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4話 星にねがいをねがうなら

 砂の黄と、空の青の二色だ。緩やかな曲線を描きながら、消して交わることなく続く。他には、何もない。  黄も青も、どこまでものっぺりとしている。黄色は小さな粒が敷き詰められてできたものだし、頭上に広がる真っ青は、それこそ光の集合体なのに、濃淡も滲みもない。明るい絵の具でひと息に引かれた絵のよう。  砂を踏む音と、呼吸音が、きっぱりとした二色に吸い込まれていく。その境界が、すべてが、飲み干していく、ような。 「おい」  肩に、触れた。掴まれた。熱くて、力強い手のひら。 「しっかりしろ、ヴァル」  声。僕のなまえを呼ぶ。乾いて熱い、吸い込む度に喉を灼いていく空気を震わせていた。高くない、低くもない、ふしぎと、透る声。 「お前、へばってるだろ」  僕は振り返る。遮るものなく注ぐ日差しが、彼の鴇羽色の髪を黄金に光らせている。その束によって、青い影がつくられている目元。僕を見上げている。僕は、乾いてねばつくくちを動かして、答える。 「まだいける、へいきだ」  目的ポイントは、もう少し先だ。あの砂の山を、越えて……あの山って、どの山だ? 「平気なやつはそんな目をしない」  指先が僕から離れた。ざく、と踏み出した彼の足が止まる。そんな目。どんな目だろう。 「ここにしようぜ」 「けど……」 「射程距離内だろ」  僕の返答を待たず、ルチアは肩の荷物を下ろし、紐をゆるめて中身を取り出しはじめてしまった。テントセット。 「近づいたところで手元を鈍らせたら意味ない。コンディション整えて狙った方が確実だ」  僕は、ため息が出た。それを聞いたらしいルチアが、意地悪い顔で嗤った。僕から漏れたのは呆れではなくて、安堵のそれだったということに、彼の表情で気が付いた。ルチアの提案は、至極まっとうで、正しかった。  冷却術を敷いていたはずなのに、もうずっと濡れたままのこめかみを拭った。暑いのは、やっぱり得意じゃないみたいだ。僕は内心ほっとしながら、テント作りに参加した。  有数の砂漠地帯だ。前の旅でも来たことがある。熱砂の国の王の頼みで、砂漠を根城にした大蠍の討伐で立ち寄った。いまは魔物の脅威もなくなったので、砂漠はどこまでも平らで、平和だ。  僕たちが再びこの砂漠にきたのは、依頼を一件、請け負ったからだ。  ――星の欠片を持ってきて欲しいの。  ここから西にある都に立ち寄ったときだった。僕らはそこで、手厚いもてなしを受けた。魔王討伐、それから大蠍の恩もあると、街をあげて歓迎してくれた。  本屋も、とても親切だった(僕は本屋が好きだ。本屋があれば、都会行きも嫌ではない)。なんと、好きなだけ本を持っていって良い、と勧めた。本当に有難かったけど、ルチアが「俺の車は本棚じゃない」と煩いので、薄めの本を、一冊選んだだけにした。――古い魔術で、だからもう実用性はない。でも、この地方の歴史や文化が色濃く残った一冊だ。砂漠の国らしい、熱避けと砂、それから水に関する魔術本が多かった。良い本屋だな、と心から思った。  その、本屋の娘だった。広い店内に、ぎっしり積み重なった本に、ひっそりと埋もれるようにして、ひとりで本を読んでいた。物語が好きな彼女は、僕を“リボンのおにいさん”と名付けた。  ――リボンのおにいさんは、遠くにいけるの?  遠く、ということばの響きが、新鮮で(遠く。そうだ、遠くにいけるんだ。好きなように、自由に)、僕は面映ゆさを覚えながら、頷いた。  ――ああ。いろんなところに行く。  少女の僕を映す瞳が、星を見つけたような熱を帯びた。そうなの? ねえ、それなら、それならね。できたらで、いいのだけど。あのね、リボンのおにいさん。  ――星の欠片を、持ってきて欲しいの。  僕が単独で受けた依頼を、ルチアは、拒否しなかった(嫌がられたとして、その時はひとりで行こうと思っていた)。「ふうん」と、気のなさそうな、気怠そうな相槌と「勝手に請け負うな」という小言と、小さなため息だけだった。 「……わかった」  頭をがしがしと掻きながら、燃料やら食料やらで世話になったし、と付け加えた。  僕は嬉しかった。そして、得意な気分にもなった。ルチアがそういうやつであると、僕は知っていたから。そう言うだろうと、思っていたんだ。  テントはすぐにできあがる。砂は柔らかく、打ち込んでも杭はぐらついたので、魔術で固定した。僕とルチアが、なんとか横にはなれる広さ。ここで一晩過ごすわけではないから、充分だった。  熱避けを含んだ素材が編み込まれた布は、厳しい日差しをしっかりと遮る。本屋で借りたテントだ。