れるくちびるから洩れ出た。
「……きづいて、いたと思うか?」
「なにが?」
わかっていて、俺は聞き返した。腹が立った。今すぐこの場を離れたいくらいには。
「――――彼女を」
「気づいてないだろ」
言わせたくせに、俺は遮った。
「たがいしか見てなかっただろ、あんなの。はじめから、ずっと」
だからお前の好意なんてもの気づきも見向きもしなかったよ一度たりとも。俺はひと息に言った。
「ああ……」
そう、ヴァルは息をついた。心から安堵した、なにかすばらしいものを見たかのように。
「お前がいうなら、間違いない」
「は」
「それなら、いいんだ。それがいい……よかった」
良かった、と、舌は確かに発音した。満足げに、目を閉じた。俺は、喉の奥が麻痺を受けたように重く窄まって、閉口した。
言う気も、まして伝える気も、この男にはなかった。はじめから今日まで、つまりおわりまで。この世すべての攻撃呪文を習得し諳んじる魔術師が、いちばん身近にあるはずの己のものを具現させない。それは、なんて。
「お前は」
そんなんだから。そんなだからだ。言いかける前にやめた。かたきは、あの勇者だ。この世のどんな剣も、術も、技も、あの眩しく深い瞳には敵わない。常闇すらも払いのけた。敵うはずがない。戦いを挑む余地すらも無い。相手が悪すぎた。
「――つくづく、馬鹿だな」
嗄れた声が出た。ヴァルは薄く目をひらいて、ただ深く息をしていた。その視線を目を動かすだけで追った。広い窓があるばかりだ。月明かりが、さしている。木々が遮り青い影が落ちている。
「おにあいだった」
「ああ、そうだな。完全無欠に似合いの夫婦だ」
ヴァルは目を細めた。遠い山並みを、陽炎を、海原を、まぶしいものでも見るように。すべて過去。完膚なきまでに失恋した男が横たわっている。
「だからいいんだ。ふたりが結ばれて、うれしい。こころから、うれしくおもっている。きれいだった、うつくしかった、ふたりとも、ほんとうに、おにあいだった、良い日だった」
呟く。魔王の動きを封じた、最高難易度の呪文を唱えるように。
「だから、いいんだ、それで、だから……」
「もう寝ろ」
長いそれを止めさせ、俺は椅子から立ち上がった。ため息なのか相槌なのか分からない息が、酒臭い息と共に洩れた。言葉はそれきりになった。もう出てこなかった。
俺は、荷物から小箱と小瓶を取りだした。瓶の蓋をあけ、小箱のなかの軽石に数滴振る。青い爽やかな香りが立った。それを、もう寝入った男の枕元に添えて、俺は部屋を出た。酒臭いから。酔い冷ましの効果も、無くは無いらしいが。俺はシャツを放り、シャワー室に向かった。
翌朝も、良く晴れた。初夏らしい、やや湿りを帯びる風が、木々や土を匂やかにさせている。聞こえるのはさざめきと、鳥のお喋りだ。すばらしいといっていい朝だ。俺が身支度を終えたところで、ヴァルが起きてきた。なにもかもがひどい有様だった。寝癖まみれのそいつを、シャワー室に押し込んだ。男は十分後に出てきた。
「……おはよう」
「おそようだ」
もう午後になる。さっきよりは随分とましになったヴァルは、気怠げに俺の向かいに腰掛けた。毛先から滴がしたたり、シャツの肩口に染みを落とす。俺は、首を横にすることで、そこに向かう己の視線を、外した。
「乾かせよ」
ああ、と、いま気づいたように頷いて、魔術師はくちのなかで舌を転がした。たちまち、その毛先に小さい火種が飛び交う。ぱちぱちと弾けながら、濡れた髪の内側で蠢く。
俺はカップにポットの中身を注ぎ、そいつの前に差し出してやった。我ながらまったく親切すぎる。ヴァルはまだはっきりしきらない眼で覗き込む。熊のように鼻を使った。無作法な男だ。
「薬草茶だ」
「へえ……」
なんでだ、と、ヴァルは聞いた。
「二日酔いに効く。俺の心遣いに感謝しろよ」
お前はこういうのが好きだよな、とヴァルが言う。
「こういうものに頼らないといけないんでね。どこかの誰かと違って、なんでもかんでも魔術で解決できないんで」
そいつの髪は、もうすっかり乾いた。幹のいろ。土のいろ。ヴァルは背もたれに深く身体を預け、息をついた。寝起きは悪くない男だ。相当応えているらしい。酒が。それとも。
「おい」
ヴァルは、ソファに凭れたままでいる。
「せっかく淹れてやったものを冷ます気か?」
いつもなら、勝手にいれたんだろ、くらいの軽口は飛ばしていた。そいつは沈黙した。のぼる湯気をいたずらに眺めている。仕方なく、俺は自分のカップにくちをつけた。爽快な香りが鼻孔に広がる。冴え冴えと、美味い。寝起きの身体が、内側から温まっていく。ふたくち、みくちと啜るなかで、視線に気づいた。ヴァルの目が、俺を見ている。みどり。翠。ひすい。
「――なに?」
俺は尋ねる。ヴァルは、応えない。長い足を組み、腕を肘置きに立て、骨張った指が顔を支えている。目は、俺を見たままだ。静かな目。森の奥地、揺れもしない湖の表面。それが、俺を映している。――居心地が、わるい。そんなふうに俺をみたことがあっただろうか。俺は目を逸らす。それでも視線は、俺の顔に張り付いたままある。
俺はカップをソーサーに戻した。ガラスが触れあい、神経質な音がした。血が、顔に集まるのを感じた。火照るのを、熱い薬草茶のせいにする。
「――なんだって、俺は訊いてるんだ」
ヴァルは寡黙だが、尋ねられたことには必ず返した。少ない言葉は的確だった。必要充分というふうに、太い喉が音にし、舌が紡いだ。その重さは信頼としてパーティー内に馴染んでいた。ヴァルがくちびるを動かすとき、喧しい女盗賊も言葉を閉じ、皆そのくちもとを、蠢く喉仏を見た。
翠の目は、一度揺らいで、逸れた。それからまた、俺に戻り、――睫が湖面に翳を落とした。ほの昏い、翳だった。
「なんで、僕なんだ」
「は?」
「だから」
低い声を低くして、ヴァルは言った。そいつに、滅多に浮かないものが、声にも表情にも広がっていた。――いらだち。聞き分けのない子でも前にしているふうな。
「――なんで、僕なんだ。お前は」
は。
胃の腑が、冷えていく。指先が氷を掴んだようにつめたい。なのに、汗が滲む。
なにが、なんで、なのか。訊くまでも、なかった。そいつの目で、すべて、わかった。――疑問。困惑。それから。――俺は耳の後ろが脈打つ。顔が、燃えるほどに、熱を持ったのがわかった。
「お前、――!」
目の前の男は、目を伏せている。むつかしそうな、強張った、それでいて、すべてを投げ出したような観念を、目元の翳に落として。
「――――いつから」
尋ねて、尋ねたところでそんなもの、なんの意味もないことに気づく。
「――いつだろうな。けど、最近の話じゃない」
声は、平坦だった。昨夜の夕飯を思い出すような気怠さだ。俺が何か言う前に、そいつは続けた。
「言っておくが、誰かに聞いたわけじゃない」
女盗賊のお節介でも、吟遊詩人の仄めかしでもない、と。自分で気づいた、僕が自分で、そうじゃないかと仮定した。そうしたら、いろんなことが納得できた、と。
「お前が何も言わないから、僕も何も言わなかった」
気づいてないと、思っていた。のに。
「ただ、わからないなと思っていた。どうして僕なのか、どこがいいのか」
吟遊詩人の声が、耳のなかでこだます。「難儀だねえ」と言った、苦笑いに含まれた、すべての意味。
「くそくらえ」
俺は呻いた。テーブルを、乱暴に拳で叩いた。がちゃん、と派手な音がした。そいつのカップの中身がソーサーにこぼれた。
「くそくらえだ!」
「下品だ、それ」
「煩い!」
最悪だ。知っていて、黙っていた。ずっと、ずっとずっと、俺の、この感情に、気づいて、知って、いたくせに。ずっと、黙って、その顔で。その目で。態度で。
「お前は……」
俺は、呪った。溶岩が煮え立つほど。俺が魔術を使えたなら、きっと目の前の男を深く重く詛えた。そういう呪文を、吐きつけてやれたのに。俺は、ただ拳銃の先から弾丸を飛ばすだけの狙撃手だ。
それに。最低で、残酷なのは、どっちだ。頭の底が、急速に冷えていく。滲んだ汗だけが残って、それも冷えていく。
絶対に実らないこの男の感情を、ずっと観察していたのは?
