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第12話 朧月-硝子写しの涙-
"Man lebt nur einmal."(人生は一度きりである)
"Gib also nicht auf, um es nicht zu bereuen."(だから諦めてはいけない、後悔しない為に)
"――Und dann war es soweit."(――そしてその時は来た)
夢を見た。
それは宛ら白昼夢のように幻想的な、美しい夢だった。
真夏の逃げ水のように捉えどころがなく、花の命の如く短く儚い。ただの夢というにはそれは余りにも――。
これは、彼に想いを伝えなかった俺が、俺たちが辿った、もう一つの道の話。
強い光は影をより一層濃くさせる。
記憶の中にある彼の笑顔や言葉、仕草のひとつひとつは時に俺の心の内を照らす一筋の温かな陽の光のようであり、時に俺の中にある――罪のように仄昏い――後ろめたさを暴く雷光のようでもあった。
彼を愛しい、と思い始めたのはいつからだったか。
彼に縁談が持ち上がろうが、想い人が出来ようが、俺の中に醜い嫉妬の念が渦巻くなどということは一切無かった。強がりなどではない。ただ彼の傍にいられればそれで良かった。彼は親友として俺の事を見ていたし、俺もその状況に満足していた。
勿論、想いを伝え、彼と結ばれれば、それは本当に夢のような幸せだと思う。が、思うだけだ。
俺の罪に似た後ろめたさの正体、それは、彼への思慕の念そのものだった。
いつしか俺は彼への気持ちに蓋をし、見ないふりをした。俺は自らを弱い人間だと、そう思った。
ある日のこと、駅前の喫茶店にいた俺は、ついいつもの様に無意識の内に、彼の横顔に見惚れていた。
「……どうした、またじっと俺の事なんか見て」
雨が降りしきる窓の外をぼんやりと眺めながら、彼が尋ねる。
ついいつもの癖で、無意識の内に彼の横顔に見惚れていたことを後悔した。
しまった、と視線を逸らしながら、俺は必死に言い訳を考える。こちらを見ていないからと、すっかり油断をしていた。
「……否、なんでもない」
結局咄嗟に言葉が出ず、気まずそうに紅茶を啜った俺を見て彼は、
「へぇ」
と、したり顔でにやつく。
「さては月浦。君――見惚れてたな」
彼が愉快そうに笑う。
あぁやはり雷光だ、と思った。告白の一つすらすることが出来ず、平穏を望み、彼の親友という立場から決して動こうとしない、弱い俺への彼からの罰だと。
「男なんかに見惚れてどうする」
そう言って、さも呆れたふうに溜息を吐き、興味がないというふりをしながらも、俺の心中は穏やかではなかった。
「相変わらず素直じゃないね、君は」
と苦笑いしながら彼はこう続ける。
「好きになった相手が女性だろうが男性だろうが、蝶や花だろうが、なんであろうが好きになったなら仕方ない。理論や常識ではなく、重要なのは心だ。愛や恋とはそういうものだよ」
俺はそう思う、と彼はテーブルの上にあるカップを手に取り、紅茶を口にした。
「まぁ……なんだかんだ言って俺は好きだけどね、月浦のそういうところ」
彼はしばしば嘘かまことか分からない事を口にしては、俺を翻弄した。
――そんな日々がずっと続くのだと、そう思っていた。
その日、俺は溜まっていた仕事を理由に、彼からの泊まりたいという申し出を断わった。彼は少しだけ寂しそうに笑って、じゃあまた、と言って去った。
それから暫く経ったある日の夜のこと。俺は書斎の片隅で途方に暮れていた。
彼から借りていた本を返そうと本棚に手を伸ばしたところ、それはするりと掌をすり抜け、大きな音を立てて床に落ちてしまった。それだけならまだしも、困った事に、落ちた拍子に本に挟んであった彼の御気に入りの木製の栞が壊れてしまったのだった。
その栞は薄く切られた香木に繊細な細工で蝶の姿――姿かたちからして恐らく揚羽蝶だろう――を模ったもので、本に挟むと香りが移り、頁を捲ると仄かに白檀が香るという風流な品であった。それが、ほぼ中心の辺りで真っ二つに割れている。
やってしまった。同じ品は手に入るだろうか、無理ならば弁償しなければ…そんなことを考えていると、ふと机上に開かれたまま置かれている、読みさしの本に書かれたある一文が目に留まる。そこに書かれていた文言はこうだった。
"Gib also nicht auf, um es nicht zu bereuen."(だから諦めてはいけない、後悔しない為に)
"――Und dann war es soweit."(――そしてその時は来た)
その時、虫の知らせというのだろうか、何故か言葉に出来ない妙な胸騒ぎがしたことを今でもよく覚えている。
その翌朝、彼の訃報を耳にした。瀬川による報せで、死因は前日の夜に遭った交通事故による即死だったという。苦しまずに逝けたであろう事が唯一の救いと言うべきだろうか。
然しもう二度と彼の声を聞くことも叶わず、笑顔を見ることも、触れることも叶わない。地獄のようだ、そう強く思う。地獄に生きながら、俺は涙一つ流さず、静かに彼を見送った。
俺はその日、本当に哀しいことがあった時、人は泣けないものなのだということを知った。
結局、俺は何も出来なかった。否、しようとすらしなかった。
もし叶うなら、彼にもう一度逢いたい。そして想いを告げられたなら――例えどのような結果になろうとも――どんなに良いだろう。
そんな事を夢想しては、彼のいない現実を思い出し、どうしようもない相違がある事に苦しんだ。
あの日見た本の言葉に、俺は苛まれ続けている。
神も運命も恨むことなