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第3話 かゆいところに手が届くライバル

松川グランドホテルの大会議室には、朝から静かな熱がこもっていた。 正面には大型の液晶モニタ。 左右には、松川町と松川温泉旅館組合の関係者が並んでいる。 町長の宮下正臣。 旅館組合長の小林修三。 若手旅館後継者の森田航。 役場の担当者、商店街の代表、地元金融機関の職員。 観光地の再生という言葉は、どこでも聞く。 だが、この会場にいる人間にとって、それは綺麗な言葉で済む話ではなかった。 宿の稼働率。 従業員の雇用。 商店街の売上。 若い人間が残る理由。 全部、現実の話だった。 高柳は、手元の資料を閉じた。 昨夜、客室のデスクで神合と並べたPCとタブレットの光が、まだ目の奥に残っている。 松川温泉街OS。 二人だけで打ち込んだ仮タイトル。 その一行は、まだ高柳と神合の画面の中にだけある。 けれど、今日の会場はそこへ向かって動いている。 隣では、神合が涼しい顔でタブレットを確認していた。 眼鏡。 整った髪。 濃紺のスーツ。 昨夜、高柳の腕の中で声を乱した男と、同じ顔をしている。 高柳は目を逸らした。 仕事だ。 だが、思い出す。 神合のネクタイを緩めた感触。 自分から引き寄せてきた腕。 余裕を失う直前の目。 まずい。 会議室で思い出すものではない。 神合が、小声で言った。 「高柳」 「何だ」 「今、資料を見ていない」 「見てる」 「君の視線は、資料より三センチ上にあった」 「細かいな」 「昨日、君の呼吸を読んだからね」 高柳は、神合を横目で見た。 「会場で混ぜるな」 「君が先に思い出した顔をしていた」 「顔に出てたか」 「少しだけ。僕にしか分からない程度に」 高柳は低く息を吐いた。 「厄介だな」 「それは褒め言葉として受け取るよ」 「仕事に戻るぞ」 「もちろん」 神合は、何事もなかったように前を向いた。 その切り替えの早さが腹立たしい。 同時に、頼もしかった。 司会の役場職員が、東和商事の名を呼ぶ。 高柳は立ち上がった。 **** 大型モニタに、東和商事の表紙スライドが映る。 『宿を売るな。湯治を売れ』 会場の空気が、わずかに動いた。 高柳はリモコンを持ち、前へ出た。 「松川に必要なのは、客を一瞬だけ増やすことではありません。ここで働く人間が飯を食える形を作ることです」 最初の一言で、小林組合長の顔が変わった。 高柳は見逃さない。 「今の松川には、湯があります。山があります。古い旅館も、川沿いの道も、昔から続く店もある。ただ、それぞれが一泊二日の旅行の中に押し込まれています」 スライドが変わる。 湯治。 健康滞在。 ワーケーション。 法人向けウェルネス合宿。 健診付き温泉滞在。 「宿泊を売るのではなく、滞在を売る。観光客ではなく、松川で数日から数週間を過ごす客を増やす。温泉療養、健康相談、食事、散歩、仕事環境。湯を中心に、街で過ごす理由を作ります」 高柳は、次のスライドへ送った。 提携医療機関。 簡易健診。 定期健康診断。 健康相談。 滞在後フォロー。 「会社員は、年に一度、健康診断を受けます。検査だけで帰るより、松川で湯に浸かり、食事を整え、数日かけて体を戻す。法人福利厚生として、健診付き温泉滞在を売れる」 会場の数人が、資料へ目を落とした。 高柳は声の温度を少し上げた。 「ただ泊まって癒やされるだけでは弱い。健診を受ける。湯に浸かる。食事を整える。歩く。休む。松川で体を戻す。これなら、来る理由になります」 森田航が、身を乗り出した。 高柳は、その反応を見て言葉を続ける。 「長く滞在すれば、宿だけで終わりません。厨房、清掃、送迎、土産物、地元飲食店、健康サポート。街の仕事が動く。若い人間が残る理由が増える」 大型モニタに、川沿いの散歩道と古い旅館の写真が映る。 「松川を、安く泊まれる温泉地にしても長く続きません。松川の湯で整う。松川で体を戻す。