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終 後朝

 シャ、シャ、と、小気味よい音が暁の静寂(しじま)の中に響いている。窓から射し込む曙光の中で、ホルセムは一心に小刀(ナイフ)を動かしていた。 「ん……ん」  ふと、隣に眠るひとの瞼がかすかにふるえる。 「……ホルセ、ム……?」  舌足らずな声が呼んで、血の色の透けるような白い瞼の下に隠されていた神秘的な〈月の眸〉がのぞいた。片方だけになってしまったのはすこしだけさびしいけれども、それでも、その眸を見詰めるだけで、その眸が自分を見詰めてくれるだけで、ホルセムの心はあたたかくなる。  トゥアルセティスの傍らで木片を削っていたホルセムは、一度手を止めて小刀を置くと、木端(こっぱ)を受けるための布を木端ごと横へ()けた。そして、目覚めたばかりのいとしい人の(まなじり)に、そ、と、口づける。 「おはよう。でも、あなたはまだ寝ててもいいよ」  一度や二度では済まず、昨夜は結局、ずいぶん長いこと抱き合っていた。だからきっとトゥアルセティスは疲れているはずだ。  ホルセムがいたわると、けれども、トゥアルセティスは(かぶり)を振って、自らも起き上がった。 「何を、しているの?」  問いかけてくる声音が掠れているのは、ホルセムに責められて、さんざん善がらされたせいだ。自分でも声が出しにくいのに気づいたのか、トゥアルセティスは喉のあたりに手をやりつつ、こほこほ、と、軽く咳払いをした。 「水……飲んで」  ホルセムは水差しを取ってカップに中味を注ぎ、トゥアルセティスに渡してやっる。トゥアルセティスは素直に受け取って、こくこく、と、喉を鳴らした。 「ありがとう。――それは……護符(アンク)?」  ひと息ついて、ホルセムの手許を覗き込んだトゥアルセティスが言った。 「うん……あなたに」  ホルセムはまだ削りたての木片を撫でる。  いつか、はじめて削り上げたそれを叔父に贈った。そして、トゥアルセティスは、そのときにホルセムと交わした約束のとおり、その護符(アンク)をずっと肌身離さず大事にしてくれていた。  その護符(アンク)は、冥府でトゥト神が自分たちの身代わりをつくるときに使ったため、トゥアルセティスの手許から離れてしまった。いまは新たに神となったホルスアンクトゥアの心臓(イブ)となっているだろう。  それにかわるものを再び贈ろう、と、自分の隣で穏やかな寝息を立てているトゥアルセティスの寝顔を見たとき、ホルセムはふと、そう思い立ったのだ。 「あとできちんと仕上げるけど」  そう言いつつ、まだ粗削りのそれに革紐を結んで、トゥアルセティスに手渡した。 「このままでいいよ。十分だ」  トゥアルセティスは受け取ると、静かに笑いながら言って、かつてそうしたように護符(アンク)を首からかけた。大事そうにてのひらの上に載せて、細めた目で、しばらくじっと見詰めている。 「喜んでくれるか」 「もちろん。うれしいに決まっている。――おまえからの贈り物だもの。大事にするよ。肌身離さずにずっと持っているから」 「うん」  ホルセムはトゥアルセティスの背に腕をまわし、相手をそっと抱き締めた。  ホルセムと離れている五年の間も、トゥアルセティスはずっと、ホルセムの贈った護符(アンク)を身に着けつづけてくれていた。贈ったそのときのままに、革紐に結ばれた護符(アンク)を、いつだって彼は首から下げてくれていた。  それは、彼の、ホルセムへの深い想いの証だ。彼の身を包む長衣の下に、あの護符(アンク)が、いつだって揺れていた。  そう考えたとき、ホルセムは、ふと思い至る。 「もしかして、あのとき……服を脱がされるのを拒んだのは、まさか」  はじめて彼を凌辱した夜のことを、唐突に思い出した。らしくもなく、まるで挑発するように、脱ぐ必要などないだろうと言ったトゥアルセティスの言葉。  もしかしたらあれは、長衣の下の護符(アンク)を隠そうとしてのことだったのではないのか。 「あれは俺に……護符(アンク)のこと、気づかれないようにするためだったのか?」  問い質すと、トゥアルセティスはわずかに視線を逸らした。 「だって……おまえは、やさしいから……気付いたら、きっと心を揺らしてしまうと思って……それでもし、仇であるわたしのことを真っ直ぐに憎めなくなったりしたら……つらいだろう?」  その言葉を聞いたホルセムは、ああ、と、感嘆するように息をついた。  あんな刹那ですら、トゥアルセティスはホルセムの心をいちばんに(おもんぱか)ってくれていたのだ。目頭がじんと熱くなる。  あいされていた――……ずっと、誰よりも一番に。  自分はもう二度と、彼の愛を疑わない。  そして今度は、自分も彼を愛し、生涯に(わた)って護り抜く――……二度と手放したりしない。奪われたりしない。  信じて、愛して――……大切にする。 「トゥアルセティス……俺の、生命(アンク)。――あなたを、あいしている……永遠に」  ホルセムは眩しい曙光の中、トゥアルセティスを抱き締め、そして誓うように口づけをした。 ***  統一ケメト第一王朝の第三代王のホルセムは、太陽神ラァの子としてケメトを統治した最後の王である。その傍らには月神トゥトの加護を受けた、賢く美しい王妃トゥアルセティスが常に控えていた。  ふたりは力をあわせてケメトの地から邪神アポォピスの影を退け、豊かな治世を築き上げたという。善政は長く続き、その時代は、ケメトの長い歴史の中の、神と人との共同統治の時代の最後に、燦然と輝いている。  やがて、新たにケメト王権の守護者となった天空神ホルスアンクトゥアの神託により新たな王が立ち、統一ケメト第二王朝が産声をあげると、役割を終えたふたりは手を携え、共に死者の野(アァル)へと旅立っていったと伝わる。神々の時代の後に続いた神と人の時代が終わり、人の時代の始まりを告げる、象徴的な出来事であった。  ふたりの第二の家である王家の谷の王墓に描かれた壁画は、太陽神ラァに守護されたホルセム王と、月神トゥトの加護を受けたトゥアルセティス王妃が、互いに向かい合う様である。中央に控える天空神ホルスアンクトゥアの前で、王が王妃に護符(アンク)を差し出し、王妃が微笑んで受け取る様子が、鮮やかな(いろどり)で描かれたものだ。  そして、その傍らには、うつくしい(ひつぎ)に納められたふたりのミイラが、並べて安置されている。  永遠に続く時をふたりがずっと寄り添い合って過ごすその場所には、大河イテロとケメトの砂漠とを渡ってきた熱い風が、今日も、変わらずに吹き続けていた。

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