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終章

 目の前に、白い世界が広がっている。  ただ真っ白で、何も見えない純白の世界だ。  けれど不思議と寂しくはない。  温かく包まれるような、柔らかな光の中に悠は座っていた。  人の命を奪った。  それが自分に害を為す者だったとはいえ、一つの命だったことに違いはない。  誰かが止めなければならなかった。  独りよがりで独りぼっちのあの人を、止める人のないまま暴走させてしまった。  止めてくれ、と。  止めてやってくれと言われた。  もう命を止める事でしか、あの人を救うことは出来ないのだと。  あの人にも、本当は愛してくれる人がいたのに。  周囲に目を向けず、ただ己の愛した人だけを求めた。  どうして、こんなにも上手く行かないことばかりなのだろう。 「俺たちだって、すれ違ってばっかりだったじゃないか」  突然、悠の背後から声が聞こえた。  悠は振り返らない。  ただ前を向いたまま、自分の膝に視線を落としていると、背中に暖かな体温が触れた。 「……うん、そうだったね」 「俺があれだけ愛しているって言ったのに、君は逃げた」 「うん」 「君が何度も愛しているって言ってくれたのに、俺は聞こえていなかった」 「……うん」 「お互い、いつもずっと不安だった」 「……ごめんね」  思わずそう口にすると、背中に重みが加わった。 「謝って欲しいわけじゃ、ないんだ」  間近で囁かれる声は、悠を責めない。  自分勝手な愛情を押しつけたまま姿を消した自分を、こうして柔らかく包んで許してくれる。 「俺たち、こういう話をずっと避けてきたからな……」  他愛ないことはたくさん話したけれど、いつも肝心な事は口に出来なかった。お互い相手の胸の裡に踏み込むことを恐れていた。 「なぁ、悠」  いつの間にか、膝を抱えてしまった悠の身体に逞しい腕が廻されていた。 「……悠」 「……」 「俺たち、やり直せるか?」  男らしい、若々しく骨の張った手が、悠の手を取った。そのまますっぽりと握り込まれてしまう。青年の手は、大きかった。 「やり直す……?」 「全部、最初から」  見つめあって、言葉を交わして、笑いあって。たくさん話をして、手を繋いで、キスをして。 「最初から、やり直そう」  優しい低音が耳をくすぐる。  けれど悠は、ふるりと身を震わせた。 「でも。……ねぇ、――瞬」 「……いや? もう、手遅れ?」 「ちがう、そうじゃなくて、僕は。……僕は、きっと変わらない。変えられない。何度君と恋をしても、何度やり直しても、君が望まない形でしか、君を愛せない」  悠は、そう告げた。途端に、胸が激しく痛んだ。  ――僕は、そうして生きてきた。  それがどんなに愚かなことか頭では分かっている。けれど瞬のためになら僕は自分の命を差し出す。  無我夢中で君を愛してしまう。それが結果として君を悲しませると分かっていても、僕は、僕の全てを捧げて君を愛してしまう。  僕はひどく愚かで臆病で、小心者で、それなのに人一倍狡くて強欲で、嫉妬深い。  僕が自分の体を供物に差し出すのを、人は自己犠牲だとか、無償の愛とか言うだろう。  けれど本当は、そんなおキレイなものじゃない。  僕は、瞬が愛してくれる、その愛情だけじゃ足りないんだ。瞬の過去も未来も、命も、全部欲しい。  僕の命が君を生かす。僕の命が、君の中に二度と消えない爪痕を残す。  それを思うと、僕の心と身体は震えるほどの歓喜で満たされる。  僕が自分を痛めつければ痛めつけるほど、瞬の顔がゆがみ、僕を抱く腕に力がこもる。  その力強い拘束の中で、僕がどれほどの喜びに浸ったか、君は知らない。    返ってこない愛に狂った神崎を、どうして嗤う事が出来るだろう。   僕の愛だって、こんなにも狂っている。 「……知ってるよ」  静かに囁かれる声は、耳からではなく直接身体の芯に響いた。互いの身体が融け合うような、不思議な感覚に目を閉じる。  すると声を追いかけるようにして、腕の力が強くなった。少し早い鼓動が、背中から伝わってくる。 「知ってる。そんなこと、とうの昔に知ってたさ」  どれだけ一緒に居たと思ってるんだ、と瞬が笑った。 「君の愛情は大きすぎるのに、俺たちのいた世界は狭すぎた。そこに心を押し込めようとして、歪んで、傷ついた。……それだけだよ」  言葉と共に、温かな吐息がこめかみに触れる。  悠がゆっくりと後ろに体重を移すと、上から覆い被さる影に身体を包まれた。  目を開けると、頭上より遙か上にある短い癖っ毛が、呼吸に合わせて揺れているのが見えた。そこはまだ幼かった頃の名残を色濃く残しているのに、その下にあるのはきりりとした弧を描く眉。そして、優しく悠を見つめる大人の瞳。 「傷はいつか癒える。だから」  悠はゆっくりと、彼の頬に手を伸ばした。 「怖がらないで。俺から逃げないで」  言葉と共に温かな雨が降ってくる。雨は悠の頬を濡らし、唇を潤して、乾きをいやしてゆく。  ――あぁ。  悠は嘆息した。  ――君は、僕の知らない間に、こんなに大きくなっていたんだね。  小さかった瞬の、きらきらとかがやく瞳を覚えている。抱きしめたときの高い体温を覚えている。  それは消えてしまったのではなかった。いとけない約束を守って、変わることのない愛を与え続けてくれた。小さな手も、大きな手も、いつも自分の隣にあった。  ――愛したい。この人を、愛したい。この人に愛されたい。 「瞬……」  悠の手が瞬に触れる、その寸前。瞬がさっと身を離した。  突然離れてしまった温もりに、悠が戸惑う。背後を振り返ってもう一度問い返そうとした言葉を、瞬が遮った。 「ダメだよ」  いきなり飛び出した拒絶の言葉に、悠が口をつぐむ。だが瞬は構わず続けた。 「悠のバカ。バカ悠。言いたいことは、ちゃんと起きて言わなくちゃだめだ」 「……え?」 「夢の中で言って済まそうなんて、俺は許さないよ」 「これ……ここ……」 「なんだ、気付いてなかったのか?」  戸惑う悠に、瞬はゆっくりと悠の手を取って、両手で包み込むように握った。 「ここは、君の夢の中だ」 「まさか。だって今までこんな夢、見た事なかった」  夢の中で人と話をするなんてこと、一度もなかった。 「夢なんて、ひどいことばっかりだったよ。こんな、こんな……」 「悠」 「……はい」 「俺、待ってるから」  瞬が、笑顔を悠に向けた。 「悠が戻ってくるの、待ってる。起きたら、ちゃんと聞かせて?」  柔らかな微笑みの奥の真摯なまなざしに、悠は胸が高鳴るのを感じた。  夢の中だというのに、この胸を焦がす切なさと愛しさは一体何だろう。  瞬を見上げると、勝手に溢れてきた涙で視界が霞んだ。  瞬きをする度に、ぱたぱたと大きな音を立てて水滴がこぼれ落ちる。 「……必ず」 「うん」 「必ず、帰る」 「……うん」  瞬の手が頬に触れた。  悠は目を閉じて、その手に頬をすり寄せる。 「シュ――」  * * *  晩夏の風が、剥き出しのコンクリートの上を吹き渡る。  秋の気配を含んだ空気が、敬の髪をゆっくりと撫でた。  顔に掛かった髪を振り払おうと手を上げて、痛みに軽く呻く。  研究所を半壊させた爆発の中、敬と涼は負傷した。敬は左腕、涼は右腕を同じく骨折した。  二人して庇った真が軽傷で済んだのは、まさに不幸中の幸いだった。  真が破片に押しつぶされていたらと思うと、今更ながらにぞっとする。  敬が無意識に腕を擦ったとき、後ろから声がした。 「痛むか」 「……いや」  敬は前を向いたまま答えた。  涼が隣に立った。  能力を使っているわけでもないのに、隣に立つ男からは冷気を感じる。すっかり慣れてしまった温度にちらりと視線をやると、こちらを見つめる目とぶつかった。 「なに」 「元気ねぇのな」  断言されてむっとするが、確かに自分の内に居座る無気力に気付いて、敬は曖昧に頷いた。 「なんか、気が抜けた」 「……まぁなぁ。