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第5話 同じ部屋で、次の提案を

松川温泉街OSの実証開始から、半年が経った。 朝のキッチンに、コーヒーの香りが広がっている。 高柳は二人分のマグを並べ、テーブルの端に今日の資料を置いた。表紙には、松川健康滞在プラン視察行程とある。 寝室の扉が開く。 神合が、まだ少し眠そうな顔で出てきた。眼鏡はまだかけていない。髪も少しだけ乱れている。 高柳はマグを一つ差し出した。 「起きたか」 「起きたよ。君のコーヒーの匂いで」 「便利な目覚ましだな」 「かなり優秀だよ。毎朝、家にいてほしいくらい」 「もういるだろ」 神合はマグを受け取り、少し笑った。 「そうだった」 同じ部屋で暮らすようになってから、朝の流れは自然に決まった。 高柳が先に起きて、コーヒーを淹れる。 神合が起きてきて、半分眠った顔のまま一口飲む。 そこから眼鏡をかけ、タブレットを開き、いつもの神合に戻る。 今日は戻るのが少し遅かった。 高柳はその顔を眺める。 「まだ眠そうだな」 「昨日、君が遅くまで松川の資料を読んでいたからだよ」 「それでお前も起きてただろ」 「君が真剣な顔をしていると、つい見てしまう」 「資料を見ろ」 「資料より君の顔の方が、朝は効く」 高柳は一瞬黙った。 「朝から飛ばすな」 「視察前の景気づけだよ」 「仕事前だ」 「分かってる。今日の視察、旅程表は送ってある」 「見た」 「本当に?」 「川音荘、二泊三日。健康滞在プランの体験視察。川沿い散歩、提携食堂、土産物店、客室風呂、健康相談。簡易健診の説明会。夜は空白」 神合は、マグを持ったまま楽しそうに目を細めた。 「ちゃんと見てるね」 「空白が一番長かった」 「そこを最重要項目として読んだわけだ」 「お前がそう読ませるように作ったんだろ」 「その通りだよ」 神合は立ち上がり、高柳の前へ来た。 高柳のネクタイへ手を伸ばし、結び目を整える。指先が喉元に触れる。 高柳はその手首を軽くつかんだ。 「神合」 「何?」 「朝から煽るな」 「整えているだけだよ」 「お前が触ると、仕事前でも違う意味になる」 「それは、君が僕の触り方をよく覚えているからだね」 「お前な」 神合は笑った。 「続きは松川で」 高柳は、神合の手首を離した。 「今夜だな」 「うん。今夜」 **** 松川温泉街の駅前には、新しい案内板が立っていた。 『松川健康滞在コース』 川沿い散歩。 足湯。 提携食堂。 特産品定期便。 健康相談。 簡易健診。 参加旅館一覧。 古い土産物屋の看板も、剥がれかけた観光ポスターも残っている。 その横に、新しい手書きの札や案内地図が増えていた。 高柳は駅前で足を止めた。 「悪くねえな」 神合が隣でタブレットを開く。 「滞在日数は平均で伸びている。客単価も上がった。特産品の定期便は継続率がいい。健康相談の予約も増えている。健診付き滞在は、法人からの問い合わせが想定より早い」 「数字より、店の顔が変わってる」 神合はタブレットから目を上げた。 「そういうところを先に見る君、かなり好きだよ」 「道で言うな」 「君に聞こえる声で言った」 「だからだ」 神合は涼しい顔で笑う。 仕事用のスーツ。 整った髪。 眼鏡の奥の、いつもの目。 それでも、同じ部屋を出てきた男だ。 高柳が淹れたコーヒーを飲み、高柳のネクタイを直し、今夜の空白を旅程表に残した男。 そう思うと、仕事の顔まで少し違って見える。 商店街の奥から、森田航が手を振ってきた。 「高柳さん! 神合さん! お待ちしてました!」 高柳は資料の束を持ち直した。 神合はタブレットを閉じ、森田へ穏やかに笑う。 「森田さん。今日はよろしくお願いします」 「現場を見せてください」 高柳が言うと、森田は嬉しそうに頷いた。 「はい。まず川沿いの散歩コースからです。