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最終話 ハッピーエンド先の僕ら

 瞼越し、明るさに気づいた。ほのじろい。続いて知覚した身体の下の堅さに、ここが宿ではないことを思い出す。底冷えはない。張った魔術によって緩和されているから。  だるい。ねむい。  頭だけ、動かした。全身が重く、ため息をつく。寝袋のなかはぬくい。だるい身体がぬくい。あくびさえ、まだ出ない。 「ん、ん…………」  テントの向こう、鳥がピチピチしゃべっている。暖気を充満させているとはいえ、布の合わせの間からは朝の空気が這い寄ってくる。朝靄の匂い。雨の音はない。  さっさと起きだし、薪を積んで火を起こす。朝飯を作り、食ったら出発。――その一連の行動は、いまはもう喫緊ではないから、俺は惰眠の余韻に指先まで浸る。腰が怠い。喉が痛い。  昨夜は、そういうことをした。  息を、ゆっくりと吐き出す。寝袋の内側はぬくい。 (付け加えるが、何も俺たちはいつだってセックスしてるわけではない。時と場合を弁えている、一応。昨夜はテントで野営で、周囲に気配はなく。だから、した) 「……」  ゆるんでいる。ふやけている。かわいている。ゆうべ、どこまでもほとびた熱が、たるんでだるさになって残っている。すべてがとろみをおびている。日ざしにぬるんだ水差しのなかの水のきぶんだ。いつかの花の街をおもいだす。なにもかもがゆるんでいた。春。はる。あのとき自分のくちからでていたことば。それを、欲されたこと。 「……」  鼻先でつめたい冷気が動いて、落ちかけた意識が曳き戻った。湿った土と、濡れた枝葉の濃い匂いが鼻先に触れた。布擦れの音が続く。あちこち移動する。ヴァルは起きているらしい。  ヴァルが俺より先に起きる、というのは、最近はもう珍しくない。セックスをした翌朝は、だいたいそうなる。俺はいつまでもだらだらと寝、ヴァルは俺を起こさないので。  土の匂いに混ざり、いぶくさい。ヴァルが焚き火を拵えたらしい。そろそろ起きるべきか。今日は森の散策を予定していた。急ぐものではないが、日が暮れる前には終えたい。  思いながら、俺はまだ目を瞑っている。気配が、すぐ傍で蠢いた。ざらら、と音が続いた。マットと長い布が擦れあう音だ。外の匂いを引き連れている。呼吸音が聞こえる。ヴァルが、傍に腰を下ろしたらしい。 (…………?)  ヴァルは、そのまま動かない。休憩か? わざわざ焚き火から離れて? 「…………」  呼吸音がつづく。視線を感じる……それは俺に向けられている。いい加減、俺を起こしにきたか? 俺は薄くまぶたを持ち上げる。霞む視界の中に、ローブの黒が溢れている。  それを纏う腕が持ち上がった。俺を肩を揺するんだろうか。――そう思って見ていた指先が、肩ではなく、目前に迫った。俺の前髪に触れた。梳くように、撫でる。繰り返す。のろのろと。  なんだ? わからない。  俺がそのままでいると、その太くでかい身体が、動いた。屈む。作る影が俺を覆う。温かい吐息が、かすめて。  額に、なにか触れた。 「……何やってるんだ、僕は」  なんだ、今の。  起きて着替え、のろのろと食事をした。パンと、ヴァルの作った簡単なスープ。食えなくはない……が、味がない。塩を足したらまともになった。 「……忘れてた」 「塩を忘れるやつがいるかよ」  すまない、気をつける、と短く詫びて、ヴァルはパンを囓った。素のままぼそぼそと食う。俺はジャムの瓶を取り出し、好きなだけ塗りたくって口に突っ込んだ。  最近のヴァルは呆けている。脳内で魔術詠唱を錬っているわけでも、空や木々を眺めているわけでもない。湖の瞳は何を映すでもなく、遠くを向いている。濁ってる……いや、曇っている……靄がかかっている? その視線の向かう先を追えない。何も捉えていないから。――そして。 「おい、ヴァル……ヴァル!」  強めた語気に、そいつやっと顔を上げた。同時にその右足が、勢いよく水溜まりに突っ込んだ。 「……あ」  そして、話を聞いていない。 「……この辺り、ぬかるんでるから、迂回しようって言ったんだが」 「……そう、か。……そうだな」  ヴァルは濡れた靴をひきあげる。そぞろだ。心ここにあらずだ。 「――重傷」  ひとりごちた俺の言葉を、ヴァルは聞いていない。口のなかで呪文を唱え、濡れた靴を渇かす。その呪文を俺は知っている。いつかの山小屋で、嫌というほど全身に浴びたから。その時の響きと同じ。目の前の長い襟足が、屈む背中に流れる。ヴァルの靴はすぐに渇いた。けどまた濡れるのだろうと思った。  散策に向いているとは言いがたい天気だった。雨こそ降らないが、霧が立ちこめて白い。それが肌に張り付いて冷えるのに、汗を乾かさないから妙に暑かった。