もう、三年近くになるのか? あそこを逃げ出してからこっち、ずっと気張ってたからな」  しかたねぇよ、と言う涼の声は、いつもの皮肉っぽさも屈託も無い。 「本当に、終わったんだな……」 「あぁ」  その言葉のいささかの陰りに、涼はただ頷く。  彼らは研究所の呪縛から解き放たれたが、その代償は大きかった。  悠は未だ目覚めず、瞬もまた心と体に深い傷を負った。 「惚けてる暇はねぇぞ」 「……うん?」 「悠の世話は必要だし、瞬は目が離せないし。警察の事情聴取もまだ続くし、暁の面倒も見てやんなくちゃなんねぇだろ? 研究所の後始末は小野寺さんがやるって言ってたけど、任せっきりって訳にもいかない。真を学校に行かせてやりたいし、俺たちの住むところや仕事もどうにかしなくちゃならないしな」 「住むところ?」  敬が首を傾げて涼を見返した。今、彼らは瞬と悠のマンションで過ごしている。留守宅に上がり込むのも気が引けたが、長期間空き家にするよりも人が暮らしてくれた方が良いと、東城が勧めたのだ。 「なんで?」 「もう逃げ回る必要、ないんだぞ」 「あぁ――そう。そっか。そうなんだな」  瞬と悠は、この地を動くことはないだろう。それならば敬と涼と真、三人がこちらに移ってくればいい。 「またみんなで暮らせる」  涼がそう言うと、ようやく敬が笑った。 「本当にやることいっぱい、山積みだなぁ」 「悠が退院するまでに、全部済ましておいてやろうぜ」  悠はきっと、いや、間違いなく泣いて喜ぶだろう。その顔を思い浮かべると、敬はしおれていた心が急に沸き立つのを感じた。 「よし、気合い入れ直すか」  敬はそう言うと、ギプスで固められている方の腕をわざと掲げて見せた。すぐに涼も、白い右腕を持ち上げる。互いにぶつけ合うと、ゴツンと荒っぽい音がした。  と、その音に呼ばれたかのように、背後でドアが開いた。同時に、鋭い声が響き渡った。 「あぁっ、こんなとこにいた!」  咄嗟に首を竦めた敬を、また涼が笑う。 「これから処置の時間だってのに! まさか屋上にいるとは思わなかったよ!」 「電話、鳴らせば良かっただろ」 「さっきから鳴らしてた! かけてたけど出ないじゃん!」 「んじゃぁ、テレパシーで……」 「こんなくだらないことに使いたくないよ!」  真は二人の腕を取ると、ぐいぐいと引っ張った。 「看護師さんカンカンだよ! 待たせてるんだから早くっ!」  * * *  カフェテリアの片隅。埃っぽいテーブルの上に、安い紙コップのコーヒーを載せ、黒川は椅子に浅く腰掛けていた。  背をだらしなく背もたれに預け、尻はもう椅子から落ちかかっている。  他の客がいないのを良いことに、足をもう一つの椅子に乗せ、微妙なバランスで半分寝そべりかけながら、彼は手元のデジタルカメラを弄っていた。  その背後から、近づいてくる足音があった。 「……なんか用かぁー?」  黒川が後ろも振り返らず言った。 「すげぇ態度だな」  言葉を投げかけられた相手も、ぞんざいに答える。  続いて椅子に引っかけていた足を下から蹴り上げられ、黒川は渋々足を下ろして椅子に座り直した。 「暇そうだな」 「ひまじゃねーよ」 「病院のカフェテリアでクダ巻いてるのが暇じゃなくてなんだよ」 「ひまじゃないですぅー。誰かさんの持ち込んだ爆弾で、あっちもこっちも大騒ぎですぅー」  口を尖らせた黒川の前に、くたびれたスーツ姿の男が座る。男は笑っていた。 「沢野クン、ご機嫌だなー」 「まぁな」  その理由は大体予想が付いた。例の事件は被疑者死亡という形で幕が下りたが、公安にとってはそんなことは些事でしかない。裏帳簿の存在から始まって、政財界との裏工作や癒着の証拠が山のように出てきたという話は、漏れ聞こえるどころか、今現在も、多方面からもたらされている。公安当局にしてみれば宝の山を掘り当てた気分だろう。加えて、彼らは外事課の追っていた北の工作員も拘束した。外交上かなり有利なカードを手に入れたのだというが、一介の雑誌記者の黒川にはどうでもいい話だった。