松川で暮らすように滞在する。その価値を作るべきです」 高柳は一拍置いた。 「宿を売るな。湯治を売れ。これが東和商事の提案です」 会場に、短い沈黙が落ちた。 悪い沈黙ではない。 考えている沈黙だ。 宮下町長が、手元の資料に目を落とす。 小林組合長は腕を組み直す。 森田は、明らかに前のめりになっている。 高柳は席へ戻る。 すれ違う瞬間、神合が小さく言った。 「健診を入口にしたのは強いね」 「福利厚生に乗せられる」 「そして、帰った後の導線が必要になる」 「お前の出番だろ」 「もちろん。君が熱を入れた分、僕が逃がさない」 高柳は、思わず神合を見た。 逃がさない。 仕事の話だ。 分かっている。 それでも、昨夜の神合の手が背中に回った感触が、一瞬だけよみがえった。 神合は、何も知らない顔で立ち上がった。 **** 大型モニタに、北辰商事の表紙スライドが映る。 『温泉を売るな。人生を売れ』 神合は、高柳とは違う立ち方をした。 声を張りすぎない。 けれど、会場の全員が聞こうとする声だった。 「お客様は、チェックアウトした瞬間に松川との関係を終えます。どれほど良い宿でも、帰った後に何も届かなければ、次に来る理由は薄くなります」 神合はリモコンを押した。 会員登録。 健康相談。 健診結果に合わせた次回提案。 季節の案内。 特産品の定期便。 再訪プログラム。 地域イベント。 「一度来たお客様と、一年中つながる仕組みを作ります。滞在中に健康状態や好みを知り、帰宅後に案内を届ける。季節ごとの食材、体調に合わせた滞在提案、松川へ戻る理由を継続して届ける」 神合は、会場の空気をゆっくり掴んでいく。 高柳は、その横顔を見ていた。 うまい。 相変わらず、場の呼吸を読む。 最初から派手に押さず、相手の不安を一つずつ言葉に変える。 「たとえば、春に健診付き温泉滞在を受ける。夏に食事と運動のフォローを届ける。秋に再チェックの案内を出す。冬に湯治の再訪提案をする。一回の滞在を、一年の関係に変えます」 宮下町長が、顔を上げた。 神合は続ける。 「単発の旅行客を、松川を支える会員へ変える。宿泊を一度の売上で終わらせず、健康相談、特産品、再訪、地域イベントへつなげる。松川が、お客様の生活の中に残る仕組みを作ります」 高柳は、手元のペンを指の間で回した。 腹立たしいくらい、欲しいところへ入ってくる。 高柳の案は、来た客に松川で過ごす価値を作る。 神合の案は、その客を帰った後もつなぎ続ける。 昨日、客室で噛み合ったものが、会場の前で別々の提案として立ち上がっていく。 別会社の資料。 別々のプレゼン。 けれど、同じ温度の奥に向かっている。 神合の視線が、一瞬だけ高柳に向いた。 高柳は、気づいた。 次、来る。 神合がスライドを変えた。 「ただし、会員化だけでは入口が弱い。最初に松川へ来る理由が必要です」 会場の何人かが顔を上げる。 神合は続けた。 「ここで重要になるのが、温泉そのものの価値です。松川の湯を、健康滞在の核として打ち出す。健診を受け、数日滞在し、体を整え、帰宅後も松川とつながる。来訪と継続をつなぐことで、初めて一年を通した収益が作れます」 高柳は、口元を押さえた。 それは、高柳の案の穴を埋める言葉だった。 同時に、高柳の案を使って、神合の案を強くしている。 やってくれる。 神合は、涼しい顔で締めた。 「温泉を売るな。人生を売れ。北辰商事は、松川とお客様が長くつながる仕組みを提案します」 拍手が起きた。 高柳は、拍手しながら神合を見た。 神合が席へ戻ってくる。 すれ違いざま、高柳は低く言った。 「俺の湯治と健診を使ったな」 「君の案が強いからだよ」 「堂々としてるな」 「君だって、僕の継続設計を使う気でいただろ」 「まあな」 「なら、お互い様だね」 神合は席に座る。 膝が、ほんの少し高柳の膝に触れた。 偶然ではない。 高柳は前を向いたまま言った。 「会場でやるな」 「君が嬉しそうだったから」 「嬉しそうに見えたか」 「かなり」 高柳は答えなかった。 