そのあと、提携食堂、土産物店、健康相談の受付、川音荘の順でご案内します。健診付き滞在の説明資料も、旅館側で見ていただけます」 森田の声は明るかった。 街が少しずつ動いていることを、自分の言葉で話している声だった。 高柳は、その顔を見て胸の奥が少し温かくなった。 神合が小声で言う。 「嬉しそうだね」 「悪いか」 「いい顔だよ」 「仕事中だぞ」 「仕事の評価だよ」 「嘘つけ」 森田が振り返る。 「お二人、本当に息が合っていますよね。前から思ってましたけど、会話のテンポがすごいです」 神合が先に笑った。 「役割分担がはっきりしているだけです」 高柳も続ける。 「こいつが仕組みに寄りすぎたら、俺が現場へ戻す。俺が荒くなりすぎたら、こいつが整える。それだけです」 「それがすごいんですよ。うちでも、そういう動きができる人を増やしたいです」 森田は、本気でそう言っていた。 高柳は短く返す。 「増やしましょう」 神合も頷く。 「実証の次は、人を育てる段階です。森田さんが中心に入ると、かなり動かしやすい」 森田の顔がさらに明るくなった。 「やります」 高柳は、神合を横目で見た。 かゆいところに手が届く。 森田の熱を拾った瞬間、神合が仕組みの中へ置いた。 その呼吸は、もう会議室だけのものではない。 家でも、旅先でも、仕事の現場でも、自然に出る。 **** 川沿いの散歩道には、朝の滞在客向けに小さな案内札が立っていた。 足湯まで徒歩五分。 朝食後のゆっくり散歩に。 坂道注意。 雨の日は旅館フロントへ相談。 高柳は案内札を見て、頷いた。 「こういうのでいい。気取った文章より、客が動きやすい」 神合がメモを取る。 「次は、季節ごとのおすすめを入れたいね。春の川沿い、夏の朝、秋の土産物、冬の湯上がり。定期便の案内ともつなげられる」 「食堂の昼メニューも見たい」 「予約導線と重ねよう。混雑する時間をずらせば、店側の負担も減る」 「数字に寄せすぎるなよ」 「裏側で見る。客には楽しい案内だけを出す」 「ならいい」 森田は二人のやりとりを聞きながら、何度も頷いている。 「やっぱり、すぐ改善案が出ますね」 「動いているからです」 神合が答えた。 高柳も続ける。 「止まってるものは直しようがない。動いていれば、次に触る場所が見える」 提携食堂では、滞在客向けの昼定食が出ていた。 塩分を控えた定食。 地元野菜を多めにした定食。 湯上がりの夜に出す小鉢セット。 店主は、以前より声に張りがあった。 「健診付きのお客さんは、食事にも関心があるみたいで。宿から紹介してもらえると、うちにも人が流れてくるんです」 高柳は定食の札を見た。 「いいな。健診だけで終わらせず、食事まで街で受ける」 神合がすぐにメモを足す。 「健診結果に合わせた食事提案も作れる。細かく医療に寄せすぎず、松川で体を整える案内として出せばいい」 「医者の真似はするなよ」 「もちろん。提携医療機関の領域は守る。旅館と街は、滞在体験を整える」 「ならいい」 健康相談の受付は、川音荘へ向かう途中の小さな案内所に置かれていた。 予約表には、簡易健診の説明会、健康相談、滞在後フォローの日程が並んでいる。 高柳は、それを見て少しだけ目を細めた。 「形になってるな」 神合は穏やかに頷いた。 「春に健診、夏にフォロー、秋に再チェック、冬に湯治。松川に戻る理由が一年の中に入ってきた」 「お前の導線だな」 「君の入口が強かったからだよ」 「さらっと持ち上げるな」 「本当だからね」 石段のある道に差しかかった時、神合が足元を見た。 ほんの一瞬だった。 高柳は自然に手を出した。 神合はその手を見る。 「高柳。視察中だよ」 「転ばれたら困る」 「それだけ?」 森田は少し先を歩いている。 人目が切れている。 高柳は低く言った。 「手を繋ぎたかった」 神合は、一瞬だけ黙った。 それから何も言わずに高柳の手を取った。 指を絡める。 石段を上がるだけの短い距離だった。 