勇者と女戦士が、結婚の相談を俺たちに打ち明けた夜。俺は、ふたりを祝っただけだったろうか。乾杯で盃をぶつけながら、濁った悦びが弾けていなかったか。おめでとうと、ふたりに微笑みかけたヴァルの、その底に、傷が透けたことに、安堵していた俺は。木々がうつくしく生い茂るこの避暑地を予約したのは。酔い潰れるだろうヴァルを、予想通りに潰れたヴァルを、連れだし運んだのは?
仕掛けるなら、手負いになってからだ。傷の場所を狙って。塞がらないうちに。鉄則だ。
俺は黙った。ため息が出た。眉間を、指の節で擦った。
「なあ」
声が尋ねる。純粋な、疑問として。どこが。どうして。
「わからない」
俺は、答えた。
「そんなのわからない。俺だって知らない。知らない。分からない。教えて欲しいくらいだ」
気のせいだ。気の迷いだ。何かがおかしい。そんなはずはない。好みの女をより分けることもできた。スマートに口説くこともできた。女も抱いた。何人も抱いた。複数人のガールフレンドだっていた。そして俺は、たしかに彼女らを愛していた。爽快だった。まったく容易だった。こんなものかと、この程度かと、思うほど。
「ルチア」
だから、わからない。どこがいいのか分からない。どうしてその、翠の水面から目が離せないのか。耳をそばだて、低い声を捉えようとするのか。その声に、名前を呼んで欲しくてたまらなくなるのか。どうしてこんなにも、鼓膜も心臓も、震えるのか。
気のせいだ。気の迷いだ。そう思った。だから娼館に通った。女を抱いた。男にも、抱かれてみた。男と交わる際、勃起しなかったから、その役割になった。肌に触れながら、思うのは、揺れる土色の髪であり、杖を掴む長く節ばった指であり、長い襟足、翻るローブ、広い背中、厚い胸、太い腕。好いた女を、ただじっと見つめる横顔――いつも、それだ。俺は誰かのくちびるを舌を吸いながら、ぼやける近さで見つめあってみながら、いつも少しあれている、ひそやかに呪文を紡ぐ、やや厚いくちびるばかり、思った。翠のみずうみ。その表面に、虹彩に、瞳孔に、俺が映るのを。腕が、指先が、くちびるが、触れるのを。わからない。わからない。なにもかもが正反対な男。
わからない。
「けど」
俺は、息を吐き出す。震えては、ない。もう、はっきりしていた。諦めて、観念した。そうするしか、それしか、なかった。
「こうするしかなかった」
だって他に、手段がない。せかいがへいわになったいま、俺たちが共にいる理由なんてないから。こんなことが……再び集まるなんてことがない限り、会うこともないから。
「こんな卑怯な真似をするくらいに、必死なんだよ、俺は」
翡翠の目を見て、言った。ついに、言った。
「――僕は、わからない」
ヴァルは言う。理解に苦しむという顔で。
「……それは、いまこうしている現在もか?」
敵の残数を確認する口ぶりで訊く。俺は答える。索敵結果を報告するように。
「ああ、いまこうしている現在も」
「…………そうか」
ヴァルは、ふう、と息を吐き出した。眉間の皺は、それと同時に消えた。肩の強ばりが消え、気怠く凭れていた身体が動いた。長い指が、カップの取っ手に絡んだ。こぼれて濡れたそれを持ち上げた。
「わからないなら、――仕方ないか」
言って、まだ熱い薬草茶に、くちづけた。まったくそいつらしい着地のしかただった。――しかたない。俺は、口角が持ち上がっていた。は、と、吹き出した。は、はは。許諾も拒否もない。捨てられたわけでも、退かれたわけでもない。ただそこにある。そこに置かれた。なぜなら、しかたがないのだから。きっと、どうするつもりもない。あっけなかった。軽やかだった。
「ああそうだ、仕方ない」
笑う俺に、ヴァルはカップの中身を呷った。喉が飲み込む音を立てた後、深く息をついた。そうして、窓の外を見た。緑がうつくしい陰影を描きながら揺れている。ハーブの清涼な匂いが香っている。
「……だから、少し付き合えよ」
「……え?」
「これから先だよ。どうせ、行く場所も目的もないんだろ」
ヴァルは間抜けな顔をしていたが、表情を戻して、ああ、と頷いた。
「そうだな、なにもない」