空気が水気を帯びている。肺の底にまで浸みてきそうな湿気。地面は踏みしめる度に、かかとが微かに沈んで滑る。土と濡れた木々の匂いが滞留している。  この場所を目的地にしたのは俺だった。最近ぼやけているヴァレリウスくんを思ってのことだ。ヴァレリウスくんも、近頃の己のぽんこつ加減に辟易しているようであったから。 『自然やら森やらが持つ、霊気とかいうのを浴びることで治るんじゃないか? 俺はそういうの知らないが』  俺の提案に、ヴァルは重々しく頷いた。まあ、それで治るとは思っていなかった。なので、ヴァルのぽんこつっぷりは健在だ。よってこの、前方不注意で水溜まりに足を突っ込んだヴァレリウスくんというのは、予想通りだった。 (つまり、そういうことというわけだ)  ヴァルのこの「不調」は、都会疲れでも英気の問題でもないということ。それがここにきて、明らかになってしまったというだけのこと。  めぼしい収穫は木の実くらいだ。それを子供の使いのように摘んで歩く。 「薬草と共に煮出すと美味い。生食してもいいが、可食部が少なすぎる。あとはジャムだな。種の処理が面倒だが」  ヴァルは俺の指先を見た。実を摘み取る俺の指先を。溜まっていく麻袋のことは、一瞥しただけだった。滲んだ果汁が、指の腹とつま先に赤くこびりつく。甘く、酸っぱい。ヴァルはまだ俺の指先を見ている。舐め取る舌とくちびるも。靄の掛かっていない、鮮明すぎるまなざしで。 「あは。……重傷かよ」 「……え?」 「俺はさくらんぼパイじゃないぜ」  ヴァルは首を傾げた。俺はただ首を横に振った。  ――問題は、自覚がないことだ。自覚ないまま、ヴァルは己の注意力散漫に悩んでいる。ほうけているのは、意識が、ある一点に過剰に働いているためだ。それをヴァルは気づいていない。自分の変化に、気づいていない。  俺は、実のまばらに詰まった麻袋の口をきつく締めた。 「戻ろうぜ」  他の成果は得られそうになかった。ヴァルの表情も思考も、この天気も晴れそうにない。俺は濡れた草と土を乱暴に踏む。こんな鬱蒼とした湿気ではなく、澄み渡って爽快な空気を望んで来たのに。  ヴァルは、黙ってついてきた。帰り道、同じ水溜まりをまた盛大に踏んだ。  あの秋の街からだった。収穫祭に湧いていたあの街で、ヴァルが俺にしたこと。俺がヴァルに言ったこと。あの日以降、ヴァルは少しずつおかしい。緩んだ歯車の働きが、あちこちに波及し、全体をばらばらと崩している。  あの日、放った薬莢。  ヴァルは、視線を俺に注いだ。近くでも、遠くでも。ふたつの焦点は、俺に結ばれていた。そして俺と目が合うと、逸れる。あからさまに、分かりやすく、表情を強張らせ、顔を背ける。  不満があるのかと思った。俺に対して。この旅に対して。街ばかり立ち寄ること。食事。宿。行為。気に入らないことがあるのかと。  けど、――どれも違う。なぜなら俺は知っているから。その視線を、よく知っている。  ……しかし、理解はしていなかった。そのまなざしの、身勝手さ、愚かさ。滑稽さ。露骨さ。果物から滲んでべたつく露のよう。まるで指にこびりつくジャム。拭っても、いつまでも張り付いて離れない。  なんて、厄介だろう、これは。……そのことを、思い知った。  俺は、恥じた。俺は俺を省みて、恥じた。かつての俺の視線を。俺を。吟遊詩人の言葉を思う。――難儀。ほんとうに、実に、そうだな。難儀。  けど、だからといって。この厄介さを俺が理解していたとして、俺の振る舞いは変わらなかっただろう。どうにもできなかった。そうするしかなかった。俺の視線はヴァルを追った。執拗に張り付き、否応なしにヴァルに知らしめた。それをせざるえなかった。なぜなら……。その答えは、もうかつての俺が出している。  ――わからない。だからこんなことをした。  ――こんな卑怯な真似をするくらいに、必死なんだよ、俺は。 「――――」  俺は、肺に溜まる息を吐き出す。ヴァルのその、熱心すぎる無意識の視線を浴びるたび、俺は甘く苦く疼く。いらいらと苛立つ。ヴァルに対して。それから、自分に対して。 「……くそ」  今朝、ひたいに触れたのは、指先ではなかった。指先よりもやわらかく、湿った熱を持っていた。苦々しく呟かれたことば。  ……何やってるんだ、僕は。 「――……」  呆けているヴァルの隣で、俺は考えている。ことの重大さを。変化したヴァルを。  焚き火を起こし直して、湯を湧かした。渇いた暖かさに身体が安堵する。湯をポットに移し、茶と、軽くすすいだ木の実を入れる。一度乾燥させると甘みが出るが、面倒だった。生の実ではそこまで水色に変化はない。けれど新鮮な甘酸っぱい香りが茶葉に移る。  ビスケットがまだあったので、取り出す。ここで湿気らせるより、食べきった方がよさそうだった。