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2話 あてない道のめあて
寝息が聞こえている。深く、吸って、吐かれる。開いたままの目は暗さに慣れているから、天井隅の継ぎも見える。影の波が部屋を染めている。
隣のベッドで、男が寝ている。二部屋分を出すより、宿のランクを上げてひと部屋にした。――別に、節制しなくたっていいんだけど。金ならあるから。
静かだ。部屋には、男の規則正しい呼吸が満ちている。大きくない町だから、窓の向こうも静か。月は丸に近く、白い明かりがカーテンの隙間から滲んでいる。その濃淡の襞を見つめながら俺は、何度目か分からないまばたきと、寝返りを打った。布擦れに起きることなく、ヴァルは眠っている。
ふたり旅は順調だった。目的という目的もない。隣に乗せた男の体重によって、負荷の掛かった助手席側のタイヤの消耗が激しい、ということ以外、問題は無かった。
あれから――勇者の村からヴァルをさらってから――町や村をいくつか巡った。勇者のみ許されし瞬間移動呪文がないために、実に遅々とした移動だったが、それだって、どうということはなかった。はたすべきものが無い以上、何が起こっても順調だ。窓を開けてのドライブは爽快だった。
古く小さい町だった。都会と田舎の間、といった趣。実際、山間の村と港の間にあって、店も宿もある。小さいが工場もある。食料と日用品の調達もあったし、俺たちは一泊した。
買い出しは、基本ひとりでする。勇者との旅でもそうだった。自由行動時に連れ立つメンバーは自ずと固まっていて、けど俺はそういうのはごめんだ。ひとりで回りたい。(ヴァルは、勇者と女戦士、それから女盗賊と連れだって、たいていは荷物持ちをしていた。健気だな、と思った。よくやる、とも)。聖職者は教会に入り浸るし、格闘家は地元民と馴染んでるし、吟遊詩人は、あいつはどこでも歌を歌って観客を集めていた。
――協調性、というものが欠けていたパーティーだったな。車に燃料を注ぎながら、俺は口の端がつりあがった。けど、そうであったから、俺はあのパーティーにいたんだ。最後まで。
町工場では、みな自動車というものを珍しがった。俺の寛大な態度もあり、整備工たちは実に熱心に点検した。
「いいなあ、うらやましい」
「いやあ、すごい。かっこいい」
そうだろう、そうだろうとも。俺は好きなだけ愛車をみさせた。隅々まで点検されながら、愛車の具合は良好そうだ。将来的な、右側前方のタイヤの懸念を、やはり抱えてはいるが。
車の整備を待つ間、酒を買い、煙草と茶葉も調達した。俺はそこそこ充実した爽快な気分で、一度宿に戻るために道を曲がった……時だった。
道に、黒くてでかいものがそびえていた。着古され、毛羽立つ黒いローブ。
森や洞窟、夜のなかでは紛れるのに、昼の町だとそれは、はなはだ目立った。そして歩いているならまだしも、じっと道端に佇んでいるから、なかなかの威圧感だ。今日はフード(というにはボリュームがありすぎる)もつけているから、さらに着ぶくれしている。通り過ぎる視線は、物珍しげに皆そいつを眺めていく。俺は、動かないその横に立った。
「おい、つったんてんじゃねえ」
俺の声に、ヴァルははっと顔を動かした。いま気づいたように俺を見た。
「――ああ、ルチアか……」
「ああ、じゃねえ。通行の邪魔だ」
何見てんだ、と言いかけて、店の看板で理解した。……が、理解できない。
「――ケーキ屋ァ?」
ヴァルとそれが、結びつかない。ケーキ屋?
「……甘い物? お前、好きだったのか?」
「甘い物、というより……」
長い指が、ガラスの向こうを差した。そいつが呪文を唱えるときの動きに似た。
「好きなんだ。さくらんぼパイ」
さくらんぼパイ。……さくらんぼパイ?
