7 / 8

7話 みのる熟れるあかく

 木々はどれも色づいている。赤、黄色。その上には、鱗型の雲と、つき抜けるような青空。町は収穫祭の準備で忙しい。 「兄ちゃんたち、麦酒はいかがかな?」  今日、何杯目かわからない誘いだ。この地方の特産品らしい。盃を受け取る俺を、ヴァルは横目で見る。 「そっちの兄ちゃんは?」 「こいつは下戸なんでね。このでかい身体で、見かけ倒しだろ?」  俺の隣で、むっとしたのが分かった。出店の店主がヴァルを庇うように苦笑いする。俺は盃の中身を煽る。そいつの拗ねた顔に、胸に巣くって甘やかに疼いたものを、押し流したくて。飲み干す。細やかな泡が喉奥を撫でていく。 「……うまいな。好きだぜ、これ」 「わはは! 気に入ってもらえてなによりだ!」  俺は横目で隣を見た。さっきより明らかに、機嫌がよろしくない。 「はあ、怒るなよ。俺がひとりで楽しんでるからって。ひとくち呑むか?」 「……そうではない。いらない」 「わかったわかった。あとでさくらんぼパイ買ってやるから」  ヴァルは答えない。むっつりと黙ったままだ。悪かったよ、と俺は謝る。顔を背けたまま、ヴァルは通りに戻った。こら、拗ねんなよ子供か、と、店主に盃を返しながら、進む背中に投げかけた。  黒い背中を追い掛ける。俺は、ひっそりと深く息を吸って吐き出す。酒のためだけではなく浮き足立つのを、抑えるために。一体、どっちが子供なのか、わからないまま。  最近のヴァルは、不機嫌だ。太い眉が眉間に寄っている。目を細める。くちびるが微かに歪む。口数も減った気がする、が元々無口なためにこれは誤差の範囲だ。  不機嫌は、俺に起因している。  近頃の俺というのは、常より増して皮肉と揶揄を吐き出した。舌は詰る表現をつくる。その度にヴァルは閉口する。呆れより、拗ねる子供のそれだ。その態度がさらに俺を刺激した。俺の言動で困るヴァルに、俺は悦を覚えた。  これは、いったいなんなのか?  そんなことはわかりきっていた。難しく考えたいだけだ。シンプルだ。だから直視をしたくないだけで。――でもそれももう、いい加減、自分でうんざりしてきた。  うれしいんだ、結局のところ。うれしくて、たまらない。好きな男とあちこち巡れて。時々抱いてもらって。それで、うれしい。浮かれないなんて無理だ。  そして、そのことが俺は恥ずかしい。うれしくてはずい。自分が自分でむず痒くてたまらない。叫んで回りたくなる夜もある。……この感情を吐露してしまえるほど、俺は清廉ではない。もとより素直さとは程遠い性質をしてる。  つまりは、思春期のガキなのだ、いまの俺は。  自分に心底辟易する。本当に、あの時の俺は……濡れた身体で木漏れ日を見上げながら、もう終いにしていいと、心の底から充足していた健気な俺は、どこにいったのだろう?  俺たちは会話のないまま、宿に戻った。例によって一部屋だ。ベッドはふたつだが、これだって、俺の下心に他ならない。二部屋分払う金はある。ヴァルが拒否を示さないので、いつまでもこうなっている。 「飲みたければ飲めば良いだろうが。酒。まあどうせ吐くんだろうが」  買い込んだ荷物を、ヴァルが黙って肩から下ろす。 「ヴァル、前から思ってたがお前、結構面倒くさいヤツだよな。機嫌悪くして黙る。あぁ、黙ってるのはいつもか」  荷物を取り出すそいつの手が、鈍くなった。逡巡している。振り向く。両目が俺を見据えて、重いくちびるが動いた。 「最近のお前は、僕にいじわるだ」  俺は、半笑いになった。 「は? いじわるって」  俺のその態度も、褒められたものでないと気づいていた。やや飲み過ぎた麦酒が胃の中で泡立っている。 「いじわるってなんだよ? 優しくされたいって? よしよしと慰めて、頭を撫でてもらいたいって? あは。いいぜ? してやろうかヴァレリウスくん?」  ヴァルは、べらべらと喋る俺をじっと見つめただけで、振り向いた身体を戻した。言うべきことはない、という態度だ。もくもくと荷物の整理に戻った。 「…………」  その広い背中に、抱きつきたい衝動が俺のなかで起こる。そいつの頬をつねり、耳を囓り、くちびるに吸い付きたい。頭を撫で回したいのは、俺だ。触れたい。いたるところに触れて、撫でて、なぞって、掴んで、そして。 「……またそうやって、だんまりかよ」  俺のその衝動を、俺が受け付けないので、俺のくちはまたいじわるを言った。  夕食は、宿の近くの店に行くことにした。宿の主人曰く、美味くて量があって安い、とのことだ。爽快な三拍子だ。安い飯屋というのは、肩肘張らないから良い。気軽で落ち着く。俺たちは暮れた空の下くりだした。秋の涼しく渇いた風が石畳を撫でていく。月が、満月ではないが丸く明るい。  店は繁盛していた。窓からは、ランプの橙色が煌々とし、賑わいが漏れ出してくる。地元民が好みそうな佇まいだ。 「いい雰囲気だな。俺好みだ」  ヴァルはもう少し静かな店が好きだろうが。そう思いながら、隣を見た。まあ別に、という表情をしていると思っていた。好みではないが嫌ではない――それはヴァルの中で大半を占めている価値観だ。 「あ? ……なんだ?」  だから、見上げて見えたその顔が意外だった。眉間に、分かりやすく皺が寄っている。露骨に「嫌」を示す表情。俺は、流石に提案した。 「別の店にするか?」  はっとして、ヴァルは俺を見た。首を、横に振った。 「……別に、そういうわけではない」  妙に、歯切れ悪い。無理すんなよと言った俺に対し、ヴァルは頑なだった。ここが嫌なわけじゃない、と。 「はあ。どっちなんだよ。もう面倒だからここにすんぞ。