一枚囓る。甘さが舌にうれしい。泥濘を歩きまわって疲れた身体にはうってつけだった。  ヴァルは、俺の手元を眺めていた。俺が差し出したビスケットを受け取り、噛みながら、俺のくちびるを見ていた。 「砂糖はどうする。入れた方が飲みやすい」 「……じゃあ、頼む」  カップに角砂糖をひとつ落とす。その上に、ポットの中身を注ぐ。白い湯気とともに爽やかな匂いが香った。淡い赤色のなかで、結晶がほどけていく。それをスプーンでくずして掻き混ぜ、ヴァルに差し出した。 「ん。好みで足せ」 「……ありがとう」  受け取るために伸ばされた指だった。カップを手渡す瞬間、俺の指の上に触れた。 「――あ」  そう声が出たときには、既に事は済んでいた。  カップは割れなかった。中身は、すべてやわらかい土が飲み込んでいった。 「……! すまない……!」 「……別に、いい。まだある……」  カップを掴もうと伸ばした俺の手を、ヴァルが遮った。 「――ほんとうに」  俺は男を見上げた。――こいつのそんな表情を、俺は初めて見た。 「おかしいんだ」  ヴァルは低く唸った。魘されるように頭を振る。両目の翠が揺らいでいる。いつも凪いでいる湖。それが、こんなにもさざなみだって。  ヴァルは苦しんでいる。そいつの内側で、何かが溢れて、崩れている。 「へんなんだ」  狼狽している。気の毒なほど。表情というものをほとんど作らない顔なのに、ひどく歪んでいる。 「僕は、へんなんだ。ここ最近、ずっと」  知ってる、と思った。知ってる。そんなこと。 「……身体も、へんだ。心も、へんなんだ」  うん、と俺は頷く。ヴァルは、カップを掴みそこねた右手を擦っている。使い慣れない道具を宥めるように。 「お前にも、迷惑をかけている」  俺は肩を竦めた。水気を帯びた土が、木の実の香りを纏いながら匂い立っている。 「火を起こす呪文も、噛んだ」 「そうだな」 「防衛陣だって、一度しくじった」 「ああ」 「そんなことは無かった。こんなこと一度だってしなかった。あの旅でだって、その前だって。詠唱を損なうなんてこと、もうずっと、こんなこと」  男はくちを閉ざし、目を伏せた。指で顔を覆う。焚き火のあかりが、その男の鼻先を照らした。苦悩の色。魔術を損じること。魔術の習得にほとんどを費やしてきたこいつにとって、それは自身の根幹に触れるものらしかった。俺には感じ得ない、決定的な何かを、ヴァルは悟ったらしい。 「それに。――今朝だって」  今朝。けさの、あれ。 「……僕は僕が信用ならない。こんなことは、なかった」  苦しむヴァルに、俺は、俺がこいつに撃ち込んだもののことを思った。 「お前に、あんなことだってした」  確かに俺は、ヴァルに及ぼすものを、「その先」を、見定め、求め、言った。けどそれは、想定以上にこいつを浸食していた。俺が思うより、こいつが思うより、傷口が膿むように。こんなことになるなんて、きっとこいつは思っていなかった。俺も、思っていなかった。 「……はじめてなんだ、こんなふうになるのは」 「…………ヴァル」  好いている男が、こんなにも情けなく懊悩している。俺のせいで苦しんでいる。その内面で生じているもの。理解が不能であるとヴァルが判断したものが……それほどの質量を持って、頑丈で立派な身体の内側に堆積していく。――俺はくちのなかに浮き上がってくる唾液を飲み込む。  俺がこいつに撃ち込んだもの。俺の、感情によって、こいつは。 「日増しに酷くなる」 「うん」 「自分が自分でなくなる」 「ああ」 「……気持ち悪い。自分のことが」  項垂れるそいつの背中に、触れそうになった。疼く指先を、きつく握ることで堪える。湧き上がる。煮詰めすぎたジャムのように、べたべたと甘ったるく、苦い。独りよがりで卑しい。爽快でない、感情。 「ルチア」  ヴァルは顔を上げ、俺を見た。縋る、責める瞳がふたつ、俺を映した。 「お前は、どうなんだ。お前は」  そんな目。そんな目もできるんだな。お前は。(そうだ。俺のせいだな、ヴァル。そんな顔をそんな目をさせているのは俺だ)  乞う男に、俺は教えてやる。 「そんなの。見たままだよ」  なぜなら俺にはもうなにもないから。すべて、さらしたから。お前が施した術のせいで。なにもかも。お前の目の前にいる俺が俺のすべてだよ。 「お前がみて、お前がされていることが、そのまま俺の答えだ」  キスも、セックスも。俺が望み、俺が教えた。俺がそうされたかったから。拒否をしないお前に、俺が望んだから。 「俺も俺が、反吐がでそうなほど気持ち悪い」  ヴァルは項垂れた。溢した紅茶を見つめていた。カップの中身は戻らない。 「――なあ」  俺には責任がある。こいつをこんなふうにした責任が。だから明らかにしなければならない。