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3話 ぬれて雨にしとどに

 ひどいスコールだ。  太い、まるでつららのような雨糸によって、視界が白む。激しく打たれた土は跳ね上がり、濁った飛沫になる。  ――このあたりのスコールは短いが、激しいぞ。  ゆうべ酒場で笑っていた村人らの言葉を思い出す。 ――そうそうまるでひと夏の恋のように? ――なんだアそれは。  がはがは、げらげら。 ――恋というよりも、アレだろう。 ――アレってなんだよ? 兄ちゃん言わせんのかあそれを。  がはがは。  夜の酒場というのはだいたいこんなふうだ。平和になってからずっと浮かれている。良いことだと思う。皮肉ではなくて、心から。  ――ま、山を登るとしたら、せいぜい気をつけるわ。  たぶん、行かないだろうなと思いながら、俺はそう返した。村民は目を細め、たっぷりと余韻を持って言った。 『気をつけたところでな、「愛の矢」からは逃れられないぞ、なんてったって山の天気は変わりやすいからな』  ……愛の矢。この村では、スコールをそう呼ぶらしかった。  山に登りたいと言ったのは、ヴァルだ。俺の反応はもちろん「はあ?」だ。  ――気になるものがある。  ――何が? 本でもう腹いっぱいだろうが。  ――珍しい薬草があるらしい。  本屋かどこかで話を仕入れたようだ。この辺り固有の品種で、生える時期の短さと傷みやすさから、ほとんど流通されないという。  本当に、いまのこの時期だけらしいんだ、とヴァルは続けた。妙に得意げなのが腹立つ。「ルチアは薬草やハーブが好きだろう?」と。お前はそんなもの興味の欠片もないくせに。 「ああ、クソ」  毒づきながら、最悪な視界のなかを走る。ひとつぶひとつぶがデカい。そして痛い。矢のように降る。雨粒の温度はぬるい。ぬるいからか、粘度を纏って肌に伝う。張り付くシャツが気持ち悪い。頭からブーツの内側まであますとこなく濡らしていく。この山の土に染みこみ、一年を通して清らかな水を滾々と湧き上がらせるというスコール。命の源。豊穣と繁栄の象徴。愛の矢。  舌打ちする。最悪だ。しかし吐き出したところで、どうにもならない。誰にも聞こえなくとも、俺は吐き出す。 「最悪だ」  どうして、ついてきたんだろう。  山は好きじゃない。前の旅でさんざん登って、もううんざりなんだ。ここにくるのは、こいつひとりだって良かった。……というより、この村に俺はそもそも用がない。  あの四年間の旅のなかでも立ち寄らなかった、小さすぎる村だ。遣いのクエストを依頼されたことはあったが、遠さから請け負わなかった。山奥の村。教会に、古い魔術書が寄贈されたとの謂われがあるくらいで。  それについては昨日、確認できた。教会に、それはたしかにあった。古くて、すでに普遍的になっている事柄、というのがヴァルの見立てだった。つまり、ただの古い魔術書だ。こういうことは、よくある。魔術は知識と技術であり、刷新されていくものだから。 『けど、これはとても良いものだ』  そうヴァルは評価した。実用性はなくとも、当時とこの村の歴史を紡ぐものだと。それはそのまま教会に保管されることになった。この村の歴史の一部として。  ――まあ、それは良い。問題は、いまのこの状況だ。俺はさっさと港に向けて出発したかったというのに、どうしてなんだ。登る気もなかった山に登り、忠告されたスコールをしっかり浴びている。  どうしてかって?  俺は自問に、自答する。そんなの、明らかだ。うんざりするほど。嫌気が差すほど。俺は目の前の、ようやく効果が出てきた雨避けの呪文を張る、黒い背中を睨んで、追う。  廃屋だった。どうみてももう使われていない、うらぶれた山小屋だ。屋根はズレいて、 全体が傾いている。 「……このまま山を下りた方が早くないか」  首だけで振り返ったヴァルは、何を言ってるんだ? という目で俺を見た気がした。気がしただけだ。そいつ顔も表情も、雨に遮られてよく見えない。濡れそぼり水を吸ったドアは、ヴァルが引いた途端、いやな軋み方をした。中から流れ出た、埃と黴の濁った匂いが、鼻をついた。  ところどころ雨漏りはしているが、あの太い針は凌げた。俺は、床に腰を下ろす。全身が重い。髪を掻き上げる。滴が飛んで、床に染みを作った。  手加減をしないスコール。風はなく、真っ直ぐ降っている。どうどうと音が響く。魔王の攻撃かなにかかと思う(これはあんなふうに邪悪ではないが)。 「しばらくここで休もう、ルチア」  ここに勇者がいたら。大きく息をつき、呼吸を整えたのち、肩を震わせただろう。吹き出し、声を上げて、笑う。ああびっくりした、ほんと、すごいスコールだ。あはは。脳天気でのどかすぎる態度が、伝染する。毒が抜かれる。呆れる。緩む。笑う。笑い声が、いまにも朽ち落ちそうな天井いっぱいに満ちる。  勇者はもうここにいない。そいつに似合う、そいつがいるべき生きるべき場所で暮らしている。俺は、そしてヴァルも、そういった朗らかな情緒は持ち合わせていないため、気怠く黙っている。  重く濡れた音がした。ヴァルが、ローブを床に放った。 「服を乾かす」 「……いらねえ」  ヴァルは、額を腕で拭いながら怪訝な顔をした。 「帰りにだって、どうせまた濡れんだろ」 「? 