「娘が我儘を申し訳ない」と、いつまでもすまなそうにしていたので、それならとルチアが交渉した。店主の男は二つ返事で貸してくれた。水もたっぷり持たせてくれた。  ルチアの車は、砂漠は走れない。タイヤが砂を噛むというし、ゴムが痛むのも嫌だと言った。なので仕方なく、徒歩で進んだ。ルチアの車は、本屋で預かってもらっている。  入り口をしっかりと閉め、内部に冷却を施す。かなり快適になった。息をついて、腰を下ろす。腰を下ろすと落ち着いて、そうなると、急に気怠さを覚えた。そのまま身体が横になる。「おい」とルチアが叱ってきた。 「狭い」 「お前のスペースはちゃんとあるだろ」 「自分の嵩を考えろ」 「考えたって縮むものではないんだ」  盛大な舌打ちが聞こえたが、僕は、なんだかすべてが遠かった。瞼が勝手に下りてくる。しかも分厚い天幕のように、重い。そんなに魔力は使っていないはずなんだけどな。 「もっとそっち寄れ。作業ができないだろうが」  作業? 星捕りの準備はしてきたはずだ。わからないが何かをするらしいので、仕方なくできるだけ端に寄って、手足を折りたたんだ。 「氷。そこのバケツ」  ううん、と僕は返事をする。 「飲食用だからな」  注文が多い。どうしてそんなに元気なんだ。ルチアも休めばいいのに。そう怠惰なことを思いながら、僕はルチアの要望通り、バケツいっぱいぶんの、くちにしても問題ない氷を生成した。  魔術は、0から1を作り出すものではない。自然界に存在する素材と、自身の魔力とを、呪文によって結びつけ、反応させるものだ。  なので環境や状況によって、同じ魔術でも効きが異なる。悪条件下では、魔力使用量を増やすことで対応する。砂漠の真ん中で氷を作り出すというのは、出来なくはないけど、少しだけ疲れる行いだった。攻撃魔術に比べれば、比べるまでもなく、容易だが。  あの旅が終わってから、僕はほとんど魔力を使わない。難しい呪文を扱うことも。そのことに、不満はない。むしろ、いまの在り方こそ本来の魔術の姿だと思う。魔術は、生きるためのものだ。支配に用いるものではない。自然にあるものをねじ曲げるものでもない。まして、何かを傷つけるためのものでも。世界が平和なことがいちばんだ。魔術は、生活をほんのすこし快適にするためのもの。  目を瞑る。物音がしている。ルチアがなにかをしているから。それが、催眠のように聞こえる。  ついさっきまで目前いっぱいにあった色が、瞼の内側に映っていた。黄と青。決して混ざり合わなかったふたつの境界が、とろむ。熱を帯びた飴のように歪み、混ざり合いはじめたところで、――冷たさが額に触れた。 「頭上げろ」  声のとおりにすると、頭のしたに何かが差し込まれた。――冷たい。たふたふとたゆたう冷たい水のなかで、ころころと氷が擦れあう。気持ち良い。 「……ルチア」 「ついでだ」  まだ何もっていないのに、先回りする。まったく、彼らしいと思う。僕は有難く、氷枕に深く頭を沈めた。乾いた砂に、透明でつめたい水が満ちてくる、なみなみと染みていく――瞼裏の空想の名残のなかで、投げ出した己の手を見た。  見慣れた僕の手だ。たしかに、僕の手。だけど。 「……少し、なまったのかもしれない」 「何が?」  僕に水枕を作ったあとも、ルチアはまだなにか作業している。 「暑さには前からひ弱だろうが、お前は」  そうだが。けど前の旅では、もっと、適切としていた。――そう、適切。少なくとも、テントを張った後、こんなふうにすぐに横になる怠慢はしなかった。防衛陣を張り、薪を運び、見張りをした。それが、できていた。自分がするべき役割を果たしていた。 「……老化?」 「一歳と二ヶ月上の俺の前でそれを言うか?」  視界の斜め上で、ルチアが心底嫌そうな顔で僕を見た。そうだった、と僕が言うと、ルチアは忌々しげに長い息を吐いた後、視線をその手元に戻した。 「気が抜けてんだろ」  僕は、それを復唱する。きが、ぬけている。 「……それだとしても、よくないことだ」 「何で?」  純粋な疑問の声色で、ルチアは言った。 「別にいいんじゃないか? 気が抜けても、なまっても」  世界が平和なんだから。ルチアは続けた。彼の手元から、なにか、良い匂いがしている。青々として爽やかな。  せかいがへいわなんだから。  そうか、と思った。襲ってくる魔物はいない。倒すべき魔王は倒れた。――そうかもしれない。気が抜ける。なまる。そしてそれは、咎められることでも、ない。 「……なにしてるんだ?」  起き上がらずに、訊いた。 「なんでしょうか」  声はうそぶく。水と氷の音がする。からからと、心地良い音。できた、とルチアが言った。  彼の指は、コップを掴んで掲げる。表面に、たくさんの水滴が輝く。