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第4話 一泊で終わる関係じゃ、もったいない
川音荘は、松川温泉街の奥にあった。
坂道を上がった先、細い川沿いに、低い木造の旅館が灯りをともしている。玄関先の行灯には、ただ「川音荘」と書かれていた。
松川グランドホテルの大きなロビーとは空気が違う。
声が低くなる。
足音も、自然と静かになる。
川の音が、二人の間に入り込んでくる。
高柳は、神合の横顔を見た。
涼しい顔をしている。
けれど、タクシーの中からずっと、神合の指はスマホの端を撫でていた。
高柳はそれを見ていた。
神合も、高柳が見ていることに気づいていた。
チェックインは短かった。
神合が予約名を告げる。
女将が鍵を渡す。
夕食は軽く部屋に用意済み。客室風呂付き。朝食時間も指定済み。
段取りがよすぎる。
だが、高柳はからかわなかった。
今は、その余裕すら惜しい。
部屋の扉が閉まった。
畳。
低い座卓。
窓の外から聞こえる川の音。
奥には客室風呂へ続く扉。
そして、部屋の中央には、一組の布団が敷かれていた。
高柳は布団を見た。
神合も見た。
一瞬、目が合う。
それだけで、部屋の空気が変わった。
神合は鞄を置き、上着を脱いだ。ネクタイを緩める手つきが、いつもの丁寧さを少しだけ失っている。
「高柳」
「何だ」
「我慢できなかった」
高柳の胸の奥で、熱が跳ねた。
神合は笑っていなかった。
プレゼンで会場を動かした顔でも、相手を試す顔でもない。
ずっと欲しいものを目の前にして、もう隠す気をなくした顔だった。
「君が僕の言葉を拾うたび、身体まで熱くなった」
高柳は一歩近づいた。
「俺もだ。お前が俺の現場を遠くまで運ぶたび、今夜のことを考えた」
神合の喉が、小さく動いた。
「健診の導線まで、僕の仕組みに入ってきた」
「お前が逃がさないって言ったからだろ」
「仕事の話だったのに」
「俺も、仕事の話として聞いた」
「それで?」
「身体が勝手に違う方まで覚えた」
神合の目が、はっきり揺れた。
「高柳」
「何だ」
「早く」
それで十分だった。
高柳は神合の手首を取り、引き寄せた。
神合はすぐに来た。
抵抗しない。
むしろ自分から胸へ飛び込むように距離を詰める。
口づける。
最初から深い。
神合の手が高柳のシャツをつかむ。高柳の指が神合の襟元を開く。ネクタイが畳へ落ち、上着が座卓の横へ滑る。
川の音が遠くなる。
布団へ倒れ込むまで、ほとんど言葉はなかった。
神合は高柳の首へ腕を回し、逃がさないように引き寄せる。
高柳はその腰を抱き、畳から布団へ沈めた。
「神合」
「何……っ」
「ずっと欲しかった」
神合の目が揺れた。
「僕も……君が欲しかった」
その言葉が、高柳の中で熱になる。
布団が沈む。
神合の指が高柳の背に回る。
高柳が深く繋がると、神合の喉から短い声がこぼれた。
「あっ……♡」
神合の身体が震える。
けれど、逃げない。
高柳の背へ腕を回し、もっと近くへ引き寄せる。高柳がわずかに息を整えようとしただけで、神合は自分から腰を寄せた。
「……これだ」
神合が、吐息の中で言った。
「これが、欲しかった」
高柳は神合の額に唇を寄せた。
「俺もだ。プレゼン中から、ずっとこれを思い出してた」
「仕事中に?」
「お前もだろ」
「うん……ずっと」
素直だった。
神合は隠さない。
指先も、声も、腰の動きも、全部が欲しいと告げている。
高柳が腰を引き寄せるたび、神合の身体が布団の上で揺れる。深く届くたびに、神合の声が短く跳ねる。
「あっ♡」
「神合」
「待っ……いや、待たなくて、いい……っ」
「どっちだ」
「分かんない……っ、でも、もっと……っ♡」
高柳は低く息を吐いた。
たまらなかった。
この男は、会議室では涼しい顔で場を支配する。
資料の上では、こちらの足りないところへ迷わず入ってくる。
健診を入口にした高柳の案を、一年の導線へ変えてみせた。
そして今、高柳の腕の中で、自分から求めている。
欲しいから、求める。
その真っ直ぐさに、高柳の理性が焼ける。
高柳が奥へ届くたび、神合の理屈がほどけていく。擦れる熱に耐えきれず、神合の指が高柳の背へ食い込む。突き上げられるたび、言葉が短くなる。