止むまで待てばいいだろう。このままだと冷える。あと、空気もこもっていて悪い。浄化を行う」  俺が拒否するより先に、ヴァルのくちびるが薄く開いた。その内側で舌が翻ったのが見えた。雨音に紛れながら、低い声は空気を震わせる。場が蠢いて、ヴァルの濡れた髪を僅かに揺らし、滴をしたたらせた。  透明な暖気が、蔓のように俺を覆い始める。 「少し時間が……十五分は掛かりそうだ」  十五分。俺は胃の奥が強張った。 「…………急げよ」 「できるだけ健闘してみる。この雨、少し特殊なんだ」  巻き付く熱が、上がった。俺は目を閉じる。空気の浄化もはじまった。湿った不快な匂いが薄れていく。俺は深く息を吸った。  肌が、重い。 「ルチア……大丈夫か?」 「疲れた」 「回復を」 「いい、いらない」  仕方ないという顔で、ヴァルは俺の横に腰を下ろした。 「加護を濃く帯びている。ふしぎな雨だ」  加護を含む水は、粘度がでるんだったか。肌に張り付く水はとろんでいる。渇きが遅い。いつまでもぬるい。 「この山は霊気が強い。魔術書にも記載があった。雨粒のひとつひとつに、加護が溶け込んでいる……」  慈愛……いや、少し違うな、なんだろう……とにかく、独特だ。ヴァルはぼそぼそひとりごちている。  ――この村では、夫婦になったらこの時期に山に登るんだ。酒場の店主が話していた。  夫婦は共に「愛の矢」を受ける。儀式として。健康と繁栄。そして、ふたり結んだ契りの熱が、いつまでも冷めぬようにと。  今年の「儀式」は、先週終わったばかりだという。だから気兼ねせずに登ってくれ。  ――……なんだ、知らなかったのか?  ――てっきり、それを目当てできたのかと。  笑った村人たちに、違う、と俺は首を振った。 (なおさら来なくて良かった、前の旅で。いや、来た方が良かったのか? 来ていたとしても、きっと結婚のタイミングは、変わらなかっただろう。勇者と女戦士。魔王を倒すまで、せいぜい手を繋ぐくらいだっただろう)  いまさら、どうでもいいことなんだが。 「奥のベッドも、軽く清めておいた。だいぶ古いが、まだ使えそうだ。横になるならそこで」  どうも、と頷いて、俺は立ち上がる。脚が縺れそうになるのを堪える。手を貸そうか、という申し出を振り払う。いらない。必要ない。冗談じゃなかった。  ほんとうに、冗談じゃない。  シーツの上に、うつ伏せに倒れた。フレームが嫌な音で鳴ったが気にしてられなかった。古い毛布もシーツも、澱んだ匂いで鼻をさす。ごわごわとして心地悪い。それにも構っていられず、俺は枕に顔を埋めた。  ヴァルの暖気が、肌を撫でている。  渇きが遅いから、執拗に、何度も、繰り返し。さっきからずっと、全身を。  回復魔法なら、もっと早い。四年の間で練度が上がって、いまならいっしゅんだ。傷跡も残さずに、たちまちに終わる。……のに。  枕に顔を深く押し付けながら、くちびるを噛む。喉につまる息を無理矢理飲み込む。首筋がふつふつと粟立つのを、気のせいにした。  同じ術でも、扱う者によって質が変わる。効力効能は同じでも、テクスチャーが変わる。  ……文字もそれを書くひとによって、筆跡が違うでしょう。それと似ていますね。  いつだったか聖職者が言った。そしてそれを、俺たちは確かに体感していた。同じ回復魔法でも、ヴァルと聖職者が用いるそれは違った。  例えるなら、――吟遊詩人は謳うように、きざったらしい批評を述べた――彼女のは、そう、清冽な水で洗い清める。凜とした、野に咲く清楚で清潔な白い花。一方で、ヴァルくんのは午後の光というべきか。葉を透けてまだらに落ちてくる。それから大樹の太い幹の確かさ、あたたかさ、というのかな……。  詩人の言葉はいちいち装飾が多い。が、理解できなくはなかった。  聖職者の用いる呪文は涼やかだ。ひやりとする。ヴァルのはその逆だ。――ぬるい。ぬくい。野暮ったい男から生み出されるとは思えぬほど、やわらかに、繊細に触れる。傷口に重なる。撫でる。 「…………っ、ぅ」  いったい、いつからだっただろう。それに肌を撫でられる度に、息がつまるようになったのは。  ……十五分。 「……もう、いい」  雨音にかき消される。ヴァルの耳に届かない。もう一度それを言う代わりに、毛布を深く被った。言ったところで、どうせ止めない。毛布を噛む。毛羽だった上顎に触れて吐きそうになる。吐き気のがマシなので、深く噛んだ。  はじめは、軽い違和感だった。雷魔術のあとに残る静電気のような。それが、肩が跳ねるようになった。肌が粟立つようになった。背骨から尾てい骨にかけて、痺れて、息がつまる。息の塊が、くちから飛び出て。いまでは、頭に、顔に、熱が溜まって。 「――……は、ぁっ」  聖職者のそれではこんなことにはならない。回復魔法も、能力増強魔法も。だから俺は、できれば聖職者の術を受けたかった。だが、戦闘中にそんなことを言ってる余裕はない。言えるはずもない。……言いたくなかった。死んでも。  でも、どれもぜんぶいっしゅんだった。精度が上がった術は、効果の発現も早かった。数秒間。そのいっしゅんと、後の鈍い痺れを受け流しさえすれば、それで。  なのに。  こんなのが、あと十五分も続くのか。服はまだ湿っている。髪は生乾きだ。 「ふ……、ッ」  服を肌を、くまなくなぞる。