いかにも、清冽な冷たさを湛えた煌めきだ。ガラスのなかで、たっぷりの氷が泳いでいる。透明なそれが、傾いて、ルチアのくちびるに触れた。氷が揺れ動いて、鳴った。 「――あ」  僕は思わず声がでた。羨望からだ。ルチアの喉は、実に美味そうに飲み下していく。微かに翡翠色を宿す水はぐんぐんと減り、氷があらわになる。あ、ああ……なんて……。 「――――あぁ~~。うまい。最高に爽快だ」  ルチアは、酒を飲むよりも深く息をついた。 「それはなんだ。僕も飲みたい」 「いいぜ。起きて飲め」  ルチアは得意げな顔で言った。――たしかに横になったままでは飲めないけど。倦怠感が全身に蔓延っている。でも、飲みたい。……起きたくない。 「なんだ、どうした?」  ルチアは、わざと僕に見せつけるように、ポットの中身(ガラスで、透明だ。きらめく氷と、緑色の葉)を、氷の詰まったグラスに注いでみせる。僕は喉が鳴った。動いたその喉仏を、ルチアが見ていた。 「……飲みたい」 「だから飲めって言ってるだろ?」  ルチアは、笑みを深くして言う。意地悪く目を細める。 「なんだよ? 飲ませてもらいたいって? 贅沢かよ」  僕は頷いた。喉の渇きを猛烈に思い出していた。そうだ、僕は喉が渇いていた。吸い込んだ砂が張り付いてもいる。グラスの中で、溶けた氷の角が丸い。 「じゃあお願いしてみろよ。それ相応の言い方ってものがあるだろ?」  僕は眉間に皺が寄るのを感じた。僕が堕落した態度であるのは確かだ。黙って水枕を作ってくれた彼は、いまはにやにやしながら僕を見下ろしている。 「……飲ませてください。くちの傍に置いてくれるだけでいいから」 「あは。だめ。足りねえなあ、誠意が」  優しいのか、優しくないのか、わからない。――僕が起き上がればいいだけのことだ。けど、僕はそうしなかった。すこし、むっとしたんだ。だからかえって、従う方を選んだ。 「お願いします、欲しいです。お願いだ、ルチア」  僕を凝視した目が、翳った。「お前さ」というようなことを、ぼそぼそと言った。指示通りちゃんと乞うたのに。僕はわからない。ルチアはグラスのなかみを、一口煽る。そして、「あ」と責めた僕に、そのまま近づいた。喉は動いていない。ルチアの顔が、傍に来る。彼の鼻筋にあるそばかすが、数えられる距離になる。それも、――ぼやけた。 「ん、――……」  くちびるに触れた温度は、冷たかった。ゆっくりと、くちをひらくと、ルチアのくちびるがねじこまれた。その隙間から、液体がすべり落ちてきた。すこし、ぬるんだつめたさ。 「ぅ……んん……」  清涼な香りが、鼻の奥に抜ける。甘い、と思った。ルチアはじょうずに注ぐので、僕は噎せなかった。  喉を動かし終わると、軽い水音がした。それをもう一度立てて、ルチアのくちびるは僕から離れた。涼しさと甘さが、舌に残っている。甘くつめたい、ミントティーだ。くちびるの表面に残るそれを、舐め取る。それは僕の乾いた喉にたちまちに染みた。 「……美味しい。おかわりが欲しい。もっと」 「お前……ほんとさ」  ルチアは、非難する目をした。沸いてるのか、と訊いた。何が? 僕は答えながら、頭がぼうっとする。酸欠だろうか。後頭部の氷枕が揺れている。  ルチアはそれ以上何も言わず、グラスをまた傾けた。僕は、くちを開けて待った。なるほど雛鳥は、こういう気分なのかと思った。怒ったような顔のルチアが、再び僕に近づいてきた。 「……ん、……っ……」  先程と同じ回数、喉を動かして、しかしルチアのくちびるは離れなかった。まだ、残っているのだろうか。思って、啜ってみたけど、ミントティーはやってこなかった。湿った音が鳴っただけだった。代わりに、ぬるつく熱いものが、僕の上顎をなぞった。ルチアの舌だった。ルチアのくちびるが、角度を変えて僕のくちびるを吸い上げる。ちゅく、と音が鳴る。親鳥の餌付けとは、程遠いものになっていた。 「ふ……ぅ……んん……」  繰り返し水音が立つ。舌が擦れ合う。ルチアの吐息が、頬や鼻先や、濡れたくちびるを撫でていく。ルチアは何度も僕のくちびると舌を吸って啜った。  ルチアが、らしくなく――常の、都会的で洗練された態度を纏う彼とは違って、必死で、夢中でいるから、僕は、彼の好きにさせた。  こういうことをする彼は、そうなる。  彼の熱い吐息と唾液を飲み込みながら、ぼんやりと、気づく。そうか、やっと見つけてありつけたオアシスの水を、貪るようなのだ、これは。  このモードの彼を、いままでどう形容したらいいか分からなかったけど、ひとつ、腑に落ちた気がした。ルチアはただ僕の頭を抱えて、僕を貪った。呼応するように、頭の下で彼の作った氷枕がちゃぷちゃぷ鳴った。 「…………は、っ……、はあっ………」  くちが離れる。