「……何が好きって?」
「だから、さくらんぼパイ」
声と、発音された品と、そいつの神妙な顔が、どれひとつ混ざり合わない。
「……お前、知らないのか? さくらんぼパイを?」
「知らないわけないだろバカか」
馴染まない。そいつが唱える呪文以上に難解だ。俺の「バカ」にヴァルはむっとしたが、視線をガラスの奥に移すと、表情も戻った。
どうやら、本当に好きらしい、それが。
「お前がそんなもの好きなことは知らなかったがな」
「別に言うことでもなかっただろ」
それはそうだ。旅の間、俺はヴァルがそれを食べる所を見たことが無かった、というだけだ。買い出しで分かれて行動した時は食べていたんだろう。女戦士と女盗賊は甘い物が特に好きだったし……と思ったが、違った。
「食べていなかったなと思って、長いこと」
「あ?」
「あの旅の前に食べて以来だ」
置いていない店もあるだろうが、珍しいものではない。つまり、これまで素通りしていた。目で追って、しかしそれだけだったということだ。
「それは……」
こいつがそれを食うところは、イメージに無い。できない。己の印象の保持? 格好付け? こいつに限ってそれはない。
「なんで?」
立ち止まって、まじまじ見つめるほどだというのに?
「なんでって。他に買うべきものがあっただろう」
ヴァルはこともなげにいった。
あの旅のなかで、買うべきものはいくらだってあった。必需品以外にも、装備品や魔力回復薬や補強薬、魔術書……。日々戦って熟 れていくためにはそういったものが必要だった。金銭的に余裕ある旅というわけではなかった。……けど、最後の一年くらいは、だいぶゆとりがあったんじゃなかったか。報酬目当てでカジノに入り浸ったことだってあった。それに、みな好き勝手買い物をしていた。個人的購入品を咎める空気は、なかった。
他に買うべきものがあっただろう。
「――つまり、酒や煙草や茶葉や、そういう趣向品は、『買うべきもの』じゃなかったって?」
そういうことが、言いたいわけではなかった。しかし苛立ったくちは、そう吐き出していた。ヴァルは、違うと首を横に振った。そういうことを言ったわけではないと。そうだろうな、と思った。俺は、腹が立っている。自分でも、判然としないで。
「じゃあいっそ、作ってもらえば良かっただろ」
「……誰に?」
ヴァルは、本当にわからない、という表情だった。俺は、心底うんざりした顔になったんだろう。そして俺のその顔で、ヴァルはおそらく理解した。口を閉ざして、黙った。ガラスの内側のさくらんぼパイを見つめる。次に、そのくちびるが言うだろう言葉は分かった。 ――いいんだ、別に。
「――いいん」
「買えば良いだろ」
俺は遮った。
「――……え?」
「好きなら食えば良い」
『なんだ! ヴァルってばそうなの? じゃあ今日のおやつは決まりだね!』
そう言って、女戦士は嬉々として焼いただろう。ヴァルの、親愛なる同胞のために。その好みを聞いて、その好み通りに。素朴で美味い、焼きたてのさくらんぽパイを。
――……そんなの。
「もうあの旅は終わったんだ」
俺はドアノブを掴んで引いた。ドア上のベルがのどかな音で鳴った。
店内は、甘ったるい香りだ。バター、生クリーム。匂いが髪と服に付きそうだと思った。ケーキは嫌いではないが、好きでもない。焼き菓子の方が好みだ。それだって、紅茶を飲むときに、あれば囓るくらいだ。
店員は、安堵と困惑が混ざった顔で、「いらっしゃいませ」を発音した。ケーキを選んでいるとは思えないだろう顔で、長々とケースを覗き込んでいた旅行者に怯えていたのだった。
ショーケースのなかにはいくつも種類があるのに、ヴァルの目は他に見向きもしなかった。華やかなデコレーションに一瞥もくべないで凝視する。艶やかに焼かれたパイ生地と、そのなかから覗く赤色。
