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第一章 偶然と必然 1

 瞬は絶句したまま、目の前に広がる空間を見ていた。隣に立つ悠も同じような状態で固まっている。  驚き半分呆れ半分で、二人はその広大なフロアを呆然と見つめていた。  5LDK。事前に聞かされていたその単語は彼らには何の意味もなかった。Kが台所を表すことは辛うじて知っていたが、LとDの違いすらよく分かっていないのだ。  それなのに。  全てを手配した男に促されるがまま、こんな所まで来てしまった。やっぱり来るべきじゃなかった……と瞬は後悔した。 「どうかしましたか」  当の男が、入り口から動こうとしない二人を訝しんで声を掛けた。  悠が、ぎくしゃくとした動きで振り返ると、男に言った。 「柴浦さん……」 「はい」 「あの、ここ――」  どう言っていいのか分からず、悠は言いさす。  だが、男――柴浦はあっさりと頷いた。 「こちらが、今日からあなた方の暮らす家です」 *  今から時間をさかのぼること三日。  季節は冬。二月の最も寒さ厳しい時節を迎えている。  瞬は疲労の抜けきらない身体をもてあまし、公園のベンチに腰掛けていた。  身体が重い。頭の芯に靄が掛かっているような妙な頭痛が、このところずっと続いている。  原因は彼自身よく分かっていた。仕事を詰め込みすぎているのだ。  日中は警備員、夜は飲み屋のフロアスタッフとして連日シフトを入れている。疲れるのは当たり前だ。  ――分かってはいるんだ。けど……。  瞬は小さく溜息をついた。  人が二人暮らすのには意外なほどに金が掛かることを、瞬は最初の一年間で思い知った。  明かりを付ければ電気代が、風呂を焚けばガス代と水道代が掛かる。食費も馬鹿にならない。  あの研究所にいた頃は想像も出来なかったが、彼らはあの時、経済的には守られていたのだ。  暁から渡された貯金も徐々に目減りしている。出来るだけ手を付けずにおきたかったのに、残高が減ってゆくのを見るたび、瞬はいたたまれない気持ちになった。暁が託してくれた物を食いつぶすだけの自分が情けなくて、瞬はがむしゃらに働いた。  ふと瞬は公園の時計を見上げた。午後三時を廻っている。  そろそろ仕込みを始めないと間に合わない。  瞬は両手で目頭を強く押さえると、立ち上がった。 *  悠はぼんやりと窓から外を眺めていた。  二階建てのアパートの一室が彼らの住まいだ。  板張りの床は冷たく、悠の足を凍えさせる。日が陰り始め、冬の弱い日差しが温めるのをやめると、悠は膝を抱え込むようにして部屋の隅に蹲った。  傍らにあるのは、日に干した布団だけ。暖かなその匂いに、悠は不意に泣きたくなった。  一組の布団しかなかったけれど夜はずっと抱き合って眠ったのに。時々交わす口づけが無上の喜びだったのに。  ――瞬が、家に居着かなくなって三ヶ月が過ぎていた。  家に帰っては来る。  ただその時間は深夜を大きく廻ってから。朝は朝で、早朝には出かけてしまう。  複数の仕事を掛け持ちしていることは知っていたが、こんな朝から晩まで働き通しでは身体を壊してしまう。  無理しないで、と悠が言うと、瞬は一言「大丈夫」とだけ言って背を向けてしまった。  悠も、瞬がどんな思いでいるのか分からないわけではなかった。何より、金を稼ぐ能力もない自分が、瞬に偉そうな事を言うのも憚られた。  そうこうしているうち、瞬とは話をすることはおろか顔も見ない日が普通になってしまった。 「……僕……邪魔になっちゃったかな」  悠が呟いた。  もう何日も誰とも喋っていない。時々声を出すと、がらんとした部屋に妙に大きく響いてどきりとする。 「――瞬」  名前の呼び方すら忘れてしまいそうだ。  悠は小さく溜息をつくと、食事の支度のために立ち上がった。 *  結局今日も、家に帰ってきたのは日付が変わってからだった。  既に部屋の明かりはない。