撫でる。首、背中、腕、胸、脇、腰……下着まで濡れたから、その内側も。 「ン、……く……」  寝返りを打つ。ヴァルに背中を向けた。毛布のなかで膝が擦れた。  だから、嫌だったんだ。あのまま山を下りればよかった。宿についたら真っ先に浴室に入って終いだった。そもそも、ついてこなければよかった。……クソ。クソクソクソ。嫌だ。いやだ。はやくおわれ。乾け。  ――ほんとうに? ほんとうに、はやくおわれとおれはおもっているか? 「…………ん、ぁ……っ」  身体が、あたまが、焼け焦げそうに熱い。溝という溝、へこみというへこみ、すきまというすきま。穴。爪の間にまで絡んで、撫でる。折り曲げた膝の裏。指の付け根。ふれてないばしょなんて、ない。心臓から腹にかけて。焦げつき、蒸発し、ぐずぐずにくすぶり。肌が粟立つ。それすらもなぞられる。舌先がしびれる。唾液を生み続ける。飲み込むのに失敗したそれが、くちびるから溢れて枕に染みた。濡れたものと判断し、そこにも熱が触れた。ふれる。ねぶる。さわる。やわらかに。  苦しい。――こんな、の。 「ぁ、……ん……っ」  渇きの悪い水のせいだ。愛の矢なんかでは、ない。その効能なんかでは、ない。 「……ルチア」  名を呼ばれて、全身ががくりと震えた。息を呑んだ。は、と喉が鳴ったが、ヴァルには届かなかったようだった。気配がいつのまにか、傍にきていた。低い声はたしかに俺の耳に降った。呪文の効果は完了するまで続くから、そいつのくちは自由だ。 「遅くて悪い。……具合、悪いのか?」  しゃべるな、と思う。しゃべるな。しゃべるな。なのに、耳は拾う。ごうごう続く雨音に紛れているはずのその低い声を、的確に選り分けている。 「おい。大丈夫……」  肩に触れてきた手を、俺は反射的に払った。肌がぶつかる音がした。指から手の甲にかけて、じりじりと痺れる。 「……さわんな」  ――ほんとうに嫌であるなら。張り付く服を脱げば良い。ドアを開けここを出て、ひとりで山を下りれば良い。今からでも、今すぐにでも、そうすればいい。 「お前……」 「なんでもない」 「良くないんだろう」 「なんでもないって言ってんだろ!」 「顔が赤い。熱が……」 「――ざけんな!」  振るった俺の左手を、ヴァルの手が掴んだ。単純な腕力ならヴァルの方が圧倒的に上だ。力比べでは敵わない。魔術師には到底必要もないものだと思うのに。 「……っ、ぐ……!」  そのまま、両手とも顔の横に縫い付けられる。は、と肺から息が出た。触れた場所が、脈打っている。それは俺の手首の内側で続く鼓動だ。肌。乾いた手。食い込む。骨にまで、響く力で。  いい加減、ねちねちねちねち、くすぐったいんだよ。そうやって罵倒するために吸った空気が、喉の奥に留まったまま消えた。代わりに喉を狭めながら、掠れた、湿った音が、生まれてくちびるから出た。 「ぅ……あ……」  顔を、見られる。目が、あう。森の奥の泉の色がふたつ、俺を見下ろし映している。 「瞳が水っぽい。やっぱり具合がよくないんだ」  言葉と共に、吐息が、降る。霧散するまえに、俺の鼻先とくちびるに、届いた。ぬるくて、だから、身体を這う、熱と同じで。それに、気づいてしまって。  俺は。  背を逸らし、浮かせた。それだけでよかった。充分に届いてしまえた。あっけなかった。ヴァルは動かなかった。  くちびるがくちびるに触れた。数秒のことだった。 「――――」  翡翠の水面が、俺を見下ろしている。悪い、と言うべきところだった。そう分かっていた。が、舌先で、もつれた。 「どうして、避けなかった」 「どうしてって」  避ける気になれば避けられた。こいつにはそれができるだけの身体能力はあるんだ。……なんて理不尽で不条理な言い分だろう。思うのに、俺は吐き出し続ける。 「知ってるくせに」  脈が速い。内臓が重くて痛い。頭痛がする。視界が狭まる。  いつまでも乾かないからだ。濡れたままだからだ。俺は少しも乾かない。その目を見る度に、湧き上がり、まるで心臓を圧迫する。思考はどんどん碌でもないものになる。 「俺がお前をどう思っているか、知ってるくせに」  反吐の方がましと思われるほどの台詞を吐き出す。爽快じゃない。スマートじゃない。なんて、惨め。  こんなことを言いたいわけじゃない。 「……知ってる。けど、それは」  続きを聞きたくなかった。圧迫され続ける心臓が軋んだ。だから、止めるために塞いだ。厚いその肉が何も紡がないように。くちびるも舌も、ぜんぶ使った。 「ん……ぁあ……、ん、……む……んん……」  火花が煌めく。目の奥で。発火する火薬の生む閃光。まばたきの度に、溶暗し、溶明する。  やめどきがわからない。  体重をかけて押し戻した。力がいっしゅん抜けた腕を掴み、拘束した。こういった技は俺の方が上だった。くちと舌の自由を奪われた魔術師は、俺のされるがままになっていた。体勢が、逆転する。押し倒す。のしかかる。スプリングが派手に軋んだ。ヴァルは簡単に、俺に縫い付けられた。 「ふ………っ………、う……ん……」  絡まる舌の間で、苦しげな息をする。へたくそだった。はじめてなんだろうと思った。思った途端、粘り気ある優越が俺を満たした。くちびるをしゃぶふ。俺をいつまでもねぶる魔術のように。繰り返し、しゃぶった。角度を変える度に音が立った。 