混ざり合った唾液が、糸になって伸びた。ルチアは、荒い呼吸をするだけで何も言わなかった。ミントと、それから唾液の匂いがしていた。 「はあっ……はあっ……」  ふいごのような呼吸をしながら、ルチアの明るい目が僕を見下ろす。水の膜が張った、透明に煌めく瞳で。じっと、僕を、まばたきもなく見つめている。  その視線に、僕は、心臓を圧迫されるような息苦しさを覚える。目を、逸らしたい。しかしそれは敵わず、ふたつの、真っ直ぐに僕を映す瞳孔と、荒く息をする、まだ濡れるくちびるばかり、見る。そうしている僕を、ルチアは見る。僕しか、その瞳には映っていない。  僕はそんな彼に、嫌悪ではなく、圧倒される。驚く。怯む。でも同時に、――木漏れ日に照る葉先を、花弁を、指先で、撫でたくなるような、そんな気持ちになる。葉先を揺らしたいわけでも、花弁に熱を与えたいわけでもない。ただ……それをしたい、そういう、気持ちになる。  だから、それをした。 「え……、あっ」  ルチアのくちびるが、ぱかりと開いて、わなないた。  シャツ越しに、ルチアの胸に触れた。両の手のひらで、包むように、撫でる。 「……ッ馬鹿! なに、す……っく!」  それに。 「してもらいたそうな顔を、してたから」 「は……? ちが……」  こういう表情をしている時の彼が、何を求めているのか、近頃の僕は体得したんだ。ルチアが僕に、教えたから。レベル上げのために。  その証拠に、彼は逃げない。僕の胴を跨いだまま、僕の耳の横に腕を突いたままでいる。くやしげに顔を歪め、くちびるを噛みながら、僕の両手を払わない。彼ならたやすく、それが出来るのに。 「は……ぁ……、ん、んッ……」  すべらせる。ゆるやかに。くりかえし。 「おま、え、へばって、んだろが……」 「へばってるけど」  撫でるうちに、ルチアの身体は変化してくる。汗ばむ。シャツがそれを吸い上げ、生地を重くさせる。 「お前の氷嚢のおかげで、だいぶ良くなった。ミントティーも美味しかった」  やがて、手のひら、指先に、ふれるものを知る。無駄のない筋肉を持つ、平らな胸。そこにある小さな肉の粒。  そこを、人差し指と親指の指の腹で、慎重に、つまんだ。 「――――ぁ、あっ!」  ルチアの背骨と喉が、大きく反り返った。 「ぁ……なん……や、ぁっ! あっ……!」 「なんで、って」  そこをそうすると「好い」ことも、彼が僕に教えたからだ。「ばか」という罵声が、鼻にかかった。 「ざけ……んな、ぁっ、……じょうきょう、を、かん、がえ……んぅッ」  そばかすの散る彼の鼻筋が、更に薔薇色を増す。僕を睨む。その角膜が、煌めき潤んでいる。シャツのした、僕の指が掠めたそこは、いまはわかるほどに隆起し、肉の形をあらわにしている。――そういった状況を、鑑みてのことだ。 「ぅ……ぁ……、やめ……んっ……!」  ばか、と僕を詰りながら、ルチアは腰をくねらせる。野生動物のようなしなやかさ。生き生きと、躍動的で……僕は、それに見入る。うつくしさを、感じて。 「止めたらやめたで怒るだろ」 「てめ……ッ……」  ふうう、と荒い息を吐く。僕を睨めつける。その瞳に、恥じらいと憤り以外のまなざしがあることに……僕はなんだか前触れなく、気づいた。僕の表情、仕草を、窺う……観察……洞察。敵の弱点を見抜くときの、細やかな意識。そうか、と分かった。 「……僕は平気だ。もうだいぶいい」  ハ、とルチアは笑った。 「ひとの、ちくび……ん、ぅ、急に、いじりやがって……熱で、いかれたと、おもう、だろうが」 「違う」  意地悪な顔で、意地悪なことを言うルチアを、僕は睨んだ。どうしてルチアは、捻くれたことばかり言うんだろう。僕を心配しているのに。  僕を、好きなくせに。 「だったらきっと、こんなふうにならないだろ」  僕は腰を浮かせた。膨れて堅いそこを、ルチアの脚の間に押し付けて、知らせる。僕がいま、どうなっているか。  ルチアのくちびるが、空気の塊を吐き出した。瞳が、きらきらと潤んだ。耳たぶまで赤く染まった。僕よりもずっと、熱がありそうな顔になった。ち、と短く舌打ちをしたくちびるは、僕と彼の唾液で濡れそぼっている。  彼とこういう行為をする度、僕の性器は大きく腫れ膨らみ、堅く伸びた。彼とキスをし、身体に触れ、触れられるうちに、そのようなかたちに形成される。  はじめは……はじめて行為をした最初は、「愛の矢」(ルチアから後から聞いた)の影響で、そうなったのかと思っていた。しかし、その後もずっと、ルチアと行為に及ぶ際に、そうなる。性器が勃起する。  わからなかった。自分でもどうしてそうなるのか。  それはいつだって厭わしい現象だった。起床時に、それが起こっていると、僕は煩わしくてしかたがなかった。  生理現象だろ。とルチアは言った。温度のない声色だった。西の反対は東、とでも言うようだった。 「刺激すればそうなるだろ。そういう部位だろ」 「そこに触れられてなくても、そうなる」  ルチアに、くちを吸われたり、胸を、脇を、太股も、身体を、触られると、そうなる。  僕が言うと、ルチアは笑った。いつもの皮肉めいたものではなくて、ちょっと、困ったような。 「直接的でなくてもなるだろ」  お前は正常だ、安心しろよ。 「悪いのは俺にしとけ。すべての悪事が魔王の仕業だったように」 「魔王はもういないだろ」  そうだな、と、ルチアはまた困った微笑をして、僕の長く腫れたそこを、嬉しそうに扱った。  彼は、いつもそうする。なんだか、大事なもの……例えば、彼の銃の手入れのように……、それよりもさらに念入りに……まるで貴び慈しむ。指でなぞり、くちで、身体で、食む。僕の性器を。 「はあ……ッ、ヴァル……」  シャツのボタンを、胸回りだけ外した。インナーシャツはホルダーに噛ませて固定させた。 「あ、っあ! ぁは……! そ……れ……っんん……!」 「……ルチア」  剥き出しになった彼の乳首を、指でまるく刺激しながら、僕は尋ねる。 「どう……? ルチア……」 「あっ、あっ……ば、か……きく、な……んあっ……」 「だって……わからない……」  ルチアは、舐めるように僕のくちびるを食んだあと、教えた。好い、と。僕だけに聞こえる声で。なので僕はそれを続けた。 「あ……はっ……! あっ、あっ、ん、あっ」  僕を跨いで開脚した脚が開いて、下りた臀部が、僕の腰に触れた。  のろのろと、揺らめいて、擦れる。――熱い。 「ん……ぁあ……、ヴァル……ヴァル……」  舌足らずの濡れた声が、耳たぶに触れる。 質の違う熱が帯びるのを、感じる。  ――――おおい、ルチアさん、ヴァルさん。おーい。 「ルチ、ア、う……ぁっ」  ルチアの、衣服のなかで、膨らんでいる。そこが、僕の、同じ部位に擦りつけられて、腹筋が震えた。ルチアが、にた、と笑う。かたい、と。 「あは。げんきで、なにより」  僕は、全身が、熱い。日差しに焼かれていたときよりも、ずっと、煮えるように……熱くて、指先のコントロールを、欠いた。  注意深く触れていたルチアの肉粒を、きつく、捏ねるように抓った。 「ーーあっ!」  「すまない」と言いかけた僕のくちびるに、ぬるいものが降った。彼の、丸く開いたままのくちびるから垂れた、彼の唾液だった。それを、拭うより先に、次が降った。 「あっ、あっ」  か細い声を、断続的に洩らす。両目が、濡れながら光っている。惚けた、けど、ぎらぎらと、水面のように。熱を帯びて、好戦的に。ルチアは、そのまま、身体の中心を、僕に押し付けた。 「っく……あ、ぅ……!」  彼と同じように硬直した僕の器官が、彼を服越しに押し上げる。きちきちと、窮屈で、苦しい。張り詰めて、痛い。 「はう、ぁあ、んン……――――ぅ」  ルチアは、鼻を高く鳴らした。「興奮してる」とき、それから、「続けろ」という時の、彼の鳴き声。いつも涼やかに跳ね上がる彼の眉尻が、下がっている。「好い」ときの、彼の顔。  そうか。こんなふうなのも、いいんだ。僕は覚えた。僕は、彼の肉をつねる指に、力をこめる。 「ん、く、ぅン……! はぁ、……ぁあ」  ――――このテント、俺のであってるよな……違わないよなあ……うーん。 「ン、あ、ぁ、ヴァル……は、ぁッ……!」  ルチアの腰が、大きくくねった。 「……あ……も……がまんできね……あぁンっ!」 「すみませーん、お二方、よかったらこれ……」 「あ」 「……あ」  そのとき、僕たちははじめて気が付いた。続いていた呼びかけと、開いたテントの入り口に。 「あ、あああ、あ、おふたり、そ、そういう、あ、あああ、すみません! あ、あああのこれ、パンを、焼いたので、よかったらと、おもったんですが、お、おおおお取り込み中と知らず……!! ほ、ほんと、しらなくて、ああああの、ここに置いときますね! ああああもちろん、食べるの、いまじゃなくて! ええ、いつでも! その、落ち着いたらで、後でで! ぜんぜん! 冷めてもおいしいので、えと、ええと、そ、それでは!」  本屋の店主はほとんどひと息にそう言って、包みを入り口に置くと、身を翻していった。ラクダに跨がる。ラクダとは思えぬ早さで、砂漠を駆けていった。 「…………」  僕たちは、店主が置いていった包みを見た。良い匂いがした。触れると温かく、包みを解くと、焼きたての、美味しそうなパンが、つやつやと光っていた。 「…………最悪だ」 「…………」 「……最悪だ……」  ルチアは、頭を抱えて項垂れている。なんだか、とんでもないところを見られてしまった……見せてしまった。 