答える代わりに、資料をめくった。 質疑が始まる。 **** 最初の質問は、小林組合長からだった。 「高柳さんの案は分かりやすい。長く泊まってもらえれば、宿としてはありがたい。ただ、うちは人手が足りません。長期滞在の客を受け入れる余裕があるかどうか」 高柳はマイクを取った。 「最初から全旅館で始める必要はありません。手を挙げた数軒でいい。川音荘のように、客室風呂や静かな環境を持つ宿から始める。送迎、清掃、健康相談、食事の一部は外部と組む。宿だけに背負わせない形を作ります」 神合が、すぐに続けた。 「受け入れ可能な宿を会員サイト上で明確に分けます。長期滞在向け、短期宿泊向け、食事提携向け、健診付き滞在向け。お客様の目的に合わせて案内すれば、無理な受け入れを減らせます」 小林が頷いた。 「なるほど。宿ごとに役割を分けるわけですね」 高柳は神合を見ないまま言った。 「その方が、街全体で回ります」 神合も前を向いたまま言う。 「役割を分ければ、参加しやすくなります」 言葉が自然に重なった。 次の質問は、宮下町長からだった。 「町としては雇用を増やしたい。ただ、外部事業者に入ってもらうと、利益が外へ出てしまう懸念もあります」 高柳は頷いた。 「外から全部持ち込む形にはしません。足りない部分にだけ、事業として入る。たとえば会員管理、法人営業、健康相談の仕組み、送迎の調整、健診の提携。現場で動く仕事は、できるだけ松川の人間が持つ。その方が、長く続きます」 神合が続ける。 「収益の流れも見えるようにします。宿、食堂、土産物店、送迎、医療機関、外部サポート。どこで売上が生まれ、どこへ分配されるかを明確にする。地元側が納得して動ける設計が必要です」 宮下町長は、資料へメモを取った。 森田が手を挙げる。 「若い世代を戻すには、どこから始めるべきでしょうか。旅館だけだと、仕事の種類が限られると思うんです」 高柳は森田を見た。 若い後継者の目だった。 数字より、現場の温度を持っている。 「仕事の種類を増やすことです。宿の接客だけじゃなく、滞在プラン作り、散歩コースの案内、特産品の販売、健康イベント、法人客対応。松川で働く選択肢を増やす」 神合が、すぐに補った。 「若い人が関わるなら、情報発信と会員対応も大きいです。地域の人が自分の言葉で松川を届ける。外から作った広告より、その方が届く層があります」 森田の顔が明るくなった。 「それ、やりたいです」 高柳は短く言った。 「やりましょう」 神合が穏やかに続ける。 「最初の実証メンバーに入ってもらえると、流れが作りやすいです」 森田は、何度も頷いた。 その瞬間、高柳は思った。 これだ。 提案書の中ではなく、会場の中で人が動く。 誰かが自分の仕事として受け取り始める。 神合も、それを見ていた。 神合は、手元のタブレットに短く何かを打ち込む。 高柳の視界に、ちらりと見えた。 『森田氏:初期実証の核。情報発信/若手巻き込み』 高柳は、少しだけ笑った。 かゆいところに手が届く。 こちらが現場の熱を拾えば、神合がそれを仕組みへ変える。 神合が仕組みへ運べば、高柳が地面へ戻す。 その呼吸が、昨夜の熱と妙に重なった。 高柳が踏み込む。 神合が受ける。 神合が返す。 高柳がさらに進める。 仕事の場で思い出すものではない。 だが、身体が覚えている。 高柳はマイクを置き、指先を軽く握った。 神合が横から小声で言う。 「高柳」 「何だ」 「手」 「何が」 「力が入ってる」 「お前のせいだ」 「仕事中だよ」 「お前が言うな」 神合は、声を出さずに笑った。 その顔を見て、高柳は余計に熱を持った。 **** 質疑の最後に、地元金融機関の担当者が質問した。 「東和商事さんと北辰商事さんの提案は、それぞれ方向性が違うようで、かなり補い合っている印象です。実際に進める場合、どちらか一社に絞るより、連携した方が効果が出る部分もあるのでは」 会場の空気が、少し変わった。 高柳と神合は、同時に相手を見た。 