こいつのなかで崩れかかるものを、きちんと撃ち抜いてやらないといけない。  俺は、腕を伸ばす。それは届く距離にある。ヴァルの左胸。手のひらを、押し付ける。厚い筋肉の下、肋の奥。 「言えよ」  ヴァルは頭を振る。 「わからない」 「わからなくていい」 「違っていたら、どうすればいい?」  ヴァルは俺を詰るように見上げる。憐れで惨めで情けない。不正解を恐れるヴァレリアスくんに俺は教える。 「違っていていい。違っていたとして、何が起こるんだ? そもそもそういうものか? これは」  俺はちっとも詳しくないが、間違いというのは、魔術呪文なら大惨事なのかもしれない。だがこれはそんなものではない。――ある意味、呪いかもしれないが。まじない。のろい。 「怖いのか」 「ああ、こわい」  ヴァルは、きっぱりと頷いた。 「言葉は力だ。言葉にすることは、怖い。形を成す。世界を構成するひとつになる。一度放たれてしまったものは、生まれ出たものになる」  ……この世で最も強いもの。取り返しのつかないもの。いにしえの時代より、ひとびとの言葉に、文字になり、幾度となく用いられ世界をかたちづくる。それはとほうもない力。すべてを認識し、区分し、形作るもの。慎重に扱うべきもの。すべてが変わってしまう……。  ヴァルのその恐れを、俺はわかりそうで、わからない。共感できない。魔術なんていう言葉を用いたものを重んじているからだろうか? 一音でも損なうと、別のもの、あるいは無になるからか?  なんて面倒な奴なんだろう。臆病で、潔癖で、そしてこれ以上ないほど傲慢だ。その取り返しのつかないものを俺に求めたのは、お前だ、ヴァレリウス。  俺は腹が立ちながら、同時に、じりじりと、甘い。そうだよ。俺はこいつの、そういうところだって。こういうところが。そのくちびるからでる、いつわりないほんとうのことばが。 「それでも」  俺は、そいつの左胸を強く押す。ローブ越し。分厚い肉越し。その鼓動を知りたくて。その意味を知りたくて。 「俺は、お前のそれが欲しい」  顔を上げたヴァルは、信じられないというふうに俺を見た。魔物でも見つけたような顔。失礼なやつだ。 「言っただろ、捨てるなと」  ――薬莢。お前の感情だって、気持ちだって、俺は逃したくない。お前から捨てさせない。切り捨てさせない。例えお前が倦んだものだとしても、それは許さない。 「俺はお前が欲しいから」  間違いとか正しいとか、そんなものはどうでもいい。俺は、お前のくちからでたお前がしりたい。  俺はただ、お前のすべてが惜しくて欲しい。 「――――は」  ヴァルの太い喉が震えて、息が掠れた。どうやら笑いたかったようだったが、失敗していた。瞳が、俺を覗いている。揺らめきながら、必死に俺を映している。くちびるが、こわごわと開いていく。 「お前、は……ルチアは」  喉仏が動く。大きく、息を吸いこむ。 「大事な仲間だ。頼りになる。機転が利いて、器用で。口が悪いけど、でも情に熱くて。実はすごく仲間思いで、良い奴なんだ。一歳しか違わないのに、僕よりも大人で、格好良いと、思っていた。僕と、ぜんぜん違う。ルチアがパーティにいて良かったと思った。そう思ってる。今も……」  触れた左胸が、忙しく上下する。呼吸が浅く早い。苦しそう。長い詠唱よりも困難そうに音を紡いでいる。舌をもつれさせている。苦しんでいる。恐れている。その苦しみも恐れも、俺はきっと欲しいんだ。 「け、ど」  けれど。 「それだけで、なくなってしまった」  言葉を切って、大きく、息を吐き、そして吸い込む。俺は、身構える。防御。けどきっと、貫通してくるんだろう。ああ心臓が痛い。お前は苦しいだろうが、俺だって苦しいし、恐れている。なにやっているんだろう、いい大人の男がふたりして。 「これが、正しいかわからない……、け、ど。知っている。僕はこの感覚を、知ってしまっている。だから……」  俺の指先が震えていること、こいつは気づいているだろうか。 「――僕は、お前に恋してしまった」  自覚したのは早かった。それを認めるまでの方が長かったといえる。散々もがいて疑ってみたが、結果は変わらなかった。むしろその過程で悪化さえした。俺はヴァルのことが好きだ。好きって、そういう意味で。紛れもなく、性欲も含んでの好意。認めざるを得ない事実だった。  だからって勿論、そればかりの四年間ではなかった。生きて、倒して、生きて、倒す。必死だった。その、それどころではない生活のなかで、ようやく灯した焚き火の前、目を閉じてから眠りに落ちるまでの間、気を抜いた瞬間、それは不意に滑り込んできて俺を焦がした。苛立たせ、苦しませ、生かしもした。治癒魔術に耐える間、思うのはその感情についてだったりした。長い襟足であり、太い指であり、翠の瞳だった。  