「じゃあ決まりだ」
そう手を上げた俺に、ヴァルはくちを閉ざした。この沈黙は、承諾に傾くものだ。――わかった、と、ヴァルは答えた。こいつはそう答えるだろうと思って、ここに連れてきた。
「――じゃあ。泳ぎに行こう」
「……泳ぎに?」
親切な俺は、もう一度言ってやった。泳ぎに行こうと。
「ここ、泉があるんだよ」
歩いて、十五分ほどのところだ。目前の木立が開けて、それは俄に現れた。
うつくしい泉だった。清冽そうな水面は、何ものにも乱されることなく、緑色の鏡になっていた。枝葉の揺れや、鳥の声まで、そのすべらかなみなもをすべるよう。鼻孔の奥を湿らせる、ひんやりとした水気の匂い。どこかあまい、土の匂い。俺の隣で、息を呑んだのがわかった。ゆっくりと息を吸い込んで、吐いたのも、聞こえた。
「良い場所だ」
そういうと思った。
荷物を切り株の上に置く。ヴァルは背の短い草を踏みしめ、みずぎわに屈んだ。長く重いローブが丸く広がる。指先が、澄明な鏡に浸った。
「――つめたいな。すごく透き通っている」
そりゃあいい。俺はシャツのボタンを外す。
「――精霊の加護を感じる。それもとても古い精霊の」
「へえ」
それがあると水は透き通り、さらに少しだけとろみを帯びるらしい。俺にはさっぱりだ。
「二日酔いは」
「まだだるい」
「毒消し麻痺消しは」
「もう試した」
それはおいたわしや。毒でも麻痺でもないから、治癒されないのは当然だ。自業自得。不摂生。
「じゃあなおさら泳げ」
俺はシャツを頭から引き抜いた。草の上に放る。肌に直接ふれる、黄色い日差しが気持ちいい。ヴァルは、「緩和の加護を受けられるかもしれない」と神妙な顔で頷いている。
「二日酔いに加護もくそもあるのかよ」
「わからないだろ」
言いながら、ローブを外した。それを横目でみて、下着だけになった俺は水に飛び込んだ。
輸送船に大量に詰んだ翡翠が、こぼれてとろけたように見えた泉の内側は、思いがけず透明だった。つめたさが全身を包む。肌は粟立つ温度だが、凍えるものではなかった。心地良い。
日差しはたっぷりと降り注ぎ、眩い金色となって、水中に幾筋も伸びた。その帯に、指先を、身体を浸しながら、泳ぐ。
ふと、鈍い音がした。水を震わせる、どぼんという音だ。泡と光に包まれながら、男が透明のなかに落ちてきた。土色が揺らめく。剥き出しの肌のしたで、筋肉と骨が動く。俺は、くちびるが緩んだ。そこから漏れた息が、白い光の塊になって昇っていった。
魔王を倒して、旅の目的が完了したから、各自各地に散った。思い思い、めいめいに。勇者と女戦士は勇者の村に。格闘家は故郷の道場の再建に。聖職者は大聖堂の司教に。女盗賊は商売をはじめるらしい。目利きは確かだが、商才はおおよそまったくないから、どうなるかは知らない。吟遊詩人は、旅に。
平和になった世の中で、銃の役割なんてない。地位があるとすれば、それは競技。スポーツ。狩猟はジャンルが違う。技術顧問の話がいくつか来たが、断った。俺の求めた銃の性能は、もうここから先の世界に必要ない。それは、実にめでたくすばらしいことだ。
これからは、マシンの時代だ。魔物に壊される必要もない。革新はきっと急速に進むだろう。対魔物用に考案され、燻っていた技術は開花のときを迎える。
だから、車を買った。世界を好きに走って回る最先端技術を。
――魔術師は。宮廷魔術師のはなしを断ったと聞いた。それは魔術師なら誰もが目指す、最も名誉あるポジションだ。垂涎のそれを、ヴァルは受けなかった。食い下がられたらしいが、それも蹴った。ヴァル。魔術師ヴァレリウス。その頭のなかにはこの世にあるすべての魔術書が備わっており、その舌は、ひとつの憶え違いもなく正確な発音で呪文を扱う。無尽蔵とも思える魔力。大魔術師の称号を、ヴァルは辞退した。
水面が揺れた。勢いよく、顔が上がる。翻った髪先から、いくつものしぶきが舞う。大きく、空気を吸い込む。濡れて重く張り付く前髪の隙間から、ヴァルは空を見上げる。木漏れ日を瞼に受けて、気持ちよさそうに目を細める。