腹減った」  ヴァルは口を閉ざしている。そこに滲んでいるのは苛立ちよりも困惑だった。  店内は思った通り地元民が多そうだった。入ってきた俺たちを見、珍しそうな顔をした。が、嫌悪はなく、純粋な驚きと、少しの誇らしさが混ざっていた。良い店だろう? よく見つけたな、楽しんでいけよ、というまなざしだ。俺たちは空いていた窓際の席に座った。 「こんばんは! お客さん、見かけない顔ね!」  声をかけてきたのは、娘だ。十代後半だろうか。看板娘、という出で立ちだ。俺が車で旅をしてることを伝えると、瞳を輝かせて珍しがった。(他の客も同じような目をして俺たちを見つめたが、気づかないでいてやった)。 「旅人さんなの!? えーっ! すごい! ねえねえ! どんなとこ旅してきたの!? あたし隣町までしか知らないの! 旅のお話聞かせてお兄さん!」  人懐っこい娘だ。きっとみんなに人気で大事に可愛がられているんだろう。あちこちから飛ぶまなざしに嫉妬が混ざりはじめる。 「気が向いたらな。……その服、珍しいな。民族衣装?」 「これ? ふふ、素敵でしょ!」  服のあちこちに施されたフリルが揺れる。聞けば町の伝統衣装で、収穫祭のこの時期に身につけるものらしい。「ああ、良いな、素敵だ。好きだぜそういうの」と俺は褒めた。世辞も多少混ざりはしたが、酒と食事の場には必要だ。 「でしょ? 後ろもかわいいの、ほら!」  看板娘は機嫌良く、その場で一回転してみせた。布をたっぷりと使ったスカートが膝下で膨らんだ。愛嬌のサービスには賞賛を。俺は拍手を送った。看板娘は恭しくお辞儀をした。  褒められたことで、旅への興味は一旦和らいだようだった。脇に抱えていたメニュー表を手渡した。 「注文をきかないとね! また父さんにおしゃべりばっかりしてって怒られちゃう!」  わはは、と周囲から笑い声が上がった。微笑ましさについうっかりという感じの笑いだ。 「それにしてもあなたたち、運が良いわ!」 「何が?」 「知らないの? 昨日解禁されたばかりなのよ」  看板娘はボトルを持ち出してきた。麦酒だけでなく、葡萄酒も名産だという。通常の、長く熟成するものではなく、今年摘んだものから造られる、いわゆる新酒だ。 「へえ、いいな。俺はそっちのが好きだ。一杯もらおう」 「一杯とは言わず、たんまり呑んでいってよ! お兄さん、格好良いからサービスしちゃう」  看板娘は、ボトルを気前よくテーブルに置いた。 「はは、ありがたい。ちなみに葡萄ジュースはあるか?」  俺は聞いた。酒が呑めない連れの男への配慮だった。俺ひとりまた美味い酒を呑んでは可哀想だと思ったのだ。揶揄は含めなかった、つもりだった。 「ジュース? ええ、あるわよ」 「……いらない」 「あ?」  低い声が響いて、俺は向かいを見た。ヴァルは首を横に振り終えると、ボトルを手に掴む。すでにコルクの開けられていたそれを、グラスに向かって傾けた。明るく鮮やかな色が満ちる。それを、躊躇なく煽った。 「は……? おい……!」 「おお~! 良い飲みっぷり~!」  何もしらない看板娘ははしゃいでいる。グラスは透明になった。底に薄く赤色が溜まるのみだ。 「葡萄酒に合う盛り合わせがあるの! ぜひ食べていって!」  看板娘はにっこり笑って、カウンターの奥に戻っていった。 「ヴァルお前……」 「飲みたければ飲めば良い、と言ったのはお前だ」  確かに、言った。けどそれは、本気ではない。ただの軽口だ。ヴァルは早くも目が据わっている。そして、梃子でも動かない、という構えだ。こうなると、もうだめだ。 「……好きにしろ」  俺もグラスに注いで、煽った。若々しい、爽快な味の美味い葡萄酒だった。  もう一杯グラスを空にしたところで止めさせた。こいつが完全に潰れたら、俺ではどうにも運べない。心強い格闘家の筋肉はここにはない。  出された料理は、どれも新鮮で、丁寧に仕込まれた食材たちだった。葡萄酒にも合った。美味かった、と思う。――思う、なのは、俺の五感がそれらを十全には味わえなかったからだ。  ヴァルは、苦い薬のようにグラスにくちをつけた。一杯目にみせた威勢の良さは続かず、漸くひとくち含んでは、無理に飲み込むやり方をした。分かりにくい表情のせいで、客や看板娘には、難しい顔をしながら味を分析する専門家のように映ったらしかった。少しもうまそうではなかった。ただただ滑稽だった。俺は何も言えなかった。  ――あの時も、そうだったんだろうか。あの村で、勇者と女戦士の結婚式で。俺は意識してその席を見なかった。気づいたときには、既にテーブルにつっぷしていた。こんな馬鹿馬鹿しい飲み方をしたんだろうか。俺はじりじりと倦んだ。舌の上ではすべての味が膜に包まれたようにぼやけていた。見ていられなかった、これ以上。  来たときの倍近くかけて、宿に帰る。肩を貸すまでではなかったが、ヴァルの足取りは重く、鈍かった。それをやじる言葉も、嘲笑する言葉も、たくさんあった。けどひとつも吐けなかった。よろめくそいつを見たくなくて、空ばかり見上げてた。月も星も照った。空気は涼しく冷えていて、酒を呑んだ肌に心地良かった。そこここで黄色や赤色の葉が、石畳をからから転がっていた。外灯が橙色に灯っている。すみずみまで良い夜だった。のろのろと歩く、痛々しい男を除いて。  宿に戻って、そいつはベッドに倒れ込んだ。低く呻いている。吐きはしなかったが、気分は悪いらしい。 「本当に、何考えてんだよお前」  それに対する返事は返ってこないだろうと思った。黙って、それで終いになると。 「…………お前こそ……なんなんだ」 「はあ!?」  