それを。どうするつもりもなかったのに、どうにもできなくなってしまった。  使命感とか、義務とか、正義感とか。そういうもの、俺にはなかったけど、でも、――それをくちにだすのは恥ずかしい、とたんにチープになるだろ。でも――せかいをすくいたいと、思っていた。  それが、叶って、つまり、それが占めていた俺のなかの空間が空いてしまって、そうしたら、膨れてしまったんだ。それが。俺を押し上げ、そしてその苦しさにも、気づいてしまった。  いま、ヴァルの瞳は、俺を映している。焚き火に照らされているだけでなく、頬を赤くしている。 「……ルチア」  覇気のない、よれよれの掠れた声が俺に乞う。 「なんとか言ってくれ。顔から火が出そうだし、心臓が口から飛び出してきそうだ。いっそそうなった方が楽な気さえするくらいなんだ」  赤面するヴァルをみて、胸に一面広がったのは、あわれみだった。 「……あぁ……」  ああこいつは、俺なんかに、ほだされてしまった。俺に好きだと言われて、欲を浴びせられ、セックスして。ひとりの女を、ひたすらに清く、あんなに一途に思っていたのに。清廉な水場を踏み荒らした気分。雪の一帯を、俺の欲のまま汚して歩いた気分。泥が混ざった水は濁って。踏まれた雪はやわらかい白には戻らなくて。溢れた紅茶はカップには戻らなくて。なんて。  でも。もっとふさわしい言葉があった。感情があった。たちまちに溢れ、すべてをたやすく押し流していく。憐憫も、罪悪感も、自己嫌悪も。俺は。俺は。 「…………うれしい」 「……ルチア」 「……あは、はは……」  ああそうだよ。俺は、うれしいよ。好いていた男に、好きだと言われて、うれしくないなんて、ないだろ。ああ、もう。めちゃくちゃだ。なにもかも、ぜんぜんスマートでない。爽快でもない。喉が震えている。鼻の先が熱い。心臓が痛い。情けない。みっともない。苦しい。――うれしい。  顔を伏せた。ヴァルは、まだ困っている。 「頭が茹だりそうなんだ。冷却術を使うにも精神が統一できない」  あは。ああ、そうだな。はは。言って、俺は大きく息をつく。目をいちどきつくつぶる。 「――俺もだよ」 「お前も?」 「ああ。今にも爆発しそうなほど」  俺は頷く。茹だった頭と顔で。ばくばくとうるさい心臓で。 「――まあ、レベル1だからな」  そいつの困った表情が、ほどける。 「お前が。というか、おそらく、俺も」  だって知らないから。俺だって。こんな気分。こんな感情。 「……そうか」 「それで納得すんなよ。なんなんだ」  そう言ってから、なかなかはずいことを言ったと気づく。なんだ、レベル1って。そいつの胸から引いた腕が、掴まれる。竦みそうになるほど熱い指で、俺はびくりと大きく跳ねたが、ヴァルの右手が離さなかった。思わず顔を上げた。視線が、近い距離で絡まる。 「じゃあ、同じというわけか」  なんだ。もう。背けたい顔に、左手が滑る。太い、堅い。長いヴァルの指。頬に触れる。親指が、俺の顎にかかる。僅かに持ち上げる。その動きは、俺が教えた。 「……なあ、言えよ」  俺は、促す。ヴァルが耳まで赤い。 「どうしたいか、言え」  ヴァルは、怒った顔になる。今日は表情筋がよく動く。明日、筋肉痛になるんじゃないだろうか。そう思う俺に、ヴァルが近づく。焦点は近すぎて合わない。吐息が触れる距離で、慎重に息を吸った。呪文を唱えるように。 「……お前とキスがしたい」  放たれた言葉に、それを発したくちびるに、俺は自分のくちびるを合わせた。 「っ……――、は……」  キスは、長く続かなかった。なんだか息苦しくて、心臓の動きが速すぎて。ヴァルも、同じ様子だった。揃ってぜえぜえと呼吸する。 「なんか……」 「おう」 「息苦しい。けど……」  言葉より先に、ヴァルのくちが、ふたたび俺に触れた。舌先を軽く舐め合って、またすぐに離れる。 「……きもちいい?」  俺の問いに、ヴァルは小さく頷いた。そのずっと火照っている頬に、俺はついに認識する。かわいい。俺はいま、こいつのことをとてもかわいいと、思っている。 「――なあ」  そいつの赤い頬の色と、滲む緑色しか見えない距離で、俺は尋ねる。薪の爆ぜる音がしている。ポットの紅茶は冷めつつある。 「キス、だけかよ」  ぐ、という音を立てて、ヴァルの喉が上下した。俺の顎に触れている指がたじろぐ。それがくすぐったい。強張るヴァルくちびるを、俺は舐める。つつく。せかす。ねだる。 「……僕、は」 「なに」  逡巡しているくちの先を軽く吸った。可愛げある音がした。意識してもういちど鳴らした。 「……いつもと、違う」  そうだな。いつもと違う。いままでと、違うかもな。 「だから……いつもと同じように、できないかもしれない」  それはどういう意味だと、問う前に、瞳がぎらぎらと俺を見た。