「はぁ……っ」  くちを離したあとも、のしかかられた男に抵抗はなかった。俺は、その腹筋を尻で押しつぶすようにする。内臓を圧されたヴァルは短く低く呻いた。唾液に濡れたくちで、ぜえぜえと呼吸しながら、顰めた眉で俺をみあげていた。みずうみの瞳。黙っている。なので俺も何も言わなかった。  馬鹿なことをしている、馬鹿でクソなことをしている――頭の後ろの方で告げ知らせている。鈍い頭痛に似ている。引きかえせと命令する。警告する。だめだ。だめ、だめ。だめだ、こんな。  しかし、それよりも奥の深いところで、はっきりと、放つのだ。明白で、疑う余地もない。  撃て、と。  俺はくちを腕でぬぐったあと、そいつのベルトを手早く外した。  ……どうでもいい。どうにでも、なればいい。なによりも、この機会を逃がしてはならない。……そればかり、身体が唸った。  抱かれたかった。目の前の、この男に。だかれたくてたまらなかった。 「なあ。シようぜ。セックス」  男とはじめて寝たのがいつだったかは、憶えていない。重要ではなかった。これといった感想もなかった。浮いたのは、女を抱いたときとだいたい同じ感想だった。こういうものか、と。怠い身体だけが残っていた。  俺を抱く男は、皆おそらく上手かった。そういう男ばかり選んでいたかもしれない。へたすれば流血沙汰だ。それはごめんだった。何が愉しくて尻を負傷して血を出さねばならないのか。切れた尻のために薬草を食わないといけないのか。  そういう男は酒場でひっかければ、案外簡単につれた。身なりと手付きで、だいたいわかった。小綺麗で、時計が高価で、羽振りと人当たりが良く、俺の腰ばかり見る男。  そういう男たちと、してみて、何度目かで、飽きて止めた。気持ちよくはあったがそれだけだった。愉しくなかった。  ――君、才能有るよ。  練れた手は、俺の外側も内側もなぞりあげた。背を逸らした俺の首筋に、くちびるを這わせながら、決まってそのように述べていた。  ――才能? そんなもの。  跨がる俺の脚を撫でながら、ああ、と男は呻く。  ――くそくらえだろ。 そう答えた俺の尻たぶに指を食い込ませ、口元ばかり下品にゆるめた。そうして長々と、俺を犯した。 「――――あ……!」  嫌な感触だった。引きつり、痛み、すべきではない行為であること俺に告げた。それでも腰を下ろすと、骨盤が軋んだ。 「――――ぃ、……っう」  痛え、と出掛かって飲み込む。腰をくねらせる。こうすると、男たちは下卑た顔になって悦び張りを増した。この男もそうかはわからない。萎えるなよ、と思いながら、それをする。息を吸って吐く。挿入する。 「はあ……っ、あ……ぐ……!」  そいつの顔に背中を向けて、腹に跨がる姿勢で。ゆっくりと、ねじこんでいく。ヴァルのペニスを、俺に。どうかしていると、分かりながら。  顔を、見られたくなかった。そいつの顔も、見たくなかったから。  「愛の矢」のためかもな、と思う。俺ではなくてヴァルが。俺の尻穴にそのペニスを喰われても、勃起したままでいるヴァルが。  それとも、案外こういうの好きだったりして? まさか。 「ぅ……っぐ……ぁ……はあっ……はあっ……」 「ルチア……」 「黙れ」  太股辺りに溜まるそいつの下着をみた。抜けた陰毛が、一本絡んでいるのがみえた。急に、すべてがばかばかしく、空虚に思えて、俺は目を閉じた。腹の内側を進む異物感と、不快感からくる悪寒に耐えた。  なにしてるんだろう、俺は。 「う、っ……く……」  失恋した男を奪った。連れだした。それだけで満足だったはずなのに。しおらしい、健気な俺はどこにいったのか(けど、そんなものクソくらえだ)。いまの俺は、しごいてしゃぶって勃起させて、尻にぶちこんでる最中だ。 (惚れてる男の、何もされず、ただそこに置かれた感情を、こんなふうに使うなんて) 「あ、っ」  ヴァルの手が、俺の太股に触れた。それだけなのに、声が出た。惚けた、甘ったるい声。痛みしかなかった腹が緩んだ。どの男の手にそれをされても、なんとも思わなかったのに。  触るな。さわるな。さわるな。けど、喉仏をつきあげるのは、まったく反対のことばだ。さわれ。さわれよ。もっと。結局どれにもならず、「ううん」と鳴いた。腰が、ひとりでに沈んだ。ずぶずぶずぶ。  ヴァルのペニスは、ぜんぶ俺に入った。 「――――ぁ、――ああ」  いままでの男たちは、やはり上手かったんだと思った。こんなに苦しくなかった。こんなに痛くなかった。多少の苦痛はあったが、それだけだ。なにごともなかった。こんなものかと思った。ぜんぶ、こんなんじゃ、なかった。  両手をシーツにつく。いま俺に埋まっている男の、太股と、俺が下ろした下着が……視界が滲んでいく。酸欠のせいだ。ケツが切れたせいだ。痛い。いたいいたい。苦しい。苦しい。 「……ルチ、ア……」  背中に、いまにも死にそうに掠れる声がした。無様だ。俺は嗤おうとしたが、空気が通っただけだった。俺のほうがよっぽど無様。 「……血が、出てる」 「は……、な、に」  指先が、尻に触れた。尻たぶを、掴む。 「やだ……や、め……」  軽く力を込めて、開いた。「患部」を見るためだった。俺は、ああ、と喉が鳴った。くちを閉じた後も、鼻が高く鳴った。みるな、みるなみるな。