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第7話 弟王子
議題が租税についての措置に移ろうというときだった。
「――ホルセム王」
玉座の間に書記官がひとり入ってくる。ホルセムを含め、その場の皆の視線がそちらを向いたそのとき、入り口に、褐色の肌を持った少年がひとり、姿を見せた。
黒い髪を後ろで無造作にひとつに束ねた少年は、十四、五歳ばかりだろうか。印象的な碧眼をホルセムのほうに真っ直ぐに向けた。
「兄上」
「っ、そなた、ハクラカァか!」
ホルセムは少年の正体に思い当たって、その名を口にした。
トゥアルセティスによるセベクヘプ王弑逆およよび王位簒奪の折、行方 知れずとなっていたホルセムの弟王子である。
当時は王宮にいたはずだが、どうやらからくも王都から脱出し、その後はホルセムと同様に地方に潜伏したと風の噂で耳にしていた。が、今日この日まで、顔を合わせることは出来ていなかった。
「ハクラカァ、よくぞ無事で……!」
生き別れていた弟王子との再会に、ホルセムの表情は久々に屈託なく明るいものになる。喜びを満面に浮かべたホルセムは、弟王子に駆け寄ろうとした。
「お待ちを」
さっとホルセムの前に手を出し、止めたのはメネフだ。
「どうした?」
ホルセムが訝 ると、いえ、と、若き将軍は躊躇うように言葉を濁した。
「いまは王朝の混乱期……誰が敵か味方か、まだわかりません。十分なご注意を」
ホルセムにだけ聞こえるよう、メネフは耳許に囁きかける。ホルセムはメネフを見ると、大丈夫だ、と、軽く笑って見せた。
「豪胆な将軍らしくなく、ずいぶんと心配性なことではないか」
「そうは仰いますがね、王」
「心配ない。ハクラカァは俺の弟だ。俺たちは幼い頃から仲のよい兄弟だったんだ」
まるで己にも言い聞かせるかのように口にしつつ、ホルセムは将軍の肩を軽く叩く。それから改めて弟王子のほうへと歩み寄った。
「ハクラカァ……!」
抱き寄せ、抱き締める。間近からあらためて、弟王子の顔を見た。
潜伏している間、ハクラカァもまたたいへんな苦労をしたものだろう。その頬には、隠しようのないやつれが浮かんでいた。が、碧玉のごとき眼差しは力強い。
「兄上……いえ、ホルセム王」
ハクラカァはそう言って、その場に膝を突いた。
「王が此度、ついに逆賊から王座を取り戻されたと聞いて、馳せ参じました。本来ならば玉座奪還の戦陣に駆けつけるべきところ、間に合わず……不肖の我が身を、返す返すも、口惜しくも申し訳なく思います。なればこそ、この先の兄王の政 に、微力ながらこの身をお役立ていただきたいと」
跪 き、深々と頭 を垂れる弟の姿に、ホルセムは胸の奥が熱くなるのを覚えた。
「微力だなどと……そなたが来てくれたこと、俺は心強く思うぞ、ハクラカァ」
血を分けた兄弟が自らの陣営に加わってくれたのだ。頼るべき肉親が傍近くにいるということが、嬉しくないはずがない。
「光栄です、ホルセム王」
「水臭いぞ、ハクラカァ。兄で構わない」
「はい、兄上」
ハクラカァは、少年らしい屈託ない笑みを見せる。共に苦難を乗り越えてきた兄弟の久々の対面を、まわりにいるホルセムの側近たちも、それぞれが微笑ましく見守っていた。
そうした和やかな空気が一変したのは、ひとしきりホルセムと再会を喜び合ったハクラカァが、こう口にした時である。
「ところで、兄王には、王妃をお迎えになったのだと耳にいたしました。なんでも、各神殿で、神託があったとか。いったいどのような女性なのです? 神によって定められた兄上の伴侶、許されるなら、僕もぜひお目にかかりたい」
笑顔と共に言うハクラカァには、まったく悪気はなかっただろう。だが、その刹那、その場が凍りついた。
「どう、されましたか……?」
誰もが黙りこんだため、不安を覚えたらしいハクラカァが、おそるおそるといった様子で問う。
「あの、ハクラカァさま……」
気まずい沈黙の中、まず口を開いたのは乳兄弟のウルだった。ホルセムの心情を慮 って、自分が説明役を買って出てくれたというわけだ。
ウルはハクラカァに、国をアポォピスの災厄から護るためにはトゥト神の加護を持つ者を王妃にせよという神託の内容を語った。また、神託の示す者に該当するのがトゥアルセティスしかおらず、彼がホルセムの王妃に立てられ、いまは後宮に軟禁されていることも話して聞かせた。
その間、ホルセムは無意識にてのひらをきつく握り締め、くちびるを噛んでいた。
だが、その事実に深い憤 りを覚えるのは、ホルセムだけではなかったようだ。
「なんという……!」
ウルから事情を聞き終えると、ハクラカァは声を荒らげた。
「なぜ神は、兄上に、そのような過酷な運命をお与えになるのですっ!? よりによって父上の仇を妃に据えねばならぬなど……いっそ屈辱ではありませんか!?」
「しかし、ハクラカァ……いくら腹に据えかねるといっても、神々の仰せは絶対だ。神の現身 たる王が、神託を無碍 にすることはできん」