困惑と、狼狽と、それを覆うほどの、昂ぶり。欲。欲情。俺の喉も鳴った。ぶつけられる男の欲に、腹と腰の奥が、しくしくと痺れた。  川の水は冷えていて、凍えるほどだったが、俺にはあまり関係なかった。これからのことを思うと、熱はつぎつぎわいてきた。石鹸を塗り付け、あちこち、丹念に洗った。  戻ると、テントなかが、山だった。 「…………あ?」 「……あ。ルチア……」  正しくは布の山。車に積んであった、布やら毛布やらが、テント内に敷き詰められているんだ。 「……固くて、痛いだろうと、思って」 「今までンなもの敷いてこなかっただろうが」 「そう、だが……その、……」  そいつはまた真っ赤になった。ごにょごにょと何か続けたが聞き取れなかった。改めて、テントを眺める。――もこもこだ。 「ふ……、あは。気合い、入りすぎだろ」 「……笑わないでくれ。……いや、いっそ笑ってくれたほうがいいのか……」 「く、ふふ。あは、あはは」  なんていうか、こんなの、まるで、巣じゃないか。巣作り。ヴァルが拵えた、いまからここですることのための。俺を抱くための、巣。 「あは、はじめてでもないのに」  笑ってる俺に、ヴァルはむっすりと黙る。茹でた蛸の顔のまま、もこもこの『巣』から立ち上がった。 「……僕も水浴びを――」  その腕を、掴んで止めた。 「いい、いらない」 「ルチア、……けど」 「いらないって言ってるだろ」  俺は、目の前の、可愛い男に腕を巻き付けた。鎖骨に額を押し当てる。鼻先を胸に寄せて、そこで深く、息をした。  土と、埃と、湿気と、汗と、それから、車のトランクの匂いがした。布が吸い込んでいたんだ。それが、ヴァルの匂いに混ざり合っている。味わった息を、吐き出す。また吸い込む。良い匂いではない。決して。むしろ少し臭い。 「……お前は浴びただろ。僕も、浴びたい」  ヴァルの両手が、俺の肩を掴む。引き剥がそうとするのを、背中に軽く爪を立てて止めた。 「お前はいい」  何もかも、温かかった。服越しに伝う体温も、触れる吐息も。匂いも。冷えた身体に、ぜんぶしみてきた。 「……あたたかい」  混ざり合う、というよりももっと、支配的に。ヴァルの熱が、俺を染めていく。 「だからこのままでいい」  沐浴をして良かったと思った。都合の良いことを思える。都合が良すぎるから、口には出さないけど。なんにせよ。これらを手放すのは、損なわれるのは、嫌だった。 「このまま抱けよ。抱いて欲しい」  顔を上げた。そうして背伸びをして、怪訝そうな形のくちを食んだ。 「ん……、っ……」  くちも、くちのなかも、舌も、唾液も、吐息も。燃えるようだ。熱い。あつい。熱が移る。ヴァルから俺に。くらくらする。錯覚しそうになる。とても都合のよい妄想に悦になる。 「とても冷えている」 「……すぐ汗だくになる」  ヴァルは真面目な顔をしている。視線が鋭い。強烈だ。鮮烈だ。青葉の碧……そんなすこやかなものではない。……もっと。 「お前が、そうしてくれるんだろ」  太い喉が、低く頷いた。俺の背と腰に、熱い腕が回った。そうして、柔らかい『巣』に、俺を恭しく押し倒した。 「んんっ……、あ……あっ、あ、は……」  なんだか、なにもかもがぎこちなかった。くちびるも舌も、身体の動きも。すべてリセットされたみたいに。 (……違う、な。そう、じゃ、なくて……)  ヴァルはぜんぶ覚えていて、俺の教えた通りで、けど、それだけじゃないんだ。いつも、より、もっと。なんだろ。主導的? 自主的? 「んあっ、あ、あ、あ、はあっ、あう、っ!」 「……ルチア、すまない……平気か……」  言いながら腰振りを止めないヴァルに、俺は閃くように気づく。がっついてる。これは、そういう動きで、手つきで。俺は、ゾクゾクと痺れる。喘いで、それから、伝える。 「んあぅ……いい……気持ちいいから……はあ、あっ……!」  それがもっと欲しい。  冷えてた身体は、ヴァルの熱で満ちた。頭の先からつま先。腹の奥まで。肌には汗が浮いて、ヴァルのと混ざり合って、もう、どっちのかもわからない。繋がった場所がぬるつく。そこも、どっちの精液なのか、もうわからない。 「はぁっ、はあっ、あ、ち、ぃ……んぅ……きもちい……あ……はぁっ……」  腰をくねらせる。ぐちゅぐちゅする。俺に、馴染んでるかたち。俺が馴染んだかたち。はじめてではない。何度も抱かせて、かたさも、ながさも、ふとさも、知ってて。俺も、奥までぜんぶ、知られてて。そもそも俺は、他の男だって知ってて。はじめてでは、ないんだけど。 「んン……あぁ……ぁ、はぁ……、んぅっ……はぁっ、あ……っ!」  背中が反り返る。そこに、ヴァルの腕がやってきて、俺をしっかりと抱き寄せる。それだけのこと。それだけのことなのに。 