「……すまない」  どうしたらいいかわからず、僕は謝った。休憩や野営の際、いつも張っている人避けの防衛陣を作成していなかったのは僕だ。……人がくると思っていなかった。魔物だって、もういない。……つまり、気が抜けていたんだ。なまけていた。  ルチアは、がしがしと頭を掻いた。 「別に、お前のせいじゃないだろ……」  そうして吐き出した咎めるいろは含まれていなかった。はじらいと、気まずさに起因する表情で、苛立ちはそこにはなかった。 「……ともかく、店主に後で謝らないと」  ルチアは肩を竦めた。 「謝って蒸し返す方が迷惑だろ。謝られたところで、向こうは何て返せばいいんだよ」  僕もため息がでた。いやなため息だ。 「……注意力というものが欠如していた。気もそぞろというか……」  こんなこと、あの旅のなかでは一度だってしなかったのに。人の気配どころか、声に気づきもしないで……。 「……どうして、こんな……」 「――どうして?」  尋ねる声が近くて、僕は伏せていた頭を持ち上げた。ルチアの顔が、思いがけなく傍にあった。 「なあ? なんでそうだったんだ?」  低く掠れた声が、聞く。揶揄かと思ったが、違った。僕を正面から見つめる表情は、少しも笑っていない。――なんでって。わかりきっているだろう。 「そんなの、お前と……」  ルチアの目が、僕をじっと捉えていた。粘度ある視線だった。熱した飴やガラスのようで、透明なのに、密度がある。それが、僕にべったりと張り付く。逸らされもせず。これを、僕は知っていると思った。――さっきまで満ちていた、空気の、熱と同じ。彼のそばかすがよくみえる。吐息が鼻先で交わる。 「なあ、なんで?」  僕は、黙った。答えない僕に、ルチアは同じ声で、今は? と聞いた。防衛陣は、と。僕は、張ったと答えた。 「もう誰も入れないし、僕たちの気配も消した」  そう、と、ルチアは目を細めた。ふ、とくちびるの先で笑った。そうして。 「――あ」  ルチアの手が、僕のベルトを掴んだ。 「俺は、まだ燻ってるよ」  金具を手早く外した。指先が、容易に寛げていく。ルチアの頭が低く沈む。潜水をするように。 「ルチア、待て、まだ……」  洗浄魔術を、唱えるよりも早く、ルチアのくちびるが吸い付いた。僕の、まだゆるく勃起しているペニスに。  外に出ると、暗かった。目を焼く金色だった一帯は、夜闇が染みこんで鈍く白む。静かだ。暑いよりも、冷たくて涼しい方が、静けさを感じるのはなぜだろう。吐く息が、ほのかに濁る。茹だるほどだった暑さが夢のようだ。僕はテント内の暖気を強める。もっと冷えるだろうから。足の指に、どこからか紛れた砂が絡んでいる。脱いだときに、汗で張り付いてそのままになったのだと思った。  空を、仰ぐ。良く晴れていた。雲もない。乾いた空気。くっきりと冴え渡っている。風もない。予想通り、絶好の星見日和だ。  用意してきた冷却水を、氷を張り直したバケツに注いだ。昼間作ったものは、ルチアとの行為の間で、すっかり水になってしまったから。  あのあと、僕らは性交した。ミントティーと焼きたてのパンから香る良い香りのなかで、熱に浮かされたまま、猛然と。  僕は、店主に見せてしまった痴態の羞恥に、何度も赤面しながら、それ以上のことを、ルチアに行ったし、ルチアも僕にした。 「はあっ、はあっ……ヴァル……ぁんっ……あ、ん、む……」  砂漠の真ん中なのに、水浸しだった。垂れ落ち、伝い、溢れ、吹き上がるさまざまな体液によって、絶え間ない水音が立っていた。不可思議で、それから滑稽だった。外は乾いているのに、こんなにもぬかるんでいるなんて。思ったまま僕がそう言うと、ルチアは目を伏せ、精液を撒き散らした。赤い頬と首筋に汗が伝った。いつまでも濡れているくちびるが、僕のくちびると舌をしゃぶった。オアシスの水を貪るみたいだった。術を念入りに厳重にかけたから、そのそれらの音が漏れ出すことはなかった。ただ、隙間から紛れ込んだ砂が肌に絡んで、擦れあうたびにざらついた。  バケツの中に満ちた液体と氷は、なみなみと湛えている。ほどなく、そこに映るいちばん星が、ひときわ輝きだした。砂漠の夜のはじまりだ。その澄明な暗闇のなかを、ひとすじ、流れた。  流星群。  背中で、音がした。さむ、とひとりごちた後、一度戻り、再びざくりと砂を踏んだ。毛布で身を包んだルチアが、僕の隣に腰を下ろした。 「起きたか」 「寝すぎた、悪い」 「そろそろ起こそうと思っていた。今はじまったところだ」  ひとすじ、ふたすじ。星が流れる。おお、と、ルチアはまだ赤みが残る目元で、夜空を見上げた。  僕が受けた依頼は、燃え尽きる前の星の欠片を持ち帰ること。  ――リボンのお兄さん。