みろよ、みろ、もっと、その目で、その翡翠いろの瞳で、そこを。崩れ落ちそうになる腕を突っ張らせて、耐える。鼻は、まだ鳴っている。 「…………」  沈黙のあと、そいつが息を吸ったのが聞こえた。俺の耳ははっきりとそれを捉え、聞いた。ヴァルの指先が、撫ぜた。ヴァルと俺のつなぎ目を。そして。 「――――」  唱えた。そこに向けて、呪文を。  俺は、絶叫した。けど、絶叫と思ったのは、俺だけで、実際に口から出たのは、どろどろにとろけた、濡れた悲鳴だった。  火花が煌めく。目の奥で。発火する火薬の生む閃光。 「は、ぁあ、あぁあああ、あ」  あ、あ、ああっ、ばか、だめ、だめだ、だめだ。そんなとこに、おまえの、おまえの、そんな。 「あ、あ、あ、あ、」  ぬるい、といき、おまえのといき、低い声をつむぐおまえの、そのといき、そのままの、ねつが、ふれる、なぞる、から、あああ、おれは、だから、おれは、あっ、あっ、しびれる、――あつい、あつい、あつく、て、あ、あ、あ、あ、だめ、だめだ、こんなの、あ、あ、あ!  きもちいい。くるしい。 「ルチア……っ……!」 「ふあ、ぁあああ!」  オーガズム、した。 「――は、ぅう、ううんんンっ!」  いちど到達したら、緩やかに引いていく、のに。まだ、びりびり、つづく。灼く。全身が震える、痙攣する。とまらない。ああもしかして、かいふくまほうじゃ、なかったんじゃないか? かみなりを、はっせいさせる、じゅもんなんじゃないか。けど、それはやわく、ぬるく、おれをまだ撫でている。負傷した患部を、なおしてる。くるくる。くるくる。なで、て。 「や、ぁあ! ――ぁあアあッ!」  たえられなくて、頭を振る。だめ、だめだ。だめだ。ばかになりそうだ。ばかになりそうだ。おかしくなる。おかしくなる。ルチア、と低い声が呼ぶ。声に、鼓膜が震えて、脳がしびれて、ああ、あああ。背骨から、あっあっ、おまえを、あん、くわえたばしょまで。 「っ……ルチア……」  だから、呼ぶなって、また、イきたくなっちまうから、イったのに、いま、いった、ばっかだってのに、がまんも、する、ひま、ない、から、ああ、や、や、あ、あう、あ、あっ、イく、イく、イったのに……イく。 「ぁあっ! やっ、あぁんっ! も……う、あうううぅ!」  また、イった。俺は自分のペニスを握って、めちゃくちゃに擦った。初めて自慰を知った猿みたいに。そのまま射精した。白く濁った、濃くて量のあるそれが四方に飛んだ。射精しながらもずっとしごいた。毛布を汚した。思春期のガキみたいに飛んだ。 「はあっ! んあっ! あ、あぁ、あン」  ――猫みたいだ。猫ちゃんみたい。声。かわいい。かわいい声だね。  男たちは、俺が声をもらすたび、そう揶揄した。揶揄するくせに、ペニスをさらに長くした。俺を褒めているらしかった。そして腰をさらにピストンさせた。  その時と同じ声が、おそらくいま、喉からでていた。……それよりもっと、ぐずぐずだ。耽った猫。 「ふぁ……あぁン! あんっ! んんっ! んく、ぅ!」  この男は、ヴァルは、どうだろう。こうふん、するだろうか。――わからない。わかんない。想像できないな。でもペニスは勃起したままだ。太くて長くて堅い。どの男のものよりも。そして、熱い。浮き出た血管まで、ばきばき。 「んぐっ、んふっ、んっ、んんっ」  俺は、とっくに力が抜けているはずの腰を振る。打ち下ろす。打ち付ける。間抜けな音を出す。 「ひ、ふ、はあ、んはっ、ん、ぐ」  めちゃくちゃな呼吸をする。それよりもいまたいせつなことは、この腹のなかに刺さったものを、摩擦することだった。そうしたかった。そうしたくてたまらない。飢えた犬が飯にがっついてる。太くて熱いのを、萎えさせないために必死に。 「あ、う……あ、あぐ、あ、あは」  さっきから、ベッドが壊れそうだ。ひどい音だ。ぎ。ぎ。ぎ。ぎぎ。ぎち。フレーム割れそう。脚がもげそう。床も抜けそう。その前に俺の内臓が壊れそう。尻穴ばかになりそう。痛くて苦しい。でも俺に絡む術が、ずっと甘いんだ。おかしくなる。おかしいのかも。どうかしてる。そうでなかったらこんなことしてないんだ。  おまえのせいだ。おまえのせい。おまえが。おまえが。おまえのせいでおれは。肋骨の内側で恨みながら、俺は繰り返し、恨む男の腰の上で弾んでいる。閉じられないくちから唾液の糸を垂らす。痛みと興奮で中途半端に勃起するペニスを揺らす。よがる声を撒き散らす。  あ。あ。あ。ああ。はん。んあ。 「――――は、ッ!」  俺は息を呑んだ。間抜けに鳴いた。――背中に、触れられた。触れている。てのひら。俺の背中に、張り付いてる。  それが、ゆっくりと、動いた。 「ひ、んぅうっ!」 「っ……! 悪い……」  ひらいた両手は、俺をなぞる。のろのろ。のろのろ。同じ動きしかしない。俺の背中を、上下にさする。汗で肌に張り付くシャツと、息苦しいホルダー越しに。くりかえし。それしかしらないように。ほかにしようがないみたいに。 「……は……っはは……」  あは、と、俺は開いた喉がわらった。なんだ、それ。あは、は、はん、あん。ああ。  愛撫のひとつだって、しない。しらない。ただ俺の背中に重なったてのひらの、熱によって。てのひらに、よって。俺は仰け反る。いきものみたいにいななく。全身が震えた。途方もなく、感じた。 