「やばい……っ」
「何が」
「昨日より、ずっと……っ♡」
「言え」
「想像より、だめだ……っ」
「逃げるか」
「逃げない……っ、逃げたくない……っ♡」
高柳の胸の奥が、熱で満ちた。
「最高かよ」
その言葉は、勝手に漏れた。
神合は笑おうとした。
けれど、次の瞬間、高柳の動きに声を奪われた。
「あっ♡ 高柳……っ」
「神合」
「ん……っ、そこ、深……っ♡」
「そんな声、他の奴に聞かせるな」
神合の目が揺れた。
「仕事相手にも嫉妬するの?」
「する。かなり腹が立ってる」
「面倒な男だね……っ」
「お前がそうさせた」
「僕だって……君が他の相手に“嫌いじゃない”って言うの、腹が立つ……っ♡」
高柳の動きが、一瞬だけ止まった。
神合が嫉妬を言葉にした。
その事実が、高柳を強く煽った。
「神合」
「止まらないで……っ」
「今の、もう一回言え」
「嫌だよ……君が調子に乗る……っ♡」
「もう乗ってる」
「最悪……っ」
「好きなんだろ」
神合は息を呑んだ。
そして、高柳の首に腕を回した。
「好き、だから……困ってるんだよ……っ♡」
言った。
神合が、言った。
高柳は深く息を吐いた。
「くそ」
「何……っ」
「俺もだ」
短い言葉だった。
けれど、神合には十分だった。
高柳の声は乱れていた。
それでも、まっすぐだった。
神合の胸が、どうしようもなく熱くなる。
「高柳……っ」
「もう、お前なしじゃ無理だな」
神合の目が、さらに揺れた。
「仕事でも、こういう時でも、他の奴じゃ足りねえ」
高柳がそう言いながら深く突き上げると、神合の声が弾けた。
「あっ♡」
「神合」
「僕も……っ」
「何だ」
「君じゃないと、もう足りない……っ」
神合は、もう余裕の笑みを作れなかった。
言葉を整える余裕もない。
でも、それでよかった。
「高柳がいい……っ♡」
高柳は、神合を強く抱き込んだ。
布団が乱れる。
吐息が重なる。
川の音が、また遠くなる。
勝ちたい。
負けたくない。
譲れない。
その熱は残っている。
けれど、今はそれだけでは足りない。
神合が求める。
高柳が応える。
高柳が踏み込むたび、神合はさらに抱き返す。
繋がったまま、互いの熱を奪い合う。
甘い。
熱い。
どうしようもなく、欲しい。
「お前、ほんと……こっちに来るな」
「来てほしい、くせに……っ」
「来てほしいから困ってるんだろ」
「高柳……っ♡」
神合の声が短くなる。
最初にあった言葉は、もうほとんど残っていない。
理屈も、効率も、構造もほどける。
残るのは、高柳の名前と、欲しいという感情だけだった。
「あっ♡」
「むり……っ」
「高柳……っ」
「もっと……っ♡」
「だめ、でも……っ」
高柳も、余裕ではいられなかった。
神合が求める声を出すたび、神合が自分から腰を寄せるたび、身体の奥から煽られる。
「煽るな」
「煽って、ない……っ♡」
「嘘つけ」
「ほんと……もう、分かんない……っ」
「神合」
「なに……っ」
「俺のものにしてぇ」
神合の呼吸が止まった。
高柳の声は低かった。
欲に濡れているのに、妙にまっすぐだった。
「仕事でも、夜でも、俺の隣にいろ」
神合の胸が、音を立てて崩れた。
「いいよ……っ」
「分かって言ってるな」
「分かってる……っ。でも、君のものになるだけじゃ足りない」
神合は高柳の背に爪を立てた。
「僕も、君を離さない……っ♡」
その言葉で、高柳はもう保たなかった。
神合も同じだった。
突き上げられるたび、奥へ届くたび、神合の声が途切れる。身体が震える。高柳へしがみつく指に力が入る。
「だめ……っ♡」
「神合」
「むり……っ」
「俺も、無理だな」
「高柳……っ」
「ああ」
「いく……っ♡」
最後の一線が近づく。
神合の背がしなる。
高柳が抱き込む。
二人の熱が、同じ場所へ向かっていく。
「高柳……っ♡」
神合が、しがみついたまま高柳の名前を呼んだ。
高柳は、その声ごと抱きしめた。
神合の声が短く弾ける。
「あっ……♡」
そこから先は、言葉にならなかった。
ただ、互いの呼吸だけが残った。
****
しばらく、二人は布団の上で動かなかった。
川の音が戻ってくる。
窓の外で、夜風が小さく鳴っている。
神合は、高柳の腕の中で息を整えていた。
高柳も黙っていた。
神合が予約した部屋へ来た。