あのね、星の欠片を、持ってきて欲しいの。  ――星の欠片を?  本屋の少女は、頷いた。そして、仄かに微笑を湛えながら、重々しく、理由を述べた。  ――そう。それをね、乗せるの。おはかに。標にしたいの。お母さんの。  一年前、彼女の母親が亡くなった。病気だったという。重い病だ。けど、治らないものではなかった。魔物がいなく、適切な処置ができれば、助かったかもしれなかった。  ――本で、読んだの。お話のなかに、あったの。  小さく薄い手のひらが、本の表紙をなぞる。膝の上のそれは分厚く、重厚な皮は、繰り返し人の手になぞられた飴色の艶を放っている。  遠い国のお話だと少女は言った。たいせつなひとがなくなってしまうひとのおはなし。夢のはなしみたいなの、でもね、でも。  ほんとうに、なるかもって。  ――だからね、あたし、お父さんと、穴を掘ったのよ。大きな真珠貝で、穴を掘ったの。お母さんが眠れるくらいの。それで、埋めたわ。お母さんを埋めたわ。お母さん、ほんとうにきれいだったの。しろくてね。ほんとうに、眠ってるみたいだった。 「そう、あとは、星のかけらだけなの」  聡明な瞳に、長い睫が思慮深い影を落としていた。  ――本当のことだとは、思ってないですよ。私も、もちろん、娘も。作り話だってわかっている。  依頼の報告を僕から聞いた店主は、穏やかに言った。真珠貝で穴を掘り、星の欠片を墓石にして、その傍で百年待てば、また会いにくるなんて。おとぎ話だ。夢の話……。  ――けど、何かしたいという気持ちは、わかるんですよ。わかりすぎるくらい。  何も出来なかったから、と。何もできないまま、受けないまま、ひとりで逝ってしまったから、と。  朝食を済ませたあと、少女は本を抱えて、母の眠る場所の隣に腰を下ろす。午前の涼しい時間、そこで本を読む。  ――なにができるわけではない。生きているものの、エゴ、なんでしょうか。気持ちの整理、なんでしょうね、きっと……。  砂漠の空に流星群が降る、三日前のことだった。  星が、降る。いくつもいくつも流れる。狙いは、丸く、相応しい大きさ。できれば色も良いといいけど、どうだろう。これは、掴まえて冷却してみるまでわからない。尾が短いものは、小さすぎる。狙うのは、ひときわ長く流れる星。それを燃え尽きる前に、捉える。  僕がへばったために、捕獲のための目標射程地点からは遠い。けど、不安はなかった。なんといっても、世界一の狙撃手が隣にいるから。それも、僕の魔術速度を熟知した。 「エゴでもなんでも」  砂漠行きを決めたルチアが、準備のための荷物を纏めながら、言った。 「生きている人間ができることなら、したほうがいい。それが生きてる人間の特権なんだから」  僕は頷いた。その通りだと思った。そして何より僕は、流星群を捕る技術を持っている。星の欠片を捕ってくることができる。  忙しく動いていたルチアの視線が、ある一点で停止する。僕は杖を構える。先端に魔力を溜める。柄がきりきりと震えるのを、きつく握ってなだめる。今回の流星群のピークは長くない。良いものを、きれいなかたちで持って帰りたい。……会いに来たいと、思ってくれるような。  ルチアの喉が震えると同時に、僕はその指示通りの位置に魔力の網を飛ばした。ひときわ長く眩い尾を引く星の、その落下地点に、網は真っ直ぐ発射された。  星の欠片は、バケツのなかの冷却水に沈んでいる。落ちる間にすっかり角の取れた、なめらかな表面で、密やかな乳白色だ。星明かりに、銀色に煌めく。申し分ない大きさ、ふさわしい色で形の星の欠片だ。他に、小さいものも二つ捕った。これは、少女とその父親への土産だ。  欠片の冷却には、まだ少し時間が掛かる。芯まで冷え切る前に刺激を与えると、型崩れを起こしてしまうし、最悪割れてもしまうのだ。寒いので、火を起こして待つ。極みを過ぎた流星群は、夜空を引っ掻くように、まばらに降る。  焚き火でパンを温め、コーヒーを淹れた。ルチアは紅茶派だが、パンと一緒に挽いた粉が二人分入っていたので、有難く頂くことにした。  白い湯気が沸く。パンは香辛料がきいていた。酸味の強いコーヒーに良く合う爽快な味、というのがルチアによる評だ。――『爽快』は彼にとって恐らく最上級の賞賛であり、つまり、気に入ったということだ。どちらも美味しく、夜の砂漠で食べるのにはうってつけだった。かじかむ指先と身体が、内側から温まる。 「……――、二年前だったか、たしか」  コーヒーの湯気に鼻先を浸しながら、ルチアが言った。吐かれた息が白く丸い。その吐息の向こうに、星が落ちた。 「前回ここに来たときか」  大蠍を討伐した時だ。まだ格闘家と吟遊詩人が仲間に加わっていなかった頃で……たしかに、二年前な気がする。