「――――は、あ、ぁ、ぁっ」  おまえは、しらないだろ。 「ふ、ぁ……んあ、あ、あ」  おまえはしらないだろ。俺が名前も知らない男どもに抱かれるたび、汚いちんぽをぶちこまれるたび、俺はおまえに抱かれていた。しつこく揺さぶられながら、内臓を犯されながら、精液を肌にぶちまけられながら、酒臭く下品なキスをしながら、おれは、いつだって、翠のみずうみのことを、この手が、この腕が、この胸が、この腹が、この性器が、このくちびるが、おまえだったら、どんなに。  俺は。 「ああ、あ、あ……あっ、あっ、あぁン!」  俺の背中を、黙って懸命に撫でている。腰を掴んで揺さぶることもない。いかにも淫猥になぞるでもない。ざらつく声で揶揄もしない。盛った犬や猫のように声をあげ続ける俺を、こわごわと擦る。気遣う。俺の苦悶を少しでも軽減させようと。少しの愛撫にならない手付き。ちっとも官能的でない。笑えるほど、ぎこちない。ぜんぜんすこしも、こなれてない。スマートじゃない。はは。あは、は。  へたくそ。 「う、ぁ、あぁんっ」  俺はまた、毛布と男の二本の脚に向かって、精液をぶちまける。 「っあは……、は、あは、あぁ……あぁあ!」  ヴァルとしてる。セックス。性行為。痛くて苦しいへたくそな性行為。だから紛うことがなく、その男としている。それをまざまざと感知して、俺は鳴いた。腰が媚びた。ヴァルのてのひらが、汗びたしの俺の背を行き来するたび、俺は興奮した。目の前に何度も火花が散る。火薬の生む閃光。あ。あ。ああ。撃ち込む。うちこむ。 「――――ぁ、……る」  俺は、くちびるがわななく。ある音を探す。  行為中、誰の名前を呼んだこともない。男も、女も。名を知る必要などなかった。呼ぶ必要もなかった。  探さなくても、ずっと舌の傍にあった。発音しなかっただけだ。発音しないよう、注意深く仕舞うか飲み込むかしていたんだ。 「――――……ヴァル」  鼻にかかった、みっともなく掠れた。耳を疑うほどに情けない。これがいま自分の喉からでているなどと、冗談で、悪い夢。そんな、欲に濡れそぼる、まるであばずれの、はしたない声で、俺は。 「ヴァル……」  名を、呼んだ。男の名を。まったくもってどうかしてる俺に、まぬけに繋がっている男。いま俺を、貫いている男。俺を。あ。あ。 「ヴァル、ヴァル」  ヴァル。俺に向けて、ちゃんと勃起したままいるヴァル。俺を。俺と。俺の、あ、あ、こんな、奥に、まで。ああ、ヴァル、う゛ぁる、う゛ぁる、ああ、はあ、なんて、ああっ、こんな、こんなの、ああっ、ぁん、ああっ。ああ、だめだ。こんなの、無理だ。 「は、ぁあああっ! ああっ、んはあっ! う゛ぁる! ンああっ!」 「っ……く……ぁ」 「あっ、あっ、ぁ、る、う、あん、ん、んんん!」  その先が出そうになって、飲み込んだ。それは、いってやらない。言ってやらない。喉を逸らして、くちびるを噛んだ。暴れる舌を上顎で押しつぶした。 (だって、お前はもう知ってる。そのくせ、どうにもしようとしない。そうだろ)  ただの生理現象で俺を貫く。堅い、太い、長い、熱い。愛撫でない手のひら。俺は、悦ぶ。よろこんで、いる。よろこんでしまう。歓喜して、閉じられないくちから、鳴き声と唾液を溢しながら、腰を振る。何度も打ち下ろす。音を立ててピストンする。掻き混ぜる。治された尻穴がヒクつく。ヴァルのペニスのかたちに広がる。吸いつく。飲み込む。奥に誘う。腹の奥まで、極太のそれの形に成る。汗が、体液が噴き出る。あ、あ、だめ、ああ。もう、また、絶頂する。 「あっ、ああ、あ、う……!」  目からなにかが垂れ落ち続けている。そのために、世界がぜんぶ滲んでる。 「あ……はぁんっ……あっ、あっ」  ――ね、君は才能があるよ。こっちの才能。ほら、きもちいいね。 「……っぅ、ぁ……!」  耳障りな言葉を、ヴァルの吐息と低い呻き声が上書きしていく。うわがき。うわがき。すべてのでーたをうわがき。すべてのすろっとをうわがき。すべてきょうの、このときのひづけとじかんでうわがき。 「は……ぁっ……ヴァル……」  ――だから、呼べよ。呼べよ呼べよよべよもっと俺のなまえを。つむげよ。そのくちびるで。俺のなまえだけで、おまえのくちと吐息をみたして。想像通りに弾力があって、想像よりも熱かった、ヴァルの舌で。 「――――ルチア」  あ。  そのしゅんかん、せかいがしろくはじけた。  目を開けて見えたのは天井だった。薄暗い天井。隅に影を溜めている。皹が入っている。黒い溝になっている。雨漏りは無い。 「――――最低だ」  声は、低く掠れた。これ以上ないほど、最悪な気分だ。  醒めてきた頭は、現状をなんとなく把握してきていた。それが余計に絶望を引き寄せた。ため息が出る。顔を枕に押し付ける。清掃が行き届いた香りと肌触りだ。雨の音はもうしない。ここは宿だ。一昨日から泊まっている宿。  あれから後の記憶が、バグで飛んだようにどこにもない。瞬間移動呪文を使えるはずもないから、あの山小屋から真っ直ぐ飛んできたわけではない。その道中があったわけだ。気絶した俺を運んだ、誰かが。 「――――」  俺は、枕に向かって呻いた。そんなことをしたって、何が変わるわけではない。内側から発火しそうだ。このまま炭になれたらどれだけいいだろう。そんな呪文を使えるはずもなかった。