そして、感謝と謝罪こそあれ、非難される筋合いはなかった。俺は腹が立った。横向きに倒れている男は、目だけで俺を捉えている。 「なあそれは、俺に対してどうなんだ?」  正直お前のせいでせっかくの飯が台無しだった。良い雰囲気の、良い店で、良い酒で良い料理だった。それを。 「ひとを馬鹿にするのも大概にしろよ」 「――それは、お前がだ」 「あ?」  俺はヴァルの肩を掴んだ。もう一回言ってみろと、言うためだった。妙な感傷を浮かべているその頬を、殴ってやろうかとも思った。まるで被害者は自分だとでもいいたげだ。そいつの翳る瞳を睨み付ける。ヴァルも俺を睨んでいる。  投げ出されていたシーツの上で、手のひらが動いた。俺の腕を掴む。そのまま、強く俺を引いた。 「――――――ッ!」  躱せなかったのは、いまのこいつにそんな力があると思っていなかったから。そんなことをするとも思っていなかったからだ。油断していた。かろうじてとった受け身の肩下で、短く軋む音が鳴った。ベッド。スプリングが弾んだ。起き上がるより先に、目前を影が覆った。両腕が押さえ込まれる。ヴァルが、俺を押し倒している。 「は……? なにすん……」 「どうしてだ」  低い声が、降る。俺は舌が止まり、ついで喉が息を飲み下した。翡翠の色がふたつとも、俺を見下ろしている、――困惑。苛立ち、それから……。 「どうして、僕に言わない」 「……はあ?」  こいつの思考はときどき飛躍する。――否、本人のなかではおそらく繋がっているんだろう。けれど、その式を言葉にして提示せず、解のみを短く発するから、理解に苦しむ。 「……なんの話だよ……いいからどけよ」  重いんだよ、と言いかけた俺の腕に、ヴァルの太い指が食い込んだ。 「い……ッ! て、め……!」  動かした脚の間に、胴がねじこまれる。そのまま体重をかけられて、思わず呻いた。苦しい。酔ってるとは思えない。むしろ酔っているからか。 「どうして他のものへは簡単に言ってしまうのに、僕には言わないんだ」  もがくほど、ヴァルは押さえつけてくる。枕も毛布も床に落ちた。意味が分からない。腕の骨が軋む。 「だ……から、意味がわかんねえ……! 言うとか、言わない、とか……!」 「そうやって、僕にはいじわるなことばかりだ」  その後のことを思うとやりたくないが、頭突きか、腹に蹴りをいれるしかなくなる。このまま腕を砕かれるか、顔にげろを吐かれるかの二択……やむを得ないってか。ああクソ、本当に、意味がわからない。 「こ……んの……!」  俺は首から上を一度伸ばした。頭突きのためだ。やれば確実に吐かれる。けど、こいつをどかさないといけない。このわけがわからないこいつを。――狙いを定めるために、男を見た。視線が合う。その眼球の表面が、揺れているのが見えて、いっしゅん、目を見張ったのがいけなかった。  俺が動くより前に、顔が近づいた。 「――――ぅ、ん!」  焦点がどこにも合わずにまだらになった。くちのなかに、熱いものがねじこまれて……俺の咥内を満たした。 「う……ッ、ぶ……ッ、んン……!」  くちびるごと、覆われる。しつこく追ってきて、塞ぐ。噛んでやろうと動かした上顎に、舌がすべりこんだ。間抜けな空気音が漏れた。舌が絡まる。ヴァルの顎が動いて、舌の先をくちびるごとしゃぶった。甘ったるい水音が鳴った。どれもこの場に流れる剣呑さに似合わない。  これが、この男じゃなかったら。俺は舌を噛みちぎり、肋を強く殴った。引き金だって引いたかもしれない。 「ん……ふ……、っん……」  ヴァルは、すべて、俺の教えたとおりにした。俺の「好いところ」を「好い」方法で、撫でて弄って吸った。舌の使い方も、くちびるの動かし方も。角度も。息継ぎのタイミングも。ぜんぶ俺を悦ばせるためのくちびるで舌。俺が教えた動かし方。店を出る前、飲ませた水のために水っぽい。ぬるい。 「ん、ぬ……ふ、ぁ……や……ぅ、ん……」  はじめてだった。俺が促さずに、こいつからキスをしてきたのは、これがはじめて。だから。 「――――っ……は、ぁ……はぁ……はあ」  くちが、やっと離れた。  自由になったくちびると舌で、俺はなにか言うべきだった。いつものあの、「いじわる」な態度や言葉を、いまこそ浴びせるべきだった。憤怒し、いったいなんだと問い詰めて、一発どころでなく殴るべきだった。  俺は、ただ胸を上下させて息を整えている。滲むそいつを見上げながら、長く伸びて切れない唾液の糸を眺めながら。舌先が、くちびるが、じんじんと甘くしびれている。  こいつが、こんなことをするなんて。  ヴァルの顔が動いて、俺は身構える。唾液に濡れたままのくちが、首筋に滑った。びくりと跳ねた、自分の身体がイヤになった。くちびるの隙間から、さっきまで俺に絡んでいた舌が伸びて、俺の首に触れた。 「――ぁ、く……!」  いやだ。やめろ。わけわかんねえ。ふざけんな。説明しろ。頭は確かにそう思考するのに、腹の奥が、わくわくと震える。与えられる、愛撫といえるべきものに、俺は……。 「……――いやだ」  なんとか、吐き出した。弱々しく、情けなくしおれた声だった。なんの意味もない。欲情を、表すだけの。舌が、首筋から離れていった。俺は深い息がでた。……ほっとした。けど男はまだ、俺を組みしいている。俺の腕を、痛いほどの力で掴んだままでいる。 「……ほんとうに嫌なのか?」  耳たぶに、吐息が触れた。嫌に決まってんだろ。意味わかんねえよ。そういうために吸い込んだ息が、ただの無音の塊としてすぐに洩れ出た。役立たずのくちびるを噛んで、俺はヴァルを睨む。ヴァルもやはり俺を睨んでいる。 