ほんの一瞬。 その一瞬で、十分だった。 神合が先にマイクを取った。 「北辰商事としては、会員化と再訪導線に強みがあります。松川へ来る理由を強くするには、東和商事さんの健康滞在構想と組む価値があります」 高柳は続けた。 「東和商事としては、現場の体験価値を作るところに強みがあります。帰った後も松川とつながる仕組みがあれば、滞在価値はさらに伸びます」 宮下町長が、身を乗り出した。 「つまり、組み合わせる余地があると」 高柳は神合を見る。 神合も高柳を見る。 別会社。 ライバル。 明確な競合。 だが、松川のために必要な答えは、もう見えている。 高柳はマイクへ向き直った。 「あります」 神合も続ける。 「かなり大きいです」 会場に、低いざわめきが起きた。 小林組合長が、腕を組んだまま笑う。 「二社で分けるのが惜しいですね」 その言葉が、会場に落ちた。 高柳は、神合を見た。 神合は、涼しい顔をしている。 けれど、目の奥に少しだけ熱が残っている。 昨夜の客室で打ち込んだ一行が、会場の空気の中で形を持ち始めていた。 松川温泉街OS。 まだ誰もその名前を知らない。 だが、そこへ向かう流れはできている。 **** コンペ本番が終わると、会場の外は夕方の色になっていた。 高柳は、廊下の窓から温泉街を見下ろした。 古い屋根。 細い道。 ところどころに灯る旅館の明かり。 動かせる。 そう思った。 神合が隣に来る。 「お疲れ様」 「ああ」 「今日の君、かなり良かったよ。森田さんへの返しで、会場の温度が上がった」 「お前こそ、健診を一年の導線にしたところが効いた」 「見てたんだ」 「見てるだろ」 「仕事で?」 高柳は神合を見た。 「最初はな」 神合は笑った。 「その言い方、昨夜からずるいね」 「お前が先に混ぜるからだ」 「今日は混ぜないつもりだった」 「できたか」 「できなかったね」 二人はしばらく黙って、窓の外を見た。 言葉にしなくても、熱が残っている。 プレゼンの熱。 質疑の熱。 昨夜の熱。 全部が混ざって、まだ身体の中にある。 神合がスマホを見た。 「タクシー、あと五分で来るよ」 高柳は、驚かなかった。 「川音荘か」 神合が少し目を上げる。 「分かってた?」 「お前が今夜を松川グランドホテルの延長で済ませる男には見えねえ」 「正解。客室風呂付きの部屋を取ってある」 「仕事中に宿と足を押さえたのか」 「君が森田さんに『やりましょう』と言った時点で決めた。あの後の君を、そのまま帰すのは効率が悪い」 「効率の話にするな。お前も欲しくなったんだろ」 神合は、少しだけ黙った。 それから、素直に笑った。 「そうだよ。君が僕の仕組みに熱を入れてくるから、身体まで昨夜を思い出した」 高柳の胸の奥が、強く鳴った。 「俺も同じだ。お前が俺の現場を遠くまで持っていくたび、もう一回欲しくなった」 神合は、窓の外を見たまま目を細めた。 「高柳」 「何だ」 「一泊で終わる関係じゃ、もったいないよね」 「温泉街の話か」 「両方だよ」 タクシーの到着を知らせる通知が、神合のスマホに表示された。 高柳は自分の荷物を持った。 「行くぞ、神合」 「もちろん、高柳。予約時間に遅れる男とは、長く組めないからね」 「組む前提か」 「今日の会場を見て、まだ別々に戦えると思う?」 高柳は笑った。 「仕事の話か」 「両方だよ」 二人は廊下を歩き出した。 外では、夕方の松川温泉街に灯りがともり始めている。 大会議室の大型モニタに映した資料は、もう消えていた。 けれど、二人の中には、まだ消えない一行が残っている。 松川温泉街OS。 その先を、今夜もう一度、同じ部屋で確かめる。 高柳は神合の横顔を見た。 神合も、同じタイミングでこちらを見る。 視線が合う。 どちらからともなく、少しだけ笑った。 勝負は、まだ終わっていない。 ただ、次の場所はもう決まっていた。

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