己のした行為に、ただ呻く。  部屋には、俺以外の気配はない。  ……愛想を、尽かしたか。それも当然だ。思いながら、目は浅ましくも部屋の隅を辿った。――荷物は、朝置かれた場所に、あった。――それすら放って出て行ったんだろうか。その可能性だってゼロじゃない。俺はその隣の、荷物棚を見た。……本。ヴァル曰く、選りすぐりらしい。どこにでも持ち歩いていた本。皮紐で括られたそれらは、そこに置かれたままだ。  目を瞑った。これ以上なく、自分が更に嫌になった。寝返りを打って、毛布を深く被る。擦れた内太股は乾いている。脚も腰も背も。毛布が素肌に滑る。身体は濡れていない。ぜんぶ、清められている。  本当に、最低だ。俺が。 「……」  足音が、聞こえた。重くゆったりとした歩幅。ドアの前に来て止まる。ドアが、開いた。影のように暗いローブが滑り込んできた。  ドアが、閉まる。歩幅は変わらず足音は続き、テーブルに向かう。何かを置いた。軽い音。紙袋。――俺は上半身を持ち上げた。 「……ああ、起きたのか」  声は、低く静かに響いた。湖面の上を滑るようだと思う。いつも通り、とするには、窺いの色が混ざったと思った。俺は頷く。 「……回復呪文は掛けたが、どこか不調はあるか?」  気遣う言葉が、俺の頬が灼いた。 「――なんで」  俺は首を横に振った。髪が頬を打った。この後に、及んで。俺は俺がつくづく嫌いになった。なんで。なんでだよ。なんでそんな態度でいるんだよ。俺のしたこと、分かってるだろ?  言いかけて、ぜんぶやめた。いま言うべきは、それじゃない。そんなことじゃない。 「――――ごめん」  ヴァルは、黙った。テーブルの上の紙袋を指で弄りながら、逡巡して、ゆっくりとくちを開いた。真面目だなと思った。クソがつくほどに。 「……その……驚いたけど」  そうだろう。 「僕、何も知らなくて」  そうだろうな。 「…………僕も、どうか、していた……」  ヴァルの後悔は腑に落ちた。ヴァル自身への後悔。あの時、突き飛ばしてでも止めていれば。拒否していれば。会得し、そいつが自由に操れる炎を、氷を、稲妻を、俺に浴びせていれば。 「もういい。忘れろ、あれは事故だ事故。道端に出てきた凶暴な魔物」  あの雨のせい。そして全面的に、俺のせい。そうだ。だから、忘れれば良い。忘却術でもなんでもつかって……。 「忘れる? どうしてだ?」  俺は思わず、顔をあげていた。ヴァルは俺を見ている。怪訝な。しかし、不快が表すそれとは違う。純粋な、疑問として。 「……適切に及ぶことができなかった僕もわるかった、ごめん」 「――――は?」  意味が、わからない。 「……なんでお前が俺に謝る?」  ヴァルは、俺を見つめたまま、まばたきだけした。 「お前、自分が何されたかわかってんのか?」  合意の無い性行為。おそらく童貞だっただろうに。好いた女への気持ちが破れたばかりだというのに、男の穴に性器を無理矢理突っ込まされた。おぞましい行為を強要された。 「……僕だって、知ってる。あの行為のこと。……経験は、なかったが」  なんでそこで、頬染めが発生する。ヴァルは一度くちを閉ざした。俺に向き直り、表情を戻した。クソ真面目な神妙な顔に。 「……つまり、レベル1だった。経験値がなかった」  レベル1? 「今回ので少し付与されただろうが、だから……次は、もう少し上手くやる」 「待て」 「……何?」  そういう話をしていただろうか。今、経験値の。そもそも……。 「次って、お前、次があるのか? アレが? お前のなかに?」  俺は目の前の男が分からない。未知の生物に見える。 「もうしないなら、それでいい。けど次があるなら、考える。今回みたいなのは、嫌だ」 「なんだ……それ」  俺は、虚脱しながら、形容しがたい苛立ちが、腹の奥に煮えた。こいつはつまり、俺に委ねた。はい、か、いいえ、を。またこいつと、セックスをしたいか、どうか。  合意のセックスではなかった。俺は無理矢理この男を襲った。初体験。それを、そんなふうにこいつは扱う。なんでもないようなものとして。煮出しすぎた茶を窘めるような軽さで。連携技の練度について意見する温度で。  随分と、馬鹿にされている。――けど、俺はむしろ望んだはずだ。忘れてくれとまで、都合の良いことをのたまいまでして。だから、この憤りの理由が分からない。憤る資格も権利も、俺にはない。  そのはずなのに。  喉奥がざらつく。ざらついたまま、くちびるが発した。 「俺のこと、好きでもないくせに?」  ヴァルは、表情を変えずに、答えた。 「確かに、そうではある」  けど、と続けた。 「けどこのままでは、非常に目覚めが悪い」  目覚め。それは、セキニンとか、そういう妙なことだろうか。そう思ったが、違った。 「身体があんなにも不自由になるとは思わなかった。自分でも驚きだ。肉体を使うことに関しては、少しは自負があったのに」  なにいってんだこいつ。 「思ったより体術的なんだな」 「何言ってんだお前」  変なスイッチを押したらしい。クソ真面目で完璧主義な。  レベル1では嫌だって? レベルを上げてきたいのか? セックスの。は、はは。ふざけてる。そう思って、けど、嗤えなかった。結局それだって、経験値だ。へえ、と俺は頷いた。 