「買えよ。金はあるんだから」
戦闘もない。買い物は済んだ。やることは、もうない。
「あとは宿に戻って飯を適当に食って茶を飲んで歯磨いてクソして寝るだけだ」
「ケーキ屋で、クソとか言わないほうが良い」
「うるせえとっとと注文しろ」
ヴァルは呆れた顔をした。そして、ぼそぼそと、しかし高揚に幽かによれた声で、言った。
「その、さくらんぽパイを……」
俺は充満する甘い匂いを吸いながら、思わず天井を仰いだ。ほんとに似合わない。顔と声と、発音されたアイテムが。なんなんだいったい。
「……ルチアも食べるか?」
俺は肩を竦めた。まあそうだな、の表明だった。
「なら、――六切れください」
「内訳どうなってんだ?」
宿のテーブルの上に、さくらんぼパイがある。皿の上に、六切れ集合している。六切れって。ホール買いなんじゃないか。パーティーでもする気か? パーティーなんてもうないのに? ヴァルは皿を二枚用意し、自分の前とその向かいに置いた後、椅子に座ってじっとしている。前傾姿勢だ。テーブルの上を見つめている。俺が「待ってろ」と言ったからだ。俺がポットをテーブルに置くと、弾かれたように顔を上げた。
「もういいか」
「だめだ、あと三分」
ヴァルはむっつりと黙ると、ふんすと鼻を鳴らした。くちびるをやや突き出している。犬か、ガキかよ。俺が嗤うとヴァルは「少なくともお前より一年と二ヶ月は若い」などというので、テーブルの下で長い足を蹴った。
買ったばかりの茶葉だから、香りが立った。カップに、透明で澄んだ色が溜まっていく。俺は顔が緩む。この瞬間が、まったくもって好きだ。
「最高に爽快な気分だ。だろ?」
「そうだな。いただきます」
「おい」
ヴァルは素早く祈りの手を合わせた後、パイの上にフォークを突き立てた。さぞ大きく切るだろうと思ったが、慎重にくずして掬った。開いたくちに、ゆっくりとフォークが進む。くちびるが、顎が閉じた。咀嚼。
「うまいか」
俺は、聞いた。聞かなくても、ぜんぶ表情には出ているんだが。
「――美味しい」
「へえ」
「おいしい。うん。おいしい」
そうかよ。俺はカップにくちをつけた。
食べると、もっと欲しくなるからだ。
二切れ食べたところで、ヴァルは言った。おそらく一切れで満足できないからだと。俺は、テーブルの上のパイを眺めた。いままで食っていなかったとはいえ、六切れも頼むやつだ。ちなみに六切れというのは、俺とヴァルで三切れずつ、という計算らしかった。まだ合計四切れ残っている。
「ただの僕の問題だ。趣向品が購入に値しないもの、と思っていたわけじゃない」
ヴァルはフォークを置くと、指を組んだ。骨張った指だ。表情は真面目だ。急になんだ。俺は意図が読めない。どうやらケーキ屋で話したことに因るものらしい、ということは分かった。
「それにお前の淹れる茶には、みんな喜んでいた」
声は、ひとつひとつ音を繋いだ。間違いがないようにというふうに、おそらく呪文より、注意深く連なった。
「激しい戦闘があった日。夜になってもまだ強張りが残る表情が、お前の淹れた茶を口にすると、みな和らいだ。ほぐれて、呼吸が深くなって、よく眠れた。……魔術や祈りで、それはできない。内側に深く作用することは難しい」
俺は、ヴァルのくちびるばかり見つめていた。荒れがちのくちびる。めずらしくよく動いている、と思った。
「酒だってそうだった。煙草も。お前は率先して勧めた。精神が張り詰めて澱んでいた夜は特に」
だから、贅沢でも趣向品でもなかった、とヴァルはまとめた。
「必要不可欠だった」
「はあ」
そう俺は答えた。ため息ではなく、気の抜けた返事だ。本当に、はあ、という感じだ。
「お褒めにあずかり? 光栄だが、俺は俺が飲みたくて吸いたくてしただけで、それをあいつらが勝手に美味しく呑んだんだ」
「それでもだ、それでも……」