けれど、高柳の胸は満たされた。 「君、最近そういうことを隠さなくなったね」 「お前相手に隠す方が面倒だ」 「かなり良い傾向だよ」 「また検証か」 「恋人としての感想だよ」 神合が手を離す直前、高柳は少しだけ指に力を入れた。 「森田、さっきからお前に説明しすぎだな」 神合が横目で見る。 「彼は担当者として熱心なだけだよ」 「分かってる。だから余計に腹が立つ」 「仕事中に嫉妬するのは効率が悪い」 「効率で止まるなら苦労しねえ」 神合は、口元を押さえて笑った。 「高柳。そういう独占欲、かなり好きだよ」 「声が大きい」 「聞かせたからね」 「お前な」 森田が振り返ったため、二人は同時に手を離した。 「次、川音荘です!」 高柳は資料を持ち直す。 神合はタブレットを開き、仕事の声で答えた。 「お願いします」 **** 川音荘は、静かに灯りをともしていた。 玄関には、新しい小さな看板が出ている。 『松川健康滞在プラン 参加旅館』 高柳は看板の前で足を止めた。 「始まってるな」 神合も隣で頷く。 「ここから広げられる」 「広げるぞ」 「もちろん」 女将が出迎え、森田が視察の説明を引き継ぐ。 客室。 食事。 滞在者向けの案内。 健康相談の予約表。 地元食堂との連携メモ。 土産物店の定期便リスト。 健診付き滞在の説明資料。 どれも、紙の上だけの案ではなくなっていた。 最後に案内された部屋を見て、高柳は神合を見た。 川沿いの和室。 低い座卓。 奥には客室風呂。 窓の外から川の音。 神合は涼しい顔をしている。 「この部屋、空けてもらった」 「職権乱用か」 「視察効率だよ」 「嘘つけ」 神合は、少しだけ笑った。 「うん。君とここへ戻りたかった」 高柳は黙った。 この男は、理屈と仕組みで何重にも包んだあと、肝心なところでまっすぐ来る。 女将と森田が去る。 襖が閉まる。 二人きりになった。 川の音だけが残る。 高柳は神合へ近づいた。 「今のは効いた」 「どれ?」 「ここへ戻りたかったってやつだ」 「本当だからね」 「知ってる」 高柳は神合の頬に触れた。 外では仕事の声で話していた神合が、その手の中で少しだけ目を細める。 同じ部屋へ帰って、同じベッドで眠る。 毎朝、同じテーブルでコーヒーを飲む。 それでも、この部屋には特別な熱が残っていた。 高柳は、神合の髪に指を通した。 「外であんまり笑うな」 「仕事相手に?」 「分かってる。分かってても、俺だけの顔を知ってると欲が出る」 神合の表情が、柔らかく崩れた。 「じゃあ、今だけ見てればいいだろ」 「そうする」 高柳は、神合に口づけた。 ゆっくりだった。 甘い。 深くて、逃げ場がない。 神合の手が、高柳のジャケットをつかむ。 高柳は神合の腰を抱き寄せる。 窓の外で川が流れる。 部屋の中で、二人の呼吸だけが近くなる。 神合が唇を離し、小さく笑った。 「高柳」 「何だ」 「この部屋、恋人向けにも使えるね」 高柳は動きを止めた。 神合も止まった。 二人は、至近距離で見つめ合う。 高柳が言った。 「恋人向けの長期滞在、いけるな」 神合も同時に言った。 「カップル向け滞在プラン、作れるね」 一拍。 それから、二人は同時に笑った。 「ほんと、俺たち商社マンだな」 「キスの途中で事業案を出す恋人、なかなかいないよ」 「お前が先に言った」 「君も同時だった」 「この部屋と川音と客室風呂があって、恋人同士で泊まったら、思いつくだろ」 「同感だよ。二人の関係を育てる温泉街、という切り口はかなり強い」 神合は、もう仕事の目になっていた。 だが、高柳の腰には手を回したままだ。 高柳も、神合を抱いたまま続ける。 「恋人同士が三日、五日と滞在するなら、宿だけじゃ終わらねえ。飯、散歩、土産、記念日、写真。街に金が落ちる」 「それに、連泊で宿を変えられると強いね」 高柳の目が動いた。 「宿を変える?」 「川沿いの部屋、山側の露天、料理自慢の宿、客室風呂付きの部屋。