「お前は……僕のこと」  鋭く。月光に濡れた湖面のように。 「僕のこと、好きなくせに」  は? 「な、に……ん、む……ッ!」  また、口を塞がれた。舌が、ぐちぐちと這い回る。吸い付かれて息を奪われる。俺は呻いたが、鼻から犬のような高い音が出ただけだった。頭を揺らすが離れない。ベッドフレームが軋む。  俺のくちのなかで、ヴァルの舌が動く。それまでとは、異なる蠢きだ。なにか別の、明確な意図を持った。――言葉のような。  不意に、咥内から喉に流れた。唾液ではない。液体でも固体でもない。しかし粘度を持った、何か。喉仏の下に溜まり……発火するように熱くなった。 「――ぶは! げほ! げほッ! てめ、なに、しやが……っ」 「…………すまない」  そいつは謝った。本当に、心からすまなそうな顔をしている。喉に、先程までの熱はもうなかった。ぼんやりとぬるい。そこに日だまりが落ちているようなあたたかさ。……この感覚は知っている。こいつの魔術。 「けれど、こうするのが早いと思えた」  お前の言葉というのは、発声の際に捻れるようだから。――ヴァルは悔いたように呟いた。 「意味、分かんねえ。酔ってんだろ」 「そうだな」   ヴァルは表情を変えずに頷いた。そしてそのまま、俺の胸の上に顔を伏せた。……くちびるが、シャツ越しに俺に触れた。 「おい……! なに、しっ……!」 「お前は、ただそうしていればいい」  それだけ言ってくちびるは、シャツの上に戻った。 「な、ン……ヴァ、ル……!」  鼻先でホルダーをずらす。舌がシャツをなぞる。息と唾液が、生地に滲む。皺を丹念に食んでいく。俺はもがくが、やはりベッドをぎしぎし揺らすだけだ。耳の後ろが、どくどくと五月蝿い。俺がされていること、ヴァルがしていることを、思って、脈打つ。  逃げたい。逃げたかった。俺は脚をばたつかせるが、ヴァルのウェイトには敵わない。両手は捉えられたまま。痛い。馬鹿力め。 「おま、え……ッ……!」  シャツの皺のひとつひとつを、くちびるで潰していく。むずがゆい? くすぐったい? 違う。そんなんじゃない。食まれる左胸の奥で、心臓が蠢く。――探している。探されてる。そんな。そんな、の。 「……ざけんな……ッ! いい加減に……!」  うわくちびるが、ついに触れた。 「――――あ!」  露骨すぎる答えに、ヴァルは這い回るのを止めた。そして、シャツ越しに、歯を立てた。皺の山ではなく、俺の乳首に。 「――ふ、ぁあっ!」  痺れ、が、背骨から腰に、走る。消えずに、溜まっていく。前歯に潰されたところから、痛み、と、それ以上の、ものが、流れ、て。 「っう……! ん、ぅ、う!」  ヴァルは、念入りに繰り返す。ぐにぐにと甘く噛む。舌で何度もなぶる。唾液がシャツを濡らして、乳頭に浸みてくる。……それが、熱くて、そこに、息が触れるのでさえ、響い、て。 「……ン、ぐ……ぅ……ッ、ん、うっ!」  くちびるに、またキスされる。今度こそ、その舌を噛んでやろうとしたのに、上手くいかない。 「――――っぷは! ヴァ、る……あ、ぁあ!」  また、乳首を噛まれる。きつく吸われる。シャツは、そこだけしとどに色を変えた。鞣された服の繊維が鞣される。俺の膨らんだ乳首の形に、くっきりと成っている。 「っ……ぐ……!」 「……ルチア」  耳奥に吹き込むように、低い声が俺を呼んだ。 「――どうしてほしい?」  どうしてほしい、だって? 怒りがこみあげる。こんな辱めを受けて、あまつさえ、どうしてほしいかと、ほざくなど。  喉が、熱くなった。 「――ちょくせつ、しゃぶられたい」  ヴァルの表情が、いっしゅん歪んだ気がした。 「ちくび、噛んで、舌で弾いて、ひどくしろ」  …………あれ? 「――わかった」  いま、俺は、なんて言った? (待、て) 「はやく」  俺の声だ。喉から、舌の上から、くちびるから、出た。  ヴァルの指が、ついに腕から外れた。血液が巡る。指先が痺れる。自由になったはずなのに、俺は動けない。いま、自分の喉からでた言葉が信じられなくて。胸のホルダーのベルトが解かれた。息がしやすくなる。シャツのボタンが外されていく。シャツとインナーの裾を引っ張り出される。 「どんな気分だ」  どんな気分? そんなの。 (最悪に決まってるだろ) 「……興奮する」  俺の喉が答えた。 「ヴァルがこれから俺を抱こうとしていることに、興奮してる」  舌は、淀みなく吐き出した。俺はヴァルを見上げた。そのくちが、ゆっくりと開くのを見ていた。 「お前の舌と喉に魔術をかけた」  魔術……。 「前にも使ったことがある。お前にではなく、盗みを働いた男に対して」  パーティーで旅をしていた頃だ。宿で、金品が盗まれた。俺は無事だったが、何人かがすられた。犯人捜しの際に、ヴァルは宿主に向けて呪文を唱えた。 『いま、あんたは本心しか話せない。難しいことはない。本当のことを話せばいいだけのことなのだから』  俺が取った、と、店主は言った。宿の客から金を盗む、いつもしていることだ、預けられた荷物からこっそりと、こんなに容易いことはない、だろう? と。自らの口で、簡単に自白した。  あの時の、宿主の絶望した顔ときたら。 「は……なんで、そんな……?」 「なんでって。お前が少しも……」  ヴァルは首を緩く振って、言いかけた言葉を変えた。 「――お前が、わからないから」  わからない? 俺は、お前が分からない、ヴァル。 「そして、これならおそらく、お前が僕の術を破ることはない」 「……それは、どういう」  それ以上の会話はなかった。ヴァルは、剥き出しにした俺の左の乳首に、直接しゃぶりついた。