65 / 93
5章【真相】-6 追憶のアネモネ編
ようやく、潮から解放されて、郁はぼんやりとしていた。
「おにいちゃん……おにいちゃんってば」
不意に、もえぎに呼ばれて我に返る。
「えっと……」
「ご飯、食べないと冷めちゃうよ?」
「あ……ごめん。あんまり、お腹……空いてないかも……」
とっさに、そう言い訳をした。
もえぎは、ちらっと郁を見た後に小さな声で文句を言った。
「私、潮さまが嫌いだわ」
その言葉に、なんと返せばいいのか分からない。
『先ほど』までの出来事を思い出して、脂汗が身体に滲む。
少し、空気が薄い気がする。
「そ、そんなことは言っちゃいけないよ……」
ようやく、妹を窘めることができた。
「ほら、パン屑ついてるよ」
もえぎは、そそっかしい。
かわいらしい口元にパン屑がついていた。
丁寧にそれをとってやる。
むーっともえぎは唇を尖らせた。
ややあって、もえぎが遠慮がちに問うた。
「ご飯……おいしいよ……こんなご馳走、食べたことないもの。でもね、」
「うん……?」
もえぎの言葉に目を瞬かせる。
「私、おにいちゃんのご飯が一番好き。だから、今のまま……じゃなくても、いいの」
もえぎが拗ねるような口吻でそんなことを言う。
「だめだ!」
郁は強く断じた。
もしも、今、潮を拒んだら――潮に捨てられてしまう。
つまり、それはあの困窮した生活に戻ることを意味する。
(もえぎがお腹を空かせてしまう)
――ちがう、自分が空腹に耐えられないだけだ。
(もえぎにひもじい思いをさせてしまう)
――ちがう、自分が、もうひもじい思いをするのが嫌なだけだ。
(もう前みたいに、戻りたくない……)
――もう足が疲れ果てるまで、存在しない食材を探す生活には戻りたくなかった。
全ては郁のエゴだった。
「おれ、きたない……」
無意識に口癖になった言葉を呟いていた。
そのとき、ふわっと温かなものが郁を包んだ。
もえぎが、郁を抱きしめたのだ。
「おにいちゃんは、汚くなんてないよ。とってもきれいな人だよ」
もえぎのその言葉に、声をあげて泣きたくなってしまう。
もえぎが知らないだけで、郁の身体は汚かった。
たくさん、卑猥な言葉を口にさせられたし、身体は辱めを受けた。
だから、郁は汚い。
郁は手で顔を覆った。
そんな郁のそばにいつまでももえぎはいた。
――その日の晩、郁はまんじりともできずにしていた。
隣では、もえぎが静かな寝息をたてている。
「きれいは、きたない、きたないはきれい……」
郁は、そう呟いていた。
屋敷の図書室で読んだ本に書いてあった台詞だ。
郁はただ、その言葉を繰り返していた。
ともだちにシェアしよう!