提携した宿ごとに、一泊ずつ部屋を変えられる。荷物は宿側で自動移動。二人は手ぶらで街を歩いて、次の宿へ向かう」 高柳の胸の奥で、企画が形になる音がした。 「飽きねえな。部屋が変わるだけで、恋人同士の空気も変わる」 「初日は川音荘で静かに過ごす。次は料理自慢の宿で記念日。最後は山側の露天で朝を迎える。滞在そのものが、二人の関係を進める流れになる」 「街を歩かせられる。荷物を運ばなくていいなら、客は食堂や土産物屋に寄りやすい」 「宿同士も競合するだけじゃなく、連泊コースの中で役割を持てる」 「いいな。温泉街全体で恋人をもてなす」 「記念日会員にして、翌年の案内を出せる」 「地元食堂にペアメニューを作らせる」 「特産品ギフトを、二人の記念日に合わせて送れる」 「写真を撮れる場所もいるな」 「川沿い散歩、足湯、夜の灯り。十分作れる」 高柳は、さらに続けた。 「健診付き滞在の恋人版もいけるな。二人で体を見直して、湯に浸かって、飯を整える」 神合が目を細めた。 「ペア健康チェック。記念日だけじゃなく、年に一度、二人で体を整える旅行にできる」 「甘いだけじゃ終わらない」 「将来まで含めて、二人の関係を支える滞在にできる」 言葉が重なる。 視察の続きで、恋人としての体感でもあった。 高柳は笑った。 「恋人の滞在型で付加価値か」 神合も笑う。 「君の現場体験と、僕の再訪導線がまた噛み合ったね」 「腹立つほどな」 「嬉しいくせに」 「まあな」 神合は、高柳の首へ腕を回した。 「この企画、北辰で受けるよ」 高柳の目が細くなる。 「何を言ってる。東和だろ」 「会員化と再訪導線、記念日会員、宿替え連泊の予約設計が肝なんだから、北辰向きだよ」 「現場体験が核だ。宿、食堂、土産、散歩道、荷物移動。うちが押さえる」 「継続設計がなければ一回で終わる。ウチだね」 「バカな。うちだ」 「高柳、恋人相手でも容赦ないね」 「仕事だからな」 「じゃあ、仕事じゃない方で黙らせる」 神合が高柳のネクタイを引いた。 朝、同じ部屋で整えたネクタイだ。 高柳は、そのまま引かれた。 けれど、黙らされるだけで終わる男ではない。 高柳は神合の腰を抱き、布団へ押し倒した。 神合が笑う。 「乱暴だな」 「仕事じゃない方だろ」 「でも、まだ企画の帰属が決まってない」 「この提案は、共同案件だ」 神合は目を細めた。 「都合よくまとめたね」 「松川が食える形になるなら、その方がいい」 「またその言い方」 「嫌いじゃねえだろ」 「かなり好きだよ」 神合は、高柳の首へ腕を回した。 「じゃあ、今夜も共同作業だね」 高柳は笑った。 「言い方が悪い」 「でも、合ってる」 「合ってるな」 返事の代わりに、高柳は神合へ口づけた。 さっきより深いキスだった。 神合は笑いながら受け止め、すぐに応えた。高柳のネクタイを離さず、むしろもっと近くへ引き寄せる。 松川の新しい提案は、まだ資料になっていない。 恋人向け滞在型プラン。 宿替え連泊。 荷物自動移動。 記念日会員。 ペア健康チェック。 客室風呂。 川沿いの散歩。 二人で戻ってくる温泉街。 けれど二人の間では、もう採用が決まっていた。 高柳は唇を離し、神合の額に自分の額を寄せた。 「神合」 「何?」 「次の提案書、今夜作るぞ」 「今夜?」 「まずは体験からだろ」 神合は、一瞬だけ黙った。 それから、声を立てて笑った。 「本当に君は、現場主義だね」 「嫌いじゃねえだろ」 「うん。かなり好きだよ」 窓の外で、川の音が続いている。 松川温泉街の灯りが、夜の中で小さく揺れている。 同じ部屋で。 同じ布団で。 次の提案を考えながら。 二人はもう一度、長く口づけた。 ** 一泊で終わる関係じゃ、もったいない 〜湯けむり相部屋で、仕事も身体も合いすぎました〜 (完)

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