「つまり、ヴァルくんの今後のために、セックスレベル上げに付き合ってくださいってことか? ああ、いいぜそれなら。実際、童貞は早いとこ捨てて技を磨いたほうがいいもんな。好きなヤツを抱くときにはそっちのが断然良い」  ヴァルは眉を顰めた後、首を傾げた。 「? 僕はあれを、お前以外とする気はない。言ってるだろ、もし今後もお前とあれをするならば、の話だと」 「馬鹿かよ」  俺は顔を伏せた。額に爪を立て、髪を掻き混ぜる。うんざりだと思った。もうこの話はしたくない。もういい。離脱したい。「逃げる」を選びたい。  でないと俺は、自分に都合の良いふうに捉える。心臓が、さっきから鼓動を忙しい。最低で最悪なことをしたというのに。 「馬鹿と言わないでくれ」 「だってそうだろうがどう考えても!」 「ルチア」  低い声が響いた。五月蝿い口論が続いたとき、誰かが興奮して声を荒げたとき、そいつが稀に出す声だ。卑怯だと思う。卑怯だ。それをされたら、俺は黙る他ない。俺はただ細く息を吐き出した。 「お前はアレを僕に望んでいるとして、また行うとして、けれど僕は、お前の身体を傷つける」 「……そんなことする必要、お前にあるか? 情け? 同情? 勘弁してくれそういうの。気分が悪い。したことは、謝る。本当に、悪かったから……」 「……違う。どうして、お前は」  ため息が聞こえた。そいつに浮くには、珍しい感情だなと、俺は頭の隅でぼんやりと思った。 「そう勝手に、ひとりで決定づけるな。お前の悪いところだぞ、それ」  ヴァルは、話を聞け、と言う。僕の話を聞けと。俺は、黙った。そうしてしまった。他に選択肢が、あったとしても、俺は選べない。俺は、その目を見ていた。  いつだって平らかなそれが、微かに揺らいでいることに気づいてしまった。湖面がさざめいている。そいつの内側で、何かが揺れている。 「ルチア。まだ続くんだろ、この旅は」  疑問ではなかった。断定……よりももっと、深くて威圧ある響きだった。俺は、ああ、と答えた。いまここでこいつと別れたところで、俺はひとりで旅を続けるだろう。軽くなった自動車で。すり減る心配のなくなった右前方のタイヤで。  ヴァルは、そうか、と答えた。 「……この先、どうすることもないなと、思っていた」  ヴァルはひとつ息を吐きり、吸い込むと、慎重に続けた。 「あの旅が終わって。各自が各地に散っていって。お前が王からもらった車で旅をしていると聞いたとき、正直、僕は、鳥を見上げる気分だった。空を飛ぶ鳥。青く晴れ渡る空を、自由に飛び回る」  ああ、そうか。と、ヴァルは言った。いま、気づいた、いいなと思ったんだ、僕は、お前を。 「――僕は嬉しかった。お前が誘ってくれて」  はた、と白い瞼が上下した。翳った部屋の暗さを吸い込んだ睫が震えた。まばたきが終わっても、瞳は俺を映していた。 「だから」 「だから?」  俺は、急かす。そいつの、不器用に閉じては開くくちびるばかり、みた。なんだか、ひどく喉が渇いていた。汗ばんだ指先が、毛布のしたでシーツを握った。 「…………茶にしたら美味しいと聞いて」 「…………はァ?」 「稀少だが、美味いと。それで、手に入れたかった」  ヴァルの指が、紙袋を指す。 「見つけられなかったと言ったら、教会の神父が少し分けてくれた。飲みたかったんだ。興味があった。お前の淹れる茶は美味しいから。それにお前も、よろこぶんじゃないかと思って。だから、薬草を」  話が飛躍した。訳が分からない。俺の表情に気づいたヴァルが、目を伏せた。 「……つまり」  そこに、そいつに普段現れない感情があることに、俺は気づく。 「……楽しいんだ。お前との旅は、楽しいから」  困惑、気まずさ、羞恥……。 「だから、考えた。これから先、お前とまだ旅をするにはどうしたらいいか」  あの行為のうえで、お前と僕が、旅を続けるには、どうすべきか。なにをしたらいいか。 「――僕なりの答えで結論だった、ということだ」  ヴァルは、言い終わったらしい、ふ、と短くため息をついた。表情が、くたびれていた。おそらく、いままでになく、喋った。表情筋も、使った。  黙っている俺に、ヴァル肩を小さくすくめて、付け加える。拗ねるように。けど、俺を見据えて。 「それに、レベル1は嫌だから」  あんなことをされて。それでも? ……その理由は全部、さっきこいつのくちが話した。それが、すべて。 「……何か言えよ、ルチア」  絶句する俺を、ヴァルは睨む。 「……どうかしてるよ、お前」  どうかしてる。ヴァルの顔が、分かりやすく不機嫌に歪んだ。決して足りなくはないその脳みそで、クソ真面目に真剣に考えた結果の解を、馬鹿にされたと思っている。そいつがこれから先も、俺と旅をするために考えて出した解答を。  どうかしてる。そんな答えを導き出す、この男が。そして、こいつ以上に俺は。 「お前の、そういうところがさ、俺は、本当に」  自覚する。完膚なきまでに。俺自身が何千回否定をしても、この男に真っ直ぐに向かい続ける、俺のそれを。 「……馬鹿だって言いたいのか?」  ふてくされる男に向けて、俺は、さっきからずっと、痛くてたまらない心臓のまま、ついに放つ。  今までくちにしたことないそれを。 「好きだよ。大好きだ」

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