疲れる会話だ。すこしも爽快じゃない。
「……美味いかよ、それ」
問いに、ヴァルは伏せていた目を上げた。翠の虹彩に俺が映る。
「美味い」
「紅茶は」
「……美味い。さくらんぼパイに合う」
「それで、お前も?」
「……なにが?」
「何がじゃねえ。さっきのは、お前もだったのかって聞いてんだよ」
そいつの太い眉が、怪訝そうに潜められた。逡巡があったが、理解したらしかった。ヴァルは、頷いた。深く重く。
「ああ。僕も、そうだった」
それなら、もう、いい。
「じゃあもう黙って食え」
俺は、テーブルの上を顎でしゃくった。
「全部、お前が食えよ」
「え、僕が? いいのか」
「いいもなにも、もう充分だっての。つーか二切れは食い過ぎた」
信じられない、という顔をヴァルはした。さくらんぼパイが二切れでいいなんて、といいたげだ。全員お前と同じと思うな。趣向も胃袋も。
「ああ。二切れでも満足できないヴァレリウスくんにプレゼントだ」
俺を映した目が輝いた。
良い子のヴァレリウスくんは、その後はもくもくとパイを食べた。俺はいくつかの揶揄を飛ばしながら、空になったカップに紅茶のお代わりを注いでやった。
「うまいか」
「うまい」
「よく食えるな本当に、尊敬する。胃袋どうなってんだよ。おい、口につけてんなよガキかよ。それともかわいこぶってんのか? あざとくないんだよお前がやったって」
「え……? どこだ? 取れたか?」
「取れてねえよバカ。逆だ。そこじゃない。つうかぼろぼろ胸元にこぼしすぎてんだよ、ああもうクソかよ」
「食べて飲んでる時に、それを言うをやめろよ」
「取った。取った取りました~~情けねえ。まぬけ。がっつく犬かよ」
「……助かる。けど、言い過ぎだぞ。僕は犬じゃない」
「うるせえばぁーか、浮かれポンチかよ。はしゃぐのもいいかげんに……」
しろ、を言う前に、俺は額を押さえて仰いだ。乾いたくちびるを閉じて噛んで黙った。
「…………どうした? やっぱり、食べたかったのか?」
「ちげえよアホなんでもない。……甘いモンで脳が揺れてんだ」
「脳が揺れる……? 該当する緩和呪文は何かあっただろうか……」
俺はいらないと首を振って、煙草を持って椅子から立った。視界の隅に、ヴァルが最後のひと切れに手を伸ばしたのが見えていた。舌打ちが出た。浮かれポンチではしゃいでいるのは、いったいどっちだ。
それが、昼間あったことだ。
いま、隣のベッドで、ヴァルは眠っている。健やかな寝息が、広くはない部屋に響く。寝つきが実にいい。羨ましいくらいに。
ヴァルはよく眠った。夜更かしはせず、早寝組だった(だからといって朝が早いわけではない。起床も最後尾ではないが、ゆったりと起きてくる)。いきびはない。寝返りもうたない。岩のようだ、と思っていた。泥のように眠るとは、こういう様を形容するのかとも。
(俺が加わって四人。最後は八人。男は五人。全員で野宿、宿は男で揃って相部屋か、二人と三人。俺は追加で金を出してひとり部屋にしたことも多かった)
早寝のヴァルと、夜は飲み歩きたい俺の部屋はたいてい別だった。ヴァルは、勇者と同じ部屋だった。魔術での護衛も兼ねていた。夜は防衛陣を張ってから眠っていた。
こうしてふたりになってみて、存外に、その呼吸音が響くことを知った。薄く開いたくちびるから、吸って、吐く。広い肩が、胸が、膨らんで、萎む。
魔力は、眠ることで回復するらしい。回復薬でも充填できるが、それでは根本的復活にはならない。
ヴァルは魔力を惜しむこと無く使った。魔力を底まで使い果たし、無理に出力しようとし喀血し、それでもなお、首に下げた魔力石を噛んで捻出した。一度二度ではなかった。
魔術というもの。俺は、無から有を生み出すものだと思っていた。望みが簡単に叶う魔法。けど、そうではなかった。魔力は、エンジンと同じだ。原動機。発動機。内燃機関。燃やしているんだ。己を、命を。――ヴァルをみてそれを知った。(だからこそ、あの杖殴り戦法が謎だ。性なんだと本人は言い訳する。サガ。殴った方が早いときもある、などと続く。どんなサガだよ。魔術師が物理で殴るなよ)。
寝返りを打つ。俺は、昼間のことを思い返す。
うまかった、と、ヴァルは言った。煙草から戻った俺にむかって、綺麗に空にした皿を前にして、はにかんでいた。緩んだ頬と鼻の先が、薔薇色だった。紅茶も美味しかった、ルチアの淹れる茶は美味いな。魔力切れに掠れていない声で。くちの端にまたパイの欠片をつけていた。俺は、せっかく冷やした頬にまた血が集まるのを忌々しく思いながら「そうかよ」と返した。ヴァルは満足した顔で、俺の指摘した口元を拭った。
さくらんぼパイくらい、買えば良かったんだ。そうしたら、みんなして食った。俺も、食った。茶も淹れただろう。今日淹れたのと同じ種類の紅茶を、人数分。食えばいい。食えば良かったんだ。きっと別に、誰も言わなかった。皆にこにことして、食べた。
食えばよかったんだ。
天井を見る。壁紙の模様に、寝息が、さざなみのように寄せては返している。
ヴァルは、節制をしているようには見えなかった。守銭奴の女盗賊のように切り詰めているふうでも、聖職者のように赤貧に努めているふうでもなかった。格闘家のように禁酒を課しているようでもなかった。ただ欲が無い男だと思っていた。魔術と睡眠、女戦士に向ける感情以外、興味がないんだろうと。……しかし、そうではなかった。
――つまり、切り分けられたわけだ。いまは不要なものとして、あの四年間の旅をするあいつから分離して、捨て置けてしまった。弾丸を発射した薬莢のように。
「……くそくらえだな」
独りごちた。聞こえる寝息の規則は変わらない。
隣のベッドで眠る男を、眺める。今夜何度目か分からず。
いま、消耗した魔力を回復するためでなく、ヴァルは眠る。おそらく、寝たいから、眠っている。長い襟足が、根のように首と枕に流れている。その浮き出る喉仏が昼間に発した、俺が確認して言わせた、俺のエゴのための言葉が、耳の奥に残って、震える。
『ああ。僕も、そうだった』
「……くそ」
顔を、枕に押し付けた。枕元の軽石から、振りかけた紫花の香油が香る。
磨いて濯いだはずの咥内に、甘ったるさと酸っぱさが残るようだった。胸焼けのように熱く痺れる。俺の胃のなかにある、パイ二切れと紅茶二杯。ケーキ屋の前で出かかった言葉が、胃の中で混ざり合い、まるで胸を押し上げる。そいつの、ヴァルのなかに納まったものを思うと、更に。パイ四切れと、紅茶三杯。
いったいいくつ存在するんだろう? こいつのなかに、本人さえきっと気づきもしないそういうものが。捨て放たれたものが。
「――そんなの」
枕に向かって吐き出しながら俺は、はっきりと、自覚していた。飲み込んだ言葉と、起因する感情を。……エゴだというのは、分かってる。こいつはそんなもの、パイの欠片ほども望んでいないだろう。けれど。
『――そんなの俺が食わしてやる。俺に言えば、六切れだろうとホールだろうと。好きなだけ。いくらでも』
男の、閉じた瞼と動かない頬を見据えながら俺は、俺の内側に、填まり込むものを、理解した。銃に弾丸を装填するときの精確さと、手応えで。
なら、すべて拾ってやろう。
お前が捨て置いたものを、俺が。そしてその手に握らせてやる。二度と捨てさせない。きっとそれが、この目的のない生ぬるい旅の……。
俺の発する布擦れに起きることなく、俺の視線に気づくこともなく、ヴァルは眠っている。俺は、動かないまま眠る男の、どこまでも健やかな寝息を聞いている。
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