「う……く……、んぁ……んぅ、う……」  心臓が、ずっとばくばくとうるさい。興奮と、興奮だけでない、なにかがある。むずむずして、忙しない。それは、ヴァルも同じらしかった。さっきから俺の胸に顔を伏せたまま、そこで荒く熱い呼吸をしてる。 「はぁっ……はあ……っ……」 「はあ、はっ……なん、か、ぁ……ん、はぁっ……」  なんだろうと、思う。こんな感覚が生まれたことはなかった。セックスしても、くちづけしても。快楽はあっても、こんなふうに、身体の、中も外もくすぐったいなんてことは。  ――逃げ出したい。笑い出したい。耐えがたい。縋りたい。……恥ずかしい。あ、あ、んうう、あ。ぐしゃぐしゃに襲ってくるそれらに溺れながら、それらは、都合の良い悦の正体でもあることに、俺は気づいてる。  俺は、顔を伏せているヴァルの頬を掴んだ。無理矢理、俺を向かせた。 「ぅ……ルチア……」  ひどい顔。茹でだこ以上。熟れすぎた木の実。その汗だくの頭を引き寄せて、キスした。動いてるから、動きすぎてるから、ぜんぜんうまくいかない。舌を噛みそうなキスを。  ――なんだか、はじめてみたいだ。 「う、あ……んあっ、うぁ……ンふ、ヴァ、る」 「ん、ぁ……るち、あ……ん、ん」  中途半端にくちを押し付けあったまま、ヴァルの舌が蠢く。――――き。 「すきだ、ルチア」  あ。あ、ぁ。 「ぁ、――――」  こえも、でなかった。とろとろと、とろけながら、おれは、あ、ああ。あたま、ばかになる。のうみそばかになる。あ、あ、うあ、ああ。きこえた、ことば。そのいみを、おれは、よくあじわう。すきだ。……あは。すき、だって。ヴァルが、おれのこと、すきなんだって。は。はは、あ。あう。あん。せかいのすべてがにじんでおぼれてる。きらきら。きらめいてばかり。――――。 「――――っ、は……ぅ!」  いき、とまってた。なんびょうかんだったかは、わからない。からっぽの肺が、空気でひらく。目は、まぶしさしかうつさない。きらめく。ゆらめく。すいめん。こもれび。熱だけが、はっきりと、わかりすぎるほど、かんじすぎるほど。おれをつかむうで。おれのなかにいるかたち。あ。あ。ヴァル。  なんだよこれ。こんなイキかたしらないよ。 「あ、は……う……う、ぐ、ぁ……は……!」  頬に、なにか触れた。やわらかい。額にも。顔じゅう、あちこち、降る。はなさき。まぶた。俺はへたくそな呼吸を必死にする。さかなみたいだ。陸にあげられて跳ねているさかな。酸素がなくてしびれてる。ふれるものすべてが熱い。ヴァルのせんぶがあつい。俺に降るヴァルのくちびるがあつい。 「……は……ひ……、は……ッ……は、……うぐ……」 「いったのか? ルチア」  耳穴に向けて、声が低く甘ったるく響く。俺ははしたなく呻きながら、首ががくがく頷く。だって、だってだ。こんなの、むりだ。むちゃをいうな。たえられない。たまんないだろ。 「あ……んう、う……ぐ……、は……、うぅ」 「……すまない、くるしいだろうけど、ぼく……」  おれの、痙攣してる脚を、ヴァルの手が掴んだ。ずぐ、ずぐ、うごいて、もっと、奥にくる。おれはにげられない。こんなからだで。からだのしたのもうふは、ぜんぶやわらかくて、つかんでもおれをささえてくれなくて。ヴァルが、あつくて。なのに、また、まだ、こんなに、おれに。 「ふ、あぁッ、や、め、まだ、いった、ばっかで、なん、か……!」 「……ルチア」  ヴァルの目が、乞う。俺は、腕がヴァルの首に巻き付いた。 「あう……ぅ……ん、ぐ…………う……ぅうう~……!」  だって、そんな顔で、そんな目で、そんな声で、よばれて、しまったら。もとめられたらさ。鼻がひんひん鳴る。目と口からだらだら垂れる。なさけない。くやしい。くやしい。そのくやしさも、すぐにほどける。ヴァルが、俺を揺らしはじめたから。 「ン、ひ、ふううっ、ひぅ、ん! ヴァ、ル、んくっ、はあ!」 「どうやら、僕は、お前がきもちよくなっているのが、良いらしい」 「あ、なん、あん、あう、あ、ひん、ぁ、ど、……って、え」  あえぎながら、こうぎする。どうやらって、なんだよ。ヴァルは、喉を低く鳴らして、笑う。なんだよ、こいつ。なんだよ。なんだよ! ヴァルはたのしそうに、笑って、俺のちくびを舐めた。 「ひ、ぁ、あぁっ!」 「――すまない。どうやら、じゃない。すきなんだ。お前が、きもちよくなっているのが、好き」  奥をぐりぐり掘りこむ。乳首を甘く噛まれる。背骨に、やききれそうなほどびりびりくる。 「あ、うぐ、あ、あ、んううう……!」  ああ、も、う。だめ。だめだ。あ。あ。だめ。ああ、こんなの、あたまとろける。おまえに、そんなにされたら、ばかに、なる。あ、あ、あ。  きもちいよ。 「ふあ、あんっ、あっ、あっ、あっ」  きもちい。