とにかく、警察、公安、特捜、検察、弁護士、ありとあらゆる連中を巻き込んだ大騒動になっている。  あの日撮影した写真や動画は奇跡的に無事だった。動画の方は公安に抑えられてはいるが、写真は差し障りのある箇所を加工するという条件で、誌面への公開を許された。  少年達への虐待、人体実験、後ろ暗い団体からの資金調達。ぼかして書いたが、政界との黒い疑惑。とにかくセンセーショナルな内容の記事は当初、いつも通りの飛ばし記事だと軽く受け流されてしまったが、直後に慌ただしくなった警察の動きに俄に信憑性を増し、あっという間に、黒川は業界の内で時の人になってしまった。 「社の電話、もう鳴りっぱなし。逆取材の依頼がすげぇのなんのって。仕事になりゃしねぇ」 「いやいや、例の事件を匂わせるだけで雑誌がバカ売れと聞いてますけど?」  ニヤニヤと底意地の悪い顔で沢野が笑う。内心面白くなかったが、やはりこの状況に導いてくれた沢野には、頭が上がらない。  そのまま悪態を続けてやろうと口を開いたが、その時すっと脇を通り過ぎた人影があった。咄嗟に口をつぐむ。と、その人影がそのまま沢野の隣に座った。黒川は初めて視線を上げた。  男だ。  穏やかな微笑を口の端にたたえた、控えめなフレームの眼鏡の男だ。 「……どちらさん?」 「んー?」  沢野が火を付けないままの煙草を口端にくわえて、相変わらずニヤニヤと笑っている。 「うわ、やっぱ聞きたくねぇ」 「んだよ」 「今の! その顔! 鏡で見て来いよ! もンのすげぇクソ意地の悪い顔してる」 「いい男だろ」 「腹立つ……」  心の底から吐き捨てられた台詞に、ますます沢野が笑った。 「お前に幽霊さんを紹介しようと思ってよ」 「……幽霊」  黒川が目の前の男をまじまじと見た。 「透けてない」 「足もありますよ」  男が言った。  言われて、黒川がもう一度相手を見つめる。 「あんた、どこかで……」  見覚えがあった。直接に会った記憶ではない。たぶん、資料をかき集めた中にあった写真か何かだ。記憶はまだ新しい。どこで見たんだったか……。  黒川が答えにたどり着く前に、男は笑って名乗った。 「大津と申します」 「大津……おおつ、おおつ、……お、お、つ――」  音が漢字になり、写真と並ぶ。それで、黒川の中の回路がカチリとはまった。 「あ、んた、そうだ、小学校の」  暁を探っていたときに瞬と真の情報が引っかかった。その、瞬の小学校時代の担任で。 「死んだはず……事故か、自殺か……」  動揺を隠せない黒川を、大津はニコニコと、沢野はニヤニヤと見つめている。 「一体……」 「隠れている必要がなくなりましたから」  その一言で、黒川は全てを理解した。目の前のいけ好かない旧友か、例の暁青年か。あるいは二人が結託したのか。  とにかく神崎の手が及ぶ前に大津を匿ったのだろう。公安はまた一つ、貴重な証拠を手に入れたわけだ。 「二人に会いに来たんですか?」 「いえ、会うのは彼が落ち着いてからということになりました。今会っても、瞬君を余計混乱させてしまうだけです」  瞬は重傷、悠は未だ意識が戻らない状態だ。加えて、瞬は精神状態が安定せず、厳重な監視付きだと聞いている。 「でも、どうしても二人の無事を確かめたくて。沢野さんに無理を言って連れてきていただきました」  そう言って、大津は屈託なく笑った。 「……俺に引き合わせたって事は、記事にしても良いのか」 「あぁ」  沢野が短く答え、黒川は却って驚いた。 「へ」 「元々この人を匿ったのもこっちの独断だったし、例の埠頭の事故であがったのが誰だったのか、っつーのはまぁ、所轄が頭を悩ます程度の話だしな」 「誰だったんだ」 「ひみつー。まぁ、あること無いこと好きに書いてくれよ」 「良いのか」 「お前んとこの十八番だろ? 書けば書くほど嘘っぽくなんの」 「くっそ、否定できねぇ」  あからさまに舌打ちして、黒川は更に追究をしようとした。だが、それは後ろから被さってきた足音に遮られる。  