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序章 視線が交わる場所
「また来てる。」
誰かが小さく呟いた。
その声は橘の耳にも届いたが、振り返るほどではなかった。
教室の後方。
自分の席へ鞄を置くと、視界の端に九条の姿が映る。
同じクラス。
けれど席は離れている。
九条は、自分の席ではなく、橘の席のすぐ横――空席になっている机の隣に立っていた。
今日だけではない。
最近、気が付くとそこにいる。
何をするでもなく、ただ静かに立っているだけだった。
「そこ、空いてるけど。」
橘が空席を顎で示す。
九条は一度だけ視線を落とし、短く答えた。
「知っている。」
「じゃあ座れば?」
「必要ない。」
それで会話は終わる。
理由を聞いても、おそらく返ってこない。
橘もそれ以上は聞かなかった。
九条は立ったまま、窓の外へ視線を向ける。
教室ではあちこちで笑い声が上がり、誰かが机を引く音が響いている。
いつもと変わらない昼休みの終わり。
それなのに、この一角だけ時間が少し緩やかに流れているようだった。
「今日、移動教室じゃなかった?」
橘が教科書を鞄へしまいながら声を掛ける。
「ああ。」
「行かないと。」
「わかった。」
返事は返ってきた。
それでも九条は動かない。
橘の机へそっと置かれた右手も、そのままだった。
何をするでもない。
机を押さえているわけでも、寄り掛かっているわけでもない。
ただ、そこに触れている。
橘はその手を見つめ、それから九条を見る。
「……行かないの?」
「行く。」
「じゃあ。」
九条はようやく手を離した。
その動作は静かで、教室の誰も気付かないほど自然だった。
「俺、先行く。」
橘が立ち上がる。
「ああ。」
九条も一歩遅れて歩き出す。
教室を出る頃には、二人は自然と横に並んでいた。
どちらから合わせたわけでもない。
歩幅は揃い、距離も一定だった。
廊下には他のクラスの生徒も行き交っている。
その流れに混ざりながら、橘は横目で九条を見る。
「さっきから、なんであそこにいたの?」
九条は少しだけ考えるように前を向いたまま歩く。
「ここが近いから。」
「……何に対して?」
返事はなかった。
九条は答えず、そのまま歩き続ける。
代わりに、橘が少し速く歩けば同じだけ速くなり、少し緩めれば同じだけ緩む。
その歩幅だけが、静かに橘へ揃えられていた。
「変なの。」
橘は小さく笑う。
その声を聞いても、九条は何も言わなかった。
ただ、二人はそのまま並んで移動教室へ向かって歩き続けた。
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