俺がねだったとおりだった。 「ああっ、……んあっ、あ……うぅん……」  俺は、喘いでる。 「はあ、いい、きもちい、それ、ぅうん」  ヴァルのくちびるが、きつく、吸い上げる。吸われて、乳首が引き延ばされる。痛い。痛い、のに。 「んぁぁ……! あ、あ、いい、も、っと……んはぁあっ!」  間抜けな音を立てて、くちびるが離れた。腫れ上がり、じくじくと痛むそこを、宥めるように舌が撫でる。 「ふ、ぁっ、あぁ……はぁっ……はう……んんぅ……!」  舌のざらつきが、膨れた乳頭を擦る。舌先が繰り返し往復する。乳首の堅さを確かめるように、前歯が噛む。  それだけだ。それだけのことなのに、俺は、ぐずぐずだ。脳が、ジャムかなにかになって、耳から融けて出そう。痺れてる。甘く。どろどろに。 「~~あ、あっ! はあんっ、ん、あぁっ……、ヴァルっ」  こんな身体の末端を、いじられるだけで、こんなに。 「……どうしてほしい?」 (ふざけんな。やめろ。ばか) 「んん……こっち……、右の、ちくびも……」 「右の乳首を? どうするんだ?」 「んん……ヴァルがそー言うの、こーふんする……、噛んでしゃぶって、いじめろ……」  欲しいところに、吐息が触れた。熱く湿るのがわかって、俺の身体は仰け反る。俺の思考だけ置いたまま、わくわくと期待する。息が早くなる。餌を前にした犬よりひどい。膨れていた乳首が、もっと勃起する。 「んは……はあっ……、ヴァル、はあ……っ、ヴァルっ……」 「お前が、ここまでこれが好いとは知らなかった」 「いい、いい、から、はやく、――――!」  俺は声もなく、身悶えた。 「~~~~ああぁ、あ、あう、うぁんっ!」  右にそれをする間、左の乳首は、ヴァルの指先がずっと捏ねた。爪でほじり、指の腹で撫で回し、摘まんで転がした。俺がそうしろとねだったからだ。 「……お前」 (なにも、言うな、見るな、馬鹿) 「あう、あんっ、あ、あ、もっと、見ろ」  当然だった。そうしてもらいたくて、妄想してたのを、してもらってるんだから。ばかばかしいくらいに飛び出た肉の粒を、望み通り愛撫してもらいながら、俺は甘ったるく鳴く。よがる。両腕はとっくに自由になっているのに。 「ん……あぁッ、ヴァル……ぅん……もっと、ぐりぐりしろ……はあっ、あぁっ……!」 (いやだ。いやだいやだ、こんなの)  くちびるを噛んだ。もがいて、首を横に振った。ヴァルの左手がやってきて、俺の顎を掴んだ。持ち上げられる。気道が開いて「あん」と惚けた声が出た。瞼が震えた。ヴァルが、そんなふうに俺を扱うことに対して。ばちばちと、なにか火薬が弾けるほど、俺を覗き込む瞳が鋭くて。食い込む指が熱い。痛い。――ゾクゾクする。 「言えよ、ルチア。また僕に言え」  なにが? また? 「さあ、言えよ」  わからない俺に、有無を言わせず、命令する。わからないと、思うのに、胸から喉を押し上げてくるものがあって、俺は……。 (――いやだ)  いやだいやだ。それは言いたくない。言いたくない。――なのに。くちびるが、開いていく。喉が空気を吸い込む。それを言うための、空気を。正しくその分だけ。そして。 「…………好き。ヴァル」  俺の舌は、少しの抵抗もなく、あっけなく、白状した。 「好き。大好きなんだ、お前が」  ヴァルの表情が、変わったかどうかは分からない。俺は視界がぼやけて、滲んでいるから。わからない。 「ヴァルに抱かれたい。俺を抱けよ」  あ、ああ。俺は、結局、そんなことを、ずっと。 「そうだ。だから何度も襲った。抱かせた。お前にセックスを教えたんだ。ヴァル」  俺の口は、ぼろぼろと勝手なことを言う。 「ずっと抱かれたかった。抱いて欲しくて……お前に抱いてもらえたら、どんなにいいだろうって。何度も、何度も何度も。思って。だって、好きなんだ。お前の肌に触れたい。体温を知りたい」  ヴァルは、俺を見下ろしている。まばたきもせずに見開いた目で、逸らさずに、じっと。いっそ嗤えばいいのに、嗤うこともなく。その喉が、息を呑んだのが見えた。 「なあ、だから、キスしろ」  瞳が、見開かれる。翠。滲んで、よけいに湖に見える。遠くに広がる湖。それが、ぼやけたまま近づいてくる。そうして影に暗くなって、鼻先に、息が触れた。  くちびるに、触れた。こわごわと、かすめるような。体温も混ざり合わない。へたくそなキス。 (俺のこと、好きでもないくせに) 「好きでなくたって良い……」  くちを抑えた腕を、ヴァルの手が掴んでシーツに縫い付けた。繋いだ手の甲に俺は爪を立てたが、両手とも離してくれなかった。 (やめろよ……) 「……好きなんだ。お前に抱かれたい。俺を抱けよ」  ああ、もう、ぐちゃぐちゃだ。ぜんぶ。ぐちゃぐちゃ。だいなしな気分。  その後は、ひどいありさまだった。好き放題だ。  なにもかも撒き散らしながら、俺は悶えよがった。あけすけだ。まるだしだった。 (嫌だ。いやだ、いやだ) 「きもちいい、きもちいい。ああ。すき。すき。ぜんぶいい。入れられてんのうれしい。抱かれるのがうれしい。すき。すき。ヴァルのでかくて長くて堅いちんぽに奥こすられんの好き。もっと、もっと。ああ!」 (……みるな。やめろ) 「あ、あ、あ、みて、ほしい。俺を、みてほしい、その目で、俺を、あ、あ、あ、ん、ん、名前、なまえ、呼べよ。お前の声で、おれを、俺の、あ、あ、あ! あう……イ、く……い、く……いくっ……んは、ぁぁああ。あ、あ、すき。ヴァル、あは、あああ。あ、あ、ああ」 (……やだ) 「ヴァル、ヴァる、ぅ、あ、あ、んん、きもちいい、まだ、もっとほしい。イかされたい。