足音は三つ。  それに続いた、よく通る声が二つ。そして、涙声が一つ。  大津が立ち上がって、笑顔でその声を受けとめた。  * * *  小野寺は、真新しい墓石の前でぼんやりとその石の光沢を目に映していた。  晩夏の、じっとりと熱の籠もった日差しが、石の表面を舐めて行く。  悠に心臓を握りつぶされ死んだ男は、司法解剖の後小野寺の手によって埋葬された。  生前の体躯に似合わない、簡素な墓石だった。  それでも、花を捧げ線香とろうそくを灯すとそれなりに見える。  小野寺は設えを済ませると、その場に膝を突いた。  ツクツクホウシの声が耳につく。  夏が、人の夏が、終わろうとしている。  小野寺は汗を拭うこともせず、ただ墓石を見つめた。  小野寺の視界に、ふと影が差した。  雲か、と顔を上げたそこにあったのは武骨な雨傘だった。  驚いて傘の差し手を見上げる。 「病み上がりが無理をするな」  懐かしい旧友が彼を見下ろしていた。 「お前が差配したのか」 「……息子があれだからな。お袋さんも亡くなっているらしいし、おやじさんは音信不通だ」  小野寺が言った。忠は今、暁と共に公安の監視下にあると言う。  表には出せない重要参考人として、しばらくはこの状況が続くのだろう。 「兄貴も……あいつの兄貴も、後でここに入れてやろうと思ってる」 「そうか」  日よけの雨傘が揺れて、足下の影も揺れる。膝を突いたままの小野寺を、影が覆う。 「東城」 「……おぅ」 「いろいろ、すまなかった」 「構わん。……というか、お前には感謝している」 「感謝?」 「かわいい息子が出来たからな」 「あぁ……うん。そうか」  小野寺は照れたように笑った。養子に迎えるほどにまで彼らのことを大切に思ってくれたことが、嬉しかった。 「良い子たちだろ?」  東城が頷く。 「俺も、この一件で色々考えさせられた」 「……」 「人を守る覚悟ってのは、難しい。瞬坊を見ていたらな、俺が組を守ろうと決めた覚悟なんざ、子供の指切り程度のもんだったと思い知った」 「……俺は、未だによく分からないよ」  小野寺は、黒曜石の鈍い輝きを見つめたまま言った。 「悠は瞬のために命をかけた。瞬は、悠を諦めなかった。神崎は、兄貴を蘇らせるために悪事に手を染め続けた。……どうして、そこまでして相手を求めるんだろう」 「お前は」  隣の男もまた、墓石に視線を落とす。 「どうしてこの男の隣に居続けた?」 「……わからない」  小野寺が言う。 「ただ……ただ、こいつは、ひどい奴だった。本当に、最低の奴だったのに、俺は……」  静かな声に、別の色が滲む。 「俺はあいつを叱って、やり直したいんだ。俺はそれが出来る場所に居た。あいつを糺してやれば良かった。そうしたらもっと違う形で、神崎は救われたかも知れないのに」 「……」 「結局十年もかけて、分かったのはそれだけさ。結局残るのは後悔ばかりだ」 「お前なぁ」  突然、小野寺の頭頂部に硬いげんこつが落ちてきた。衝撃に、うっと息が詰まる。 「……なんだよ」  うっそりと相手を見上げると、東城は思い切り眉根を寄せて、小野寺を見下ろしていた。 「ひねたことスカしてんじゃねぇ。寂しいなら寂しいと、そう言えば良いんだ」 「……寂しい……?」  まるで安っぽいチンピラのような口ぶりに毒気を抜かれて、小野寺はただ問い返す。 「あんな最低な男相手に……寂しいって?」 「知るか!」  東城は苛立ちを隠さず、言葉の勢いそのままに小野寺の腕を取って、無理矢理引きずり立たせた。 「後悔ってのは生きてるから出来るんだ。だからな、生き残った者は盛大に後悔すれば良いんだよ。あとついでに、働き口を紹介してやる」 「……は、……え?」  唐突に話をねじ曲げられて戸惑う小野寺を、東城は無視した。 「知り合いの医者が手伝いを欲しがってる。ちんけな町医者だから、給料は正直あまり期待するなよ」 「……」 「町医者だから、内科から外科まで大抵の面倒は見る。あぁ、モグリじゃねぇから安心しろ。レントゲンを扱える技師が暇してるっつったら、オヤっさんえらく乗り気になっちまって。今更断れねぇんだよ。組の連中もよく世話になっててな、口は悪いが若い衆にも慕われてる」 「……お前、高校の時からそのお節介、ぜんっぜん変わってねぇのなぁ」  小野寺は呆れて言ったが、顔は笑っていた。くだけた言葉に、つい昔のことを思い出す。東城なりの気遣いなのかも知れないと、小野寺はくすぐったく思った。 「るせぇよ、もう性分だ。一応言っとくがこれはお節介じゃねぇ。お前に受けた恩の返礼分だ」 「……恩?」 「……高校、卒業できたのはお前のおかげだからな」  途端に、小野寺は盛大に吹き出した。 「いまさら……いやそうか、あの時勉強見てやったの、律儀に覚えてたんだな」 「……ふん」  それまで満ちていた憂いを含んだ空気が、急速に薄れて行く。これでいい、と東城は思った。  ――どんなに悲しくても寂しくても、生きてるヤツは先に進まなきゃならねぇんだ。  東城は、今度は小野寺の背を力一杯叩いた。 「オヤジはおっかねぇぞ。俺でも、怒鳴られたらビビる」 「それは……雇われるにも覚悟が要るな」 「おぅ。それに人使いも荒い」 「いいよ。俺今、だいぶ腑抜けてるから、根性叩き直して貰おうかな」  小野寺は一度ぐいと背を伸ばすと、東城に正面から向き直り手を差し出した。 「それじゃ、お世話になります」 「……おぅ」  東城の力強い手が、冷たい手を握り返した。  * * *  何かが頬を撫でた。  その動きは、急速に悠の周囲の虚無をぬぐい去った。  まぶたを覆っていた重みが、ふっと消える。  それにつられるように、悠はゆっくりと眼を開けた。  見上げた先にあるのは、白っぽくて、所々灰色の汚れのあるパネルの群れ。  あぁ、天井か。ぼんやりとそう思った。  いつもと同じ光景。閉じられたまま抜け出すことも諦めてしまった空間の中で、こうして目覚めることを繰り返す。  身体は重く、瞬きすら億劫だ。動くことを放棄してしまった四肢は、力を入れてもぴくりとも動かない。  もう一度眠ってしまおう。夢も見ないで、永遠に眠りたい。  そんなことを考えていると、ふと、頬に当たる風に気付いた。  悠は視線だけをゆったりと動かした。  穏やかな風の流れ来る先を見遣る。そこにあったのは、煤けたカーテン、ではなかった。  白いブラインドが下ろされ、その隙間から光が見える。清潔なブラインドは時折風に煽られて、ふらふらと揺れている。  視覚と触覚に続いて、嗅覚が戻る。  消毒液の匂いの中に、乾いた緑の匂い。あの鼻にまとわりつくような湿った土と埃の匂いは、今はどこにもない。  ここは、どこ?    ふと胸に沸いた問いに、悠が一度、ふっと息を吐いた。と。  その視界に突然、一人の青年の顔が現れた。  頬が痩け、顔色は悪く、目は落ちくぼんでいる。髪はあちこちに跳ね回っていてぼさぼさだ。  青年は形の良い眉をぎゅっと寄せ、悠を見つめた。唇が震えているのが分かる。  悠は、彼が泣くのだと思った。  物問いたげに開かれていた唇はすぐに閉じられ、その向こうで喉仏が何度も動くのが見えた。  ――我慢するときの、彼の癖。  言葉も涙も何もかもを飲み込んで堪えようとするのに、結局我慢できなくて涙の雫が零れる。  あぁ、今も。  悠がその眦に視線を流すと、それに引き寄せられるように涙がぽろりと、こぼれ落ちた。 「――シ……」  声に出したはずの言葉は、喉の痛みに引っかかって、吐息だけになってしまった。  けれどそれも、相手の耳には十分に届いたらしい。  ぽろぽろとこぼれる涙を拭うこともせず、瞬は悠の顔をじっと見つめている。  悠は声を出すのを諦め、代わりに精一杯の力で唇を動かした。  ――愛してる。君を。君だけを。  吐息だけで形作られた言葉は、恭しく寄せられた瞬の唇の中に消えた。  完

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