その時も、こうして星が降った。流星群を見ようと、皆で砂漠を歩いて、同じようにテントを張って夜を待った。  ――あ、流れた、流れたよ!  最初の流れ星を見つけたのは、勇者だった。  ――ねえ、流れ星に願いごとをしようよ。  そう言ったのは、彼女だった。彼女の故郷では、流れ星に願うと叶う、という言い伝えがあるようだった。  ――ねえそれってさ、つまりいっぱい流れたら、そのぶんだけ願いが叶うってこと!?  ――はあ、迷信だろ。  ――強欲はいけませんが、ロマンチックですね……。  そう、流れ出した星を眺めながら、銘々に口にした。それでもきっと、願ったことは、皆おなじで、ひとつだった。  そしてその願いは、叶った。叶えた、というほうが正しいかもしれないが、叶った。  僕は、コーヒーを覗き込む。夜を映しながら揺らめいている。 「……今回は、何を願う?」 「……あ?」  ちょうど、パンに向けてくちを開けたルチアが、僕をみた。 「星に、願いごと。お前は、何を願うんだ?」  ルチアは、いっしゅん動きと止めた後、変な顔をした。苦笑うような、心底呆れたような、自嘲するような。透明に、粘度ある、とろけたガラスの視線で。 「それを俺に聞くか? お前が」  それだけ言って、もう言うべきことはない、というふうに、パンを大きく囓った。目尻には、まだ微かに赤い痕が残っている。  昼間、彼とした行為を思った。腕で、くちびるで、舌で、脚で、身体で、彼は僕を求めた。煮えるような行いのなかで、彼が僕に向けるものは、鮮明で、明らかだった。いま、僕から目を逸らした彼。拗ねたような横顔。世界が平和になったいま、彼が願うこと。  うぬぼれ、という言葉が頭に浮かんだ。いままで、触れたことのない種類のものだ。僕はどうしたらいいかわからない。僕は、頬を擦る。寒いはずなのに、香辛料のせいか、コーヒーのせいか、熱が集まった。  くちでは意地悪と皮肉ばかりいう彼の、けどその内側の感情は、そういうものだ。真っ直ぐに降り注ぐ日差しのよう。燦々と、影もできないほどはっきりと、眩しい。彼の放つ弾丸のよう。いっさんに、脇目も振らずに。昔から、ずっとだ。だから僕も、気づいた。気づけてしまった。 「…………」  お前はどうなんだ、と、ルチアは聞かなかった。むっつりと黙ったまま、パンを囓り、コーヒーを啜る。  星は降る。  終わった旅も。届かなかった思いも。どちらもよろこばしいことで、後悔も、郷愁も、そんなものはないんだ。  旅のなかに生きていた。魔物を、魔王を倒す、そのために、戦う。そのためには、生きることが大前提だった。生きるために生きていた。  あの日々に戻りたいだなんて、思いたくもない。世界は平和になった。平和にしたんだ、皆が、勇者が、命がけで、救った世界だ。失われなくてすむ命が、もう失われないように。  そして……届いてほしいとも、思っていなかった。ただ一方的に、僕が、彼女を思い慕っていた。それだけだ。それだけのこと。彼女には、関係ない。  勇者の村での結婚式。あれはほんとうに、すてきだった。おにあいのふたりだった。  だから胸のあたりが、虚ろになるのはおかしなことなのだ。まったくもって薄情なことだ。よって僕は、僕が心底嫌になった。あの輝かしい日の、うつくしい式に、そんな気分で列席した、自分が。  さびしい、だなんて。 「……僕は」  でも、いま。それを倦むことも、感じる暇も隙も、なかった。この旅が、ルチアとの旅が。――それは、ずるいことなのかもしれないと、思う。彼の僕に向けたものを知りながら。 「僕は世界が平和でありますように、と、願いたい」 「……はあ?」 「いつまでも穏やかで賑やかな日々でありますようにと」  ルチアは、は、と笑った。なんだそれ、と。 「結局、前回といっしょじゃねえか」  たしかに、一緒だ。言葉にしたら一緒だ。けど、少し、違う。 「……ま。お前らしいってな」  ルチアは空を仰いだ。白い息を短く笑って吐いた。その、呆れたような、寂しそうな、拗ねた表情に向けて、僕は続ける。 「ずっといつまでも」  もうもどらない日々も、届かなかった思いも。  それ以上に、今、僕はこの旅が楽しい。平和になった世界を、ルチアと巡ることが、楽しい。だから。 「この旅が、まだ続くために」  小さく息を呑む音が聞こえた。僕は、僕の隣の彼を見た。目が合った。流れ星よりも素早く、ルチアは目を逸らした。顔を背ける彼の、形の良い耳たぶの、鮮やかな色が、いつまでもはっきりと見えていた。冷却液のなかで溶けた氷が、星の欠片に触れてからりと鳴った。

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