だかれてたい。だいて」  あーあ。ぜんぶ喉から出る。あは。ばかみたいだ。ばかみたい。ばかみたい。  ヴァルの太い亀頭で奥を捏ねてもらいながら、はしたなくよがっている。身体は従順で、ヴァルに合わせて繰り返し腰を媚びらせた。くちびるは、しつこくヴァルのくちびるにしゃぶりつくか、ぺらぺらとしゃべるか、喘ぐかで、ずっと忙しい。背骨が仰け反る。望みを叶えられた身体から、溢れる。絶頂する。 「あ、あ、あ、ヴァ、る、あ、あ、あ」  頭のなかだけ、置き去りだ。指を絡めたまま、離してくれない手の甲を、引っ掻く。強く。 (なあ、なんでだ) 「ずっと、好きだった」  ぜんぶ、本当のことだ。ヴァルの術は確かだ。 「初めて会った日からだ。あのときから、俺は……、あ、あっ」  ぼろぼろと、俺はこぼし続ける。残弾なんて無く。 「その目の色が、低い声が、長い指先が。俺を見ない横顔が……わからない、わからなくて、けど、ずっと……だから俺は……」  吐き出しながら、視界は不良だ。溺れている。土色の髪と、白い肌と、瞳のみどりと、暗い部屋がいっしょくただ。ぶわぶわと揺れ動き、あふれる。こぼれる。ヴァルは黙って俺を抱いている。荒く熱い呼吸だけが聞こえる。 「――――ヴァル……」  ぜんぶ、本当のことで。嘘はなくて。……だけど。 (じゃあ、お、俺は、どうしたかったんだ?)  俺はこの自分の欲を、こいつに向けた感情を、どうしたかったのだろう? 身体を求めて、抱かせて。何度も。同じ部屋に泊まらせて、あの式場からさらって、助手席に乗せて、それで? (嫌いだ。嫌い、嫌いだ。最低だ。お前なんか) 「……好き。それだけ」  それで、終いだ。もう、なにもなかった。なにも残っていない。ぜんぶ、言ってしまった。ぶちまけた。空っぽだ。それが、今の俺のすべてなのに。  ……たぶん、こんなふうに知られたくはなかった。こんなふうに暴かれたくなかったんだ。 (あは、はは。なんて……薄っぺらい) 「はあっ、ああっ、ヴァル……ぁ、る、ぅう……」  垂れる鼻水をうまく啜れない。苦しい。くるしい。  ……もっと、大事に扱いたかった。もっと、ちゃんと磨いて、鋭く、馴染んで、理由とか、意味とか、そういうものが、手応えある、重さになるまで。こんな不確かな形のままじゃなくて。わからない、じゃなくて、わかる、になるまで。だって、俺はさ、お前のことが。  こんな感情、はじめてだったから。大切にしたいと思ったから。 「ルチア……」 「好きなんだ。ヴァル」  腹の奥に弾けた。ヴァルが射精した。なかに出されるのは、きらい。きもちわるい。脈打つのも、精液も、きもちわるい。腹が痛い。 「あ……あ、ぁっ……」  けど、こいつに、ヴァルにそれをされるのは、別だった。ヴァルの精液。どくどくと、俺のなかに満ちる瞬間。ヴァルの欲は、いまぜんぶ俺のもので、俺に向けられた本能で。――「好き」を、浴びせられてる、気がして。 (気がする、だけなんだけど) 「……ぁ……あ……――うれしい……」  吐精し終えたヴァルが、俺から抜け出た。肩で息をしている。繋がれていた両手が、離れた。右手が俺の頬に伸びる。親指が、目尻のしたを撫でた。 「……ルチア、……僕は……」  その赤い頬を、俺は思いきり、殴った。    カウンターに座るなり、「酒」とだけ言った俺に、酒場の店主は何も言わなかった。黙って出てきたグラスを煽る。乱暴に置いたグラスに、追加が注がれた。 「……そういう気分、というやつなのでしょう」  ほどほどに、とだけ言って、あとは黙った。良い店だと思った。ひと息に煽って、喉と腹の底が熱くなった。気分は、少しも爽快にならない。  なにもかも最悪だった。気分も、指の痕が残る腕も、痛む喉も、だるい腹も、不快な尻のなかも。なにもかも。ぜんぶが。 「…………最低だ……」  喉に巻き付いていた感触は消えていた。それでもそれは本心なので、術が残っていようが同じことだった。  最低。  身体を覆うものだけ身につけて、出てきた。下着を履く暇はなかった。上着のしたは素肌だ。肌寒くて、けどそれももうどうでもよかった。そのうち酒の火照りで消えていく。  飲み干す。酒がぐるぐると回ってくるのが分かる。  ヴァルの行動も言葉も、意味が分からなかった。あんなことをするやつだったとは思わなかった。見損なった。あんなやつじゃないと思ってたのに。  そもそも。俺がこんなことをしなければ良かったんだ。身体を求めた。関係を持った。ヴァルが拒否しなかったから。あの日、連れ出さなければ、こんな惨めな思いをしなくて済んだ。因果応報。嗤えてきた口に酒を流し込む。惨め。 「…………」  あんなことをするやつではなかった。だから、そうさせたのは俺なんだろう。  そして、それでも俺は悦んだ。よがって耽った。(あばずれ。セックスできればなんでもいいのか?)……他になにを求める? 身体以外の、何を? (最低) 「……最低だ」  あの泉で、あるいは勇者の村で別れていたら、良かったんだろうか。見事に失恋し、無様に酔い潰れ、そしてそのまま、あいつの生活に戻るのが、あいつにとっては良かったのかも知れない。  ――じゃあ、あの日から今日までのことは? 俺はそれを全て否定しきれるのか? 「…………くそ……」  酒が胃と頭を灼いていく。苦しくて、深く息をする。 「……くそくらえだ」  何も考えたくないと思った。どうでもいい。未練がましい。嫌になる。ぜんぶ。 「――……さん。おにーさ~ん」 「カッコイイおにーさん。どうしたの?」 「やけ酒でしょ~? 傷心? なんかあった~?」  男がふたり。俺に声をかけてきた。 