そのことに少し安堵している自分に気付いて、瞬は溜息をついた。  音を立てないように鍵を開けると玄関に滑り込む。そのまま明かりを灯さずに風呂場へと直行した。  安普請のこの部屋にはシャワーなどと洒落た物はなく、瞬は洗面器に溜めた湯を頭から被った。浴槽に湯をためると金が掛かるのだ。冬の最中にはなかなか辛いが仕方ない。  洗面器三杯の湯で行水を終えると、瞬は震えながら洗いたてのバスタオルにくるまった。  きちんと畳まれた下着や部屋着が、風呂場の脇に置いてある。  顔を見なくても、悠の気配が部屋中に満ちている。それが嬉しくて――辛くて。  隅々まで掃除された風呂場。清潔なタオル。並んだ歯ブラシ。そして部屋のテーブルには、悠が作った夜食が置いてあるはずだ。  瞬は乱暴に身体を拭くと風呂場を出た。  六畳一間に風呂と台所とトイレ。今風のワンルームマンションではなくこんな古いアパートを選んだのは、破格の家賃と、保証人不要敷金なし礼金なし……という契約上の気安さからだった。おまけに他の住人は一階に一軒入っているだけ。人と顔を合わせる必要がないのは二人にとってありがたいことだった。  瞬は床に敷かれた布団の脇に立った。悠は布団の端で丸くなって眠っている。  身体を不自然に折り曲げて、苦しくないのかと思うほど縮こまっている。瞬のために端に寄っているのだろうが、遠慮しすぎて布団からほとんどはみ出している。  瞬は苦笑して布団の脇に跪いた。掛け布団を掛けてやろうと手を伸ばして、ふと途中でその手を止めた。  窓から僅かに差し込む月明かりが、悠の頬を照らしたのだ。  呼吸に合わせて、睫が小さく震えている。  悠の顔をまともに見たのは、一体いつ以来だろう。  瞬はゆっくりと顔を近づけた。上から覆い被さるようにしてその顔を覗き込む。  愛しさと共にこみ上げてくる衝動を、瞬は無理矢理に抑えつけた。そして唇を噛んだ、その時。  ぞんざいに拭いただけの髪から、冷たい雫が一つ、ぽたりと落ちた。  雫は過たず悠の頬に落ち、悠が目を開けた。 「……」  悠は無言で瞬を見上げた。少し目を細めて、相手の顔を見つめる。  やがてそれが瞬だと分かったのだろう。悠は何も言わず、目の前に腕を伸ばした。  その唇が瞬の名を形作る間もなく、瞬はその唇を塞いだ。  ……分かっていた。  自分が押さえつけ、コントロールしているつもりになっていただけで、自分の欲望はいとも簡単に堰を越えてしまう。  だから近づかないようにした。悠を視界に入れないようにした。  それなのに。  その隙間を埋めるかのように、瞬は夢中で悠の口中を犯した。  悠の舌を吸い上げて、舐める。やわやわと歯を立て、悠が引こうとすると少し強く噛んだ。そのたびに、びくりと悠の身体が跳ねる。  悠の命を握っているような危うい感覚に目眩がする。  歯がぶつかり軋るのも厭わず、瞬は行為に没頭した。  ――いつの間にか、悠のシャツは捲れ上がり、白い肌を晒している。  瞬は悠の唇から離れ、下へと身体をずらした。薄明かりの下、手探りで乳首を探り当てると、今度はそちらへ舌を這わせる。 「……ぁ、ん……っ」  初めて悠が声を上げた。微かに色づいた声に愛しさが増す。舌先で執拗に乳首を押しつぶすと、悠が身を捩った。 「シュ、ン」  切れ切れに呟く声が耳に届く。  瞬はふと顔を上げた。そして悠の眼に浮かぶ涙が、月光を受けて光るのを見た。 「――……!」  瞬の全身から一気に血の気が引いた。 「……ご」  慌てて身を起こす。悠は、何が起こったのかすぐに理解できず、ぼんやりと瞬を見ている。 「……?」 「ごめ、ん」 「瞬?」 「ごめん」  それだけを口にすると、瞬は悠から離れ、布団の脇に散らばる服をかき集めた。 「ごめん……」  それ以上何も言えず、瞬は部屋から逃げ出した。

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