きもちくて。ああ、あああ、うれし、くて。――おれは、もう。 「――すき。ヴァル、すき。すきだ」  乳首をしつこくしゃぶっていたヴァルが、顔をあげた。その顔をみて、おれは、まずいな、と思う。よくないせいこうたいけんを、けいけんちを、あたえてしまった気がする。そのしょうこに、こいつの目だ。なにかよいものを、見つけた目をしてる。きらめくまなざし。とうめいであついがらすみたい。ゆうえきなまじゅつしょ。さくらんぼぱい。あの術なしに、おれにこれをいわせるわざを、いまヴァルは、おぼえてしまった。 「……ぼく、も」  くちびるに、キスされる。 「僕も、好きだ」  全身が痙攣して、イきながら、俺は思う。  いいんだろうか、こいつは、おれで。  これで、よかったんだろうか、とか。はたしてただしかったんだろうか、とか。おれは。おまえは……ヴァルは? なあ、これで、よかった? せっかくつかんだハッピーエンドの先が、これで。俺で。なあ。  心臓が痛い。そう、おもうのに、手放せなかったのは俺なのに。 「ぁ……っ……」  きっと、俺はいっしょう、これを考えつづけるんだろう。この旅を、こんなふうに抱いてもらってるいまを。ねつを、においを、あじを、こえを。なんどもおもいだして、あじわって、甘く苦く、しびれるんだろう。  背中にきつく、腕を回す。裸の肌につめをたてる。  永遠なんてものはなくて、すべてのものはかわっていって。いつかは終わる。この旅も。この関係も。  ――だから。だからさ。 「ルチア……もっとききたい。言えよ」 「……ん。……う」  急かすヴァルに、俺は、苦しい胸と震える喉で、息を吸う。ふたつの目に、俺をいっぱいに映して、その低く響く声で、乞う男に向けて、苦しい肺と喉で。  いつかおわるその時まで。いまだけ。いまだけだ。俺のものにしたい。この男のぜんぶを感じていたいよ。俺のことをすきになってしまったこの男を。そのきもちが、おわるまで。 「ヴァル……すきだ」  満足そうに緩んだくちびるが、俺のくちを覆った。毛布の巣に埋もれながら、俺たちは長いことそうしていた。  エンジンは良好だ。空は快晴。視界も良好すぎるほど。雲ひとつない。辺りを囲んでいた霧は消え、朝日が隅々まで照らす。青々とした木々がまぶしい。夜気の名残がまだ少し、明るい空気のなかに溶け込んでいる。出発にはうってつけの陽気。畳んだテントと、洗って乾かした毛布がトランクに詰まって揺れている。長いこと入れっぱなしにしたままだったが、活用法がみつかったので、しばらく積んでおくことにする。もちろん、ヴァルくんが新たに身につけた特技のためにだ。  タイヤが草と土を踏んでいく。聞こえるのは、風の音と、それから。 「気持ちがいい」  開けた窓から入り込む風に、襟足をなびかせながら助手席のヴァルが微笑む。 「良い朝だ」  掴む必要さえない感じられないほど、真っ直ぐな道を、走りながら、俺は答える。 「ああ。爽快だ」  爽快。ヴァルはそれを口のなかで転がし、味わい、頷く。 「爽快。――まさに、そんな気分だ」  ヴァルの手のなかで、地図がはためく。勇者の地図の写しだ。前にもらっておいたものだ。 「やっぱり東の塔が気になる」 「ここからだと遠すぎる」 「なら北の果ての氷の洞窟は」 「寒いのは気分じゃない」 「西の赤い森」 「森はしばらくいい」 「我が儘だな」 「じゃあ南の岬の先」 「海はあんまり好きじゃない」 「お前だって我が儘だろ。つかそれお前が最初に言い出しただろ」  ふす、と男は吹きだした。いったい、何が可笑しいのか、頬はずっと緩んでいる。 「なに笑ってんだ」  俺が訊くと、ヴァルは顔を上げた。まっすぐ前を、見る。道と、空。 「だって、なにもない。こんなにも穏やかで、なにもないから」  人もいない。魔物もいない。朝日が照らす。道は真っ直ぐにどこまでも続く。 「ああ。ハッピーエンドの先に、僕らはいるんだ」  なんだそれ。俺は笑う。 「今更か。知らなかったのか?」  ヴァルは気持ちよさそうに、窓の外を見る。  俺はハンドルを握り、アクセルを踏む。いつか終わりがきたとして、それは今この瞬間ではないから。エンジンが唸る。震えと加速にヴァルは小さく驚き、目を細めた。その翡翠の瞳で、俺を見た。 「なあルチア、どこに行こう、これから」  ヴァルが俺に訊く。まちきれない、子供のように。 「そんなの、決まってる。野暮なこと聞くなよ」  俺は答えてやる。かわいい男に。好きでたまらない男に。だって、最高に、爽快な気分だから。 「どこへだって、どこまでだって」  これが、はじまり。俺たちのあたらしい旅のはじまり。

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