世界は次々に発展を遂げて、けれども、自然に紛れて生きていくのが、きっと、似合っているんだろう。地位も名誉も轟かない、ただ静かな場所で。自身の話をしない男だ。出自も魔術師としての経緯も、俺は何も知らない。歳は俺より一つ下で、故郷はもうないとだけ聞いた。
岸に上がって、仰向けに横たわった。耳に草がくすぐったい。冷水にさらされた肌が、燃えるように火照る。久しぶりに、こんなに泳いだ。ざばざばと音がし、水滴がいくつもきらめいた。ヴァルは、その濡れた肢体を俺の横に横たえた。はああ、と長い息を吐き出した。俺と同じく、息が乱れている。
ふたりして、必死に息を整える。はあ。はあ。はあ。はは。笑ったのは俺が先だった。ふ、と、ヴァルも噴き出した。はは。笑う。はは。ははは。がきのように。ばかみたいに。ふは、あはは。ああ、いきがくるしい。なんて、健やか。晴れやか。
「爽快な、気分だ」
苦しい胸で、俺はくちにだした。はは、とすぐ隣のヴァルが笑う。低くて甘い音で、喉を震わせている。
「ああ」
木が風に揺れている。それを透けて、光が目に落ちてくる。ちらちらとまばゆい。あかるい。まぶしい。網膜に焼き付いて、まばたきの度に、瞼の内側に残って光る。
「爽快な気分だ、本当に」
もう、いいと思った。
「冒険」は終わった。世界は平和になって、人々は穏やかな生活を取り戻して、そして発展していくんだ。すばらしいハッピーエンド。めでたしめでたし。FIN。END。――けど、その先でも俺たちは生きていて、冒険は終わっても、生きていて。つぎの町にいくように、つぎの生き方に進んで。だから今日が、俺にとってのおわりで。
この、恋、というもの。ただそこにある。そこに置かれたもの。
傷心の男をうばった。連れてきて、昨夜と、そして今、ひとりじめした。いま、このとき。このまぶしい、いま。
もう、充分だ。もう、いい。溢れてこぼれる緑と光を見上げながら思う。充分だと。
おわりでいい。いつかおわるなら、ここでいい。満足できる。いまのこの、冷たく熱く震える感覚で。この最高に爽快な気分で。こんなにも、明るく澄んだ陽に照らされて。草と土の上で。ああ酸欠で、視界が滲む。滲むから、もっと眩しい。
「――ルチア」
だというのに、俺の心臓というのは、早くなるから、厄介だ。そいつの声が綴る、俺の名前、そんな些細なもので、簡単に跳ね上がる。どくどくと鼓動する。
「――それで」
ヴァルはまだ落ち着かない呼吸の合間で、言った。
「つぎは、どこなんだ?」
「はあ……はあ……、……ええ?」
「次は、どこに、行くんだ」
途中で引きあげた東の塔か、それとも行ってなかった南の岬の先か。北の果ての氷の洞窟か。西の赤い森は、もっと探索したいと思っていた。
俺は首を動かして、隣の男を見た。ヴァルは、俺を見ている。濡れ、滴らせながら、荒い呼吸をしながら、翠の目の表面に、俺を映して。
「――なんで?」
なんだ、それ。
「なんでって、連れていくんだろ、僕を。……違うのか?」
「お前……、……はは、はは」
喉が、胸が震えた。全身が震えていた。答えず、ただ笑っている俺に、ヴァルはすこし、むっとして言う。
「お前が言ったんだろう。これから先を」
俺はそれに、更に笑った。ただでさえ息が苦しかったのに、もっと苦しい。
これから、先。
「ああ、そうだよ。魔術使いがいると、何かと便利だから」
「そうか」
世界が滲んでいる。泳いだせいにした。前髪から溢れた水滴が、目に入ったんだ。まばゆい。目を瞑った。どうかしたのか、と低い声が聞く。俺は前髪を掻き上げながら答える。お前がくそまじめだから。
「いいんだな、ほんとに」
「だから誘ったのはお前だろ。へんなやつだな」
そう、そうだ。そのとおりだ。魔術師ヴァル。あきれるほど真面目な男。翡翠色の瞳は、どこなんだ、ルチア、と急かす。まちきれない、子供のように。
「そんなの、決まってる。野暮なこと聞くな」
まったく、最高に、爽快な気分だ。
「どこへだって、どこまでだって」
それが、はじまり。俺たちのあたらしい旅のはじまり。
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