「でも、兄上! 兄上は口惜 しくはないのですか!? 父を殺した男が、憎むべき相手が、形ばかりとはいえ王妃として、いまも王宮でのうのうと暮らしているだなどと……!」
くやしいさ、と、ホルセムは眉を顰め、心中につぶやいた。
夜ごとに組み敷いて身を辱め、この上ない屈辱を与えてはいても、憎悪に燃えるホルセムの胸中はまるで満たされはしなかった。
「まさか、王の即位式では、あの男が王妃として兄上の隣に並び、共にラァ神殿で誓いを立てるのですか」
ハクラカァは、怒りに震えた肥で、低く問う。
「そう、なります……玉座につく者は、みな、そうするのが決まりですから」
黙りこむホルセムに代わって答えたのは、やはりウルだった。
ハクラカァは実に口惜しげに俯き、地団太を踏んだ。
が、すぐに、何やら思いついたかのように顔を上げ、碧玉の眸をホルセムのほうへと真っ直ぐに向けた。
「兄上……神託には、トゥト神の加護を持つ者、と、そうあったのですね?」
「ああ、そうだ。だが、それがどうかしたか?」
「いえ……もしも、あの逆賊以外にトゥト神の加護を持つ者がいたとしたら……王妃はトゥアルセティスでなくとも、その者でも良い、ということですよね?」
弟王子の言葉に、ホルセムははっとした。
「それは……そうだが」
だが、現実問題として、トゥト神の加護の証である〈月の眸〉を持つ者は現在、トゥアルセティスしかいないのだ。
「では、他の者を、探しましょう」
「ですがハクラカァさま、〈月の眸〉を持つ者は、百年にひとり出るか出ないかだといわれております。いまの時代にトゥアルセティスさまがいらっしゃる以上……」
今後百年は現れなくとも不思議はない。探しても見つかる可能性は低いというウルの言葉に、けれどもハクラカァは頭 を振った。
「たしかに見つからないかもしれない。でも、兄上をこのままにはしておけません。父の仇が王妃だなどと……大事な兄の伴侶だなどと、僕も、耐えられない。だから、探します。ケメトの隅々まで。それがたとえ徒労に終わるとしても、やってみないことには、納得できません。――僕にお任せくださいますか、兄上?」
ハクラカァが強い口調で言った。
「ああ……頼む」
気圧されるように、ホルセムは頷いた。
「それと並行して、邪神アポォピスの復活についても探ってみます。アポォピスの脅威が去りさえすれば、もはや神託に従う必要もなくなる。兄上が憎しみを堪 えてまでトゥアルセティスを傍に置く理由も、なくなりますよね?」
ホルセムはまたしても虚を突かれた。だが、いわれてみれば確かに、その通りかもしれない。
「ああ……そちらは俺も探ってみる」
「はい。――トゥト神の加護を持つ者を発見するか、アポォピスを退けるか……どちらかが叶えば、兄上は本懐をお遂げになれます。憎き逆賊トゥアルセティスを、そのときこそ、断罪できる。その手で処刑なさり、父王の仇をとることができる」
ハクラカァの声は静かに、けれども奇妙に玉座の間に響いた。壁に灯された松明が揺れ、その場の誰もかれもの、長く引き伸ばされた影もまた揺らぐ。
「そう、だな」
ホルセムは口の端を無理に引き上げて、短く応じた。
神託に従って、仕方なく立てた王妃。その宿命から逃れる方策が、いま、ふたつ示された。喜ぶべきところだろうに――……なぜか、心はざわついている。ざらついている。
トゥアルセティスを、処刑する。
それは禍根を断つための、最も単純明快な方法だ。処刑してさえしまえば、以後は、再び反旗を翻 されることを憂う必要もなくなるのだ。なにかたくらみがありはしないか、と、警戒を続ける労もなくなる。
叔父を消してしまいさえすれば、すべては収まる。
良いことではないか。
良いことのはずだ、と、思う。そう、理屈では分かっている。
だが、それならばなぜ、この胸には拭いがたい靄のようなものがくすぶり続けているのだろうか。
ホルセムは目を閉じ、ふう、と、息を吐いた。
するとふと、目裏 に、叔父の蒼褪めた寝顔が思い浮かんだ。次いで、身を繋げて苛 んでいるときの、乱れた呼吸、湿った肌、ホルセムを受け入れた隘路の熱さが、まざまざと甦る。
疲れ果てた蒼白な顔と、熱に浮かされた乱れた顔。喘ぎまじりの泣き声と、浅い呼吸の寝息。そのうらはらのふたつが、同じ人間の見せたものだと思うと、どうしようもなく胸が疼 いた。
叔父の身体は体臭を感じさせない。だから、ホルセムとの爛 れた夜を繰り返し越えたいまはもう、あの身体には、ホルセムの匂いが移っているのかもしれなかった。
そう考えた途端、脳天が痺 れるような熱を持った。
「っ、くそ」
目を開けたホルセムは、誰にも気づかれないような小声で、毒づく。
押し潰すように乱暴に貫き、泣かせ、喘がせ、それでもなおこの胸に残る憎悪と渇望にも似た気持ちはいったい何なのか。わけのわからない己の感情に困惑し、きつく眉根を寄せた。
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