「俺たちで良ければはなし聞くよ?」 「お酒は楽しく飲まなくっちゃね〜」  この手のタイプは相手をしたことがなかった。軽薄で下品で好みじゃない。いつもならあしらった。けどもう疲れていた。つかれた。 「随分と酔ってるけど、大丈夫? お水も飲みなよ。顔真っ赤だよ」 「んん……? あれぇ? もしかして泣いてた? え~かわいそ~」 「ねえ、この後、俺たちとどう? 楽しいことして忘れようぜ」 「そうそう~人生楽しまないと~せっかく魔王がいなくなって平和になったんだからさ」 「勇者とその仲間に感謝しつつ、この幸せを存分に味わっていかないと」  肩に手が触れた。さっきまで、俺を押さえ込んでいた手のひらとは、なにもかも違った。 「ねえ~聞いてる?」 「……ケツ、痛えんだけど」  纏う嗤いに、嫌な湿度が混ざったのがわかった。肩に触れていた手のひらが、鎖骨に向かって滑った。 「なんだ、今夜はもうお手つき済か。てかソッチなんだ」 「俺はそれでもいいよ~。緩みきった中古品を締めてやるのもアリアリ~」 「やば、お前、整備工にでもなったらいいんじゃん?」  下卑た笑いだ。 「おい、あんたら……」  酒場の店主が咎める目付きをしたが、俺は手を振って遮った。どうでもいい気分だ。 「なんだ、乗り気? いいじゃん。俺上手いよ~」 「いや俺だろ俺」 「お前ナシなんじゃないのかよ」 「味見はノーカン」 「だってさ。ねえ宿行こう。この近くだからさ~」  腕を掴まれる。まあいいかと思った。今のこの気分を忘れられるなら、それで。  椅子から腰が浮いた時だった。ドアが開いた。開いたというより、打ち破るような音がした。 「……いらっ、しゃい……ませ……?」 「うわ何!? 何? 魔物!?」  黒くてデカい塊だ。こっちにのしのし近づいてくる。辺りが、痺れて震えている。 「痛ッ!? ……なんだこれ、いてえッ、空気痛ッ!? なに!? 魔力ってやつ!?」 「やっと見つけた。探した」 「ちょっと、あんた何……」 「――ルチアから手を離せ」  俺を引き揚げていた腕が離れた。俺は椅子に戻る。 「何……いででで! 力強ッ! ……はあ~? 何だよこいつ~!」 「すまなかった、本当に」  目の前に、何かがきた。俺を覗き込んでいる。どうやら黒いだけの生き物ではないようだった。黒の他には土色と、肌色と、それから、……みずうみ。 「…………」  なんだなんだ? おにーさんの連れ? え~デッカ、ごついな~何してるヒト? てかデッカそう。これは確実にデカいわ。ケツも痛くなるってね。あーっていうかアレってやつ? チジョウのもつれ? え~そういうの白けるわ~。 「よくわかんねーけど、この色気のままこんなふうにヤケ酒させちゃダメだって、危ないって」 「泣かせるのはいいけど、ベッドの中だけでほどほどに~。ちゃんと話し合いな~?」  「がんばれよ~」と、ヴァルの背をそれぞれ叩いている。なんなんだお前らは。カウンターの奥で、店主は重々しい顔で頷く。――その通り、という意味か。 「宿に戻ろう。……話をさせてほしい」  ヴァルの手が、俺の手首を掴んだ。しゅんかん、ヴァルははっとして、指を緩めた。口のなかで何かを呟く。青い痣になっていた、そいつの指の痕が肌から消えていく。 「……本当に、すまない。僕は最低だ」 「……うるせえよ」  その緩い手を振り払って、俺は財布をあさった。紙幣を掴んでカウンターに置いた。 「……騒がしくして悪かった。釣りは取っとけ」  話なんて、話すことなんて、正直なかった。それでも、このままここに長居するべきでないことは、酔った頭でも分かった。場所は移るべきだ。  俺は立ち上がろうと、した。――視界が、歪む。  どれもこれもぐにゃぐにゃで、カウンターに手を突く、が、それも力が、はいらない。のみすぎたか。世界が回ってる。頭が重くて、揺れる。  ……あ、やばいな。 「――――」  身構えた衝撃はいつまでもやってこなくて、代わりに、かたい。ぬくい。なんだこれ。思いながら、けど、すでにしっている気もした。浮遊感。浮いてる。瞬間転移魔術の時の感覚に似てるな……それよりも、重力を感じるけど……。堅い。熱い。 「おおー」  拍手だ。なんの拍手だ? 「平気か、ルチア」  声の方に向けて、閉じていた目を開けた。顔が近い。なんだ、この視界の角度。背中と膝の裏に熱を感じる。というか、これは。 「……下ろせ」 「危ないからこのまま行く」 「ああーそれがいいって。おにーさん結構飲んでたしさ」 「おだいじに~仲直りしなね~」 「……お気を付けて」  帰る流れだ。勝手にまとめんな。思うのに、頭のてっぺんからつま先怠くて、動けない。ヴァルは俺を抱きかかえたまま。酒場を出た。  宿に着くまでの間、「下ろせ」「下ろさない」のやり取りを何ターンかしたが、ヴァルは俺を抱えたままだった。諦めたのは俺だった。世界が二重にぶれていた。ぼやけるヴァルの神妙な顔と、その向こうに滲む星が散らばる。  俺は目を閉じた。落ちないよう、ヴァルに頭を押し付けながら。  宿に戻り、渡された水を飲みながら、おおよその話を聞いた。それらは、ぜんぶ本当のことだろうと思った。この男は嘘をつかない。言うに事欠くことは多いが、こいつの喉から、低い音でぼそぼそと出る言葉は、真実だ。……どこかの誰かとは違う。  ヴァルの話をまとめると、結局のところ、こうだ。 『僕にルチアが好きと言わないことが嫌だった』  食べ物や酒や、人や、その他いろんなものには「好き」を使うのに、自分に対してだけ、どうして無いのか。俺がヴァルの術を破った、あの時は、言ってくれたというのに、と。