高柳も当然のように来た。
布団で、本音を言った。
名前を呼び、欲しいと言い、隣にいろと言った。
それだけで、もう十分だった。
神合が、ぽつりと言った。
「効率とか、どうでもよかった」
高柳は少し笑った。
「お前がそれを言うのか」
「うん。君が欲しかった」
高柳の腕に、少し力が入る。
「俺もだ」
「高柳」
「何だ」
「風呂、行ける?」
「俺が聞く側じゃねえのか」
「君、そういう時は聞くより連れていく男だろ」
「よく分かってるな」
「かなり分かった」
神合はそう言って、高柳の手を取った。
****
客室風呂は、木の香りがした。
窓を少し開けると、夜空が見えた。星は多くないが、山の黒い輪郭と、湯けむりの白さが静かに浮かんでいる。
遠くで川の音が聞こえる。
二人は湯に肩まで沈んだ。
熱い湯が、さっきまでとは違う種類の熱で身体を包む。
神合は窓の外を見上げた。
「明日から、君とただのライバルみたいな顔で会議に出るのは難しいな」
高柳は隣で笑った。
「難しいだろうな。さっきから、そういう顔をしてる」
「何、その言い方。僕が君に落ちたみたいじゃないか」
「違うのか」
「違わないから困ってるんだよ」
神合は湯気の向こうで、少しだけ目を細めた。
「同棲するなら、場所は考えてある」
高柳は、さすがに声を出して笑った。
「早すぎるだろ。今、付き合う話を飛ばしたぞ」
「君となら、付き合うところで止まる方が効率悪い。君の会社と僕の会社、どちらにも通える。駅から徒歩七分以内。乗り換えは一回まで。生活導線が悪い恋愛は長続きしないからね」
「さっき、効率はどうでもいいって言ってなかったか」
「恋愛そのものはね。生活設計は別だよ」
「お前、本当に抜け目ないな」
「君なら、そこで渋い顔をしながらも乗ってくると思った」
「いや。かなり好きだ」
神合は少し黙った。
さっき布団で聞いた「好き」とは違う。
湯の中で、夜空を見ながら言われるそれは、思ったよりまっすぐ胸に入ってきた。
「高柳。君、そういう直球を急に投げるのはずるいよ」
「お前が同棲まで投げてくるからだろ」
「僕は現実的な設計をしているだけだ」
「なら、俺も現実的な判断をしてやる」
「何?」
高柳は湯に肩を沈めたまま、神合を見た。
「俺はいっそ、結婚まで考えてるぜ」
神合は、一瞬だけ完全に黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「……それは負けたな。僕の設計より、君の決断の方が早かった」
「負けっぱなしは嫌だろ」
「もちろん。巻き返すよ」
「どうやって」
「まずは、今夜の残り時間を全部もらう」
高柳は笑った。
「欲張りだな」
「君がそういう僕を好きだと言った」
「言ったな」
「じゃあ、撤回させない」
「撤回する気はねえよ」
神合は、高柳の肩に額を寄せた。
湯気の中で、二人の距離が近づく。
「仕事でも夜でも負ける気はないけど、今日は負けておくよ」
「賢明だな」
「むかつく」
「好きだろ」
「……好きだよ」
その言葉は、今度は静かだった。
布団の中で剥き出しになった声とは違う。
湯の中で、夜空の下で、ちゃんと言葉にした声だった。
高柳は、神合の顎に指を添えた。
「俺もだ」
「短いね」
「長く言わせるな。今夜はもう十分、身体で言っただろ」
「その言い方、かなり君らしい」
「嫌いか」
「好きだよ」
高柳は笑って、湯気の向こうで神合に口づけた。
柔らかいキスだった。
勝負の続きのようで、告白の返事のようで、これからの約束のようだった。
松川温泉街の夜は、静かに更けていく。
外では川の音が続いている。
古い旅館の灯りが、窓の向こうでゆらめいている。
高柳は、神合の濡れた髪を軽くかき上げた。
「神合」
「何?」
「同棲案、あとで見せろ」
神合は楽しそうに笑った。
「いいよ。君の結婚案も、構造として検証してあげる」
「検証するまでもねえ。採用だ」
「そういうところ、本当に強引だね」
「嫌いじゃねえだろ」
「うん。かなり好きだよ」
高柳はもう一度、神合に口づけた。
今度は少しだけ長く。
湯気と夜空の下で、二人は笑いながら、同じ未来へ踏み込んでいった。
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