――なんだ、それは。 「言うも言わないも俺の勝手だろうが」 「ああ、そうだ……本当に、そうだ」  ベッドに伸びる俺の横で、ヴァルは背を丸くして頷いた。……あれに似ていると思う。あれ。叱られた犬。水桶を倒してびしょ濡れになって叱られた犬。……それよりもずっとたちが悪いが。 「……嫌なら、この町に僕を置いていってくれてもいい。嫌いになってくれてもいい。そのくらいのことをした」  頬が赤く腫れている。俺が殴った痕だ。治癒しないでそのままでいるから。 「――ハァ」  俺は、ため息が出た。その反対側を、もしくは同じ場所を、もう一度殴ってやりたかった。蹴ってやってもよかった。なにひとつ、分かっていないように思えた。あれほどくれてやったというのに。自分で暴いて確かめたくせに。  俺は、起き上がる。ぐらぐらする。頭も身体も重い。ヴァルの腕が気遣うように伸びてきたが、手のひらで制した  ヴァルは俺を見ている。窺っている。 「はあ……」  もう一度、息を吐き出した。なにもかも、空っぽになったという感じ。 「…………」  その空っぽの内側に、ひらひらと泳ぐものがある。木漏れ日の揺らぎ。波間の反射。何かの、きざし。綻び。  それに、俺は気づきたくない。気づいてしまったら、見いだしてしまうから。俺にとって、よいものを。都合のよいもの。けど。気づいてもいる。予感ではなく、これはもっと、確信めいている。火薬がくすぶる。火花。  すまなそうな、反省する犬のような男。自己嫌悪と罪悪感に満ちて、頬を腫らしている男。失望し、幻滅し、嫌いになれたらどれだけよかったかわからない、男。 「――で?」  存外に平坦な声が出たなと、自分でも思った。一度、ゆっくりと息を吸って、吐く。引き金を引くように慎重に。 「なんで聞きたい? なんで俺のそれを、お前は聞きたいんだ?」 「…………え」  目は、見開いた後に、困惑し、翳った。  ヴァルは寡黙だが、尋ねられたことには必ず答える。真面目だからだ。くそ真面目だから。翠の目は、一度揺らいで、逸れる。それからまた、俺に戻り、開いたくちびるが、何かを言いかけて、閉じた。「わ」の形だった。  恐らく――わからない、だったそれが、組み直される。探している。居心地悪そうに、その広い身体が揺れた。睫が、湖面に翳を落とした。 「……はじめてなんだ」  その下の頬が、わずかに色を変える。 「そんな言葉を、ここまでの練度の感情を向けられたのは……」  硝煙が、揺らめいている。それは俺の感覚であって、実際にそんなものは目前になくて、けれども俺には、確かに香ってみえている。俺は、知らずに撃ち込んでいたそれをみた。目の前の男に、食い込み銃創となっているものをみた。 「――それで?」 「……え?」 「つまり、どういう気分なんだ? お前は」  俺はそれを、言わせたい。こいつのくちから。誤魔化しというものができない、こいつのくちから。確かなものにしたい。確かめたい。明らかにさせたい。こいつがいま、持っているものを。その内側にある僅かな確かな弾痕を。  ヴァルの瞳が、揺らめく。探している。俺に示すために。その内側を。  俺は、最高にぞくぞくする。まるでイく直前みたいに、背骨から脳天まで痺れる。 「っ……、表現として、適切かどうか、わからない……。けど……」  へたくそだなと思った。へたくそ。へたくそ。俺と同じ、それ以上にへたくそな、放らせずに握らせた薬莢。 「……うれしかったんだ」  俺は、笑わなかった。笑ってやろうと思っていたのに、笑えなかった。さぞかし爽快な気分になると思っていたのに、違った。さっきまでの痺れが、沈んでいく。 「……だから、もっと言って欲しかったんだと、思う」  見えていた。綻びが。標的が。ありありと。鼻白むほどに。そのことに、この男自身は気づいていない。こんなにも、無防備に晒したのに。そして、それは。 「――――」  わからない。と思った。こいつも、それから、俺自身も。それで、哀しいと思った。どうしてだろうな。こいつにとってこれは、どうなんだろう。よかったんだろうか? ただひたむきに女戦士を思っていたこいつが変わる。――気の毒だった。  どうしてなんだろうな。いいんだろうか。……けどすぐに、それらの憐れみも逡巡も押し流される。そんなもの、五月蝿い心音がかき消していく。  苦しい。直視するには眩しすぎるそれが、俺に満ちていって、――苦しい。  なあ、それは、なぜ? もっと言って欲しいのはなぜ? その理由を、言わせる前に俺は、我慢ができない。 「……なあ、捨てるなよそれを」  切り離すなよ、お前から。 「――――え?」 「それはさせないと、許さないと決めてるんだ、俺は」 「何の、話だ?」 「お前の話だよ、ヴァル」  目の前の男が示した薬莢を、掴む。確かな質量のあるそれを装填する。  うぬぼれるなと、頭の隅で嗤う俺がいる。けど俺はもう、この感情を知っている。嫌という程に。そして、それがこんなに煌めいているのは、いまが初めて。  頭の奥に鳴り響く。放つなら、今だと。今なら届く。綻び。哀しい。かなしい。愛しい。  手に入れたいよ、これを。 「――ああ、分かったよ」  言って、俺は果てなく湧き上がる衝動を抑えながら、狙いを定める。傷の場所を狙って。塞がらないうちに。揺らいでいる湖に、向けて。  真っ直ぐに。叶えてやる。――言ってやる。お望み通りに。何ひとつ気づいていない、かなしい愛しい男に向けて。  手に入れたいよ、これを。お前を。 「お前が、大好きだよ、ヴァル」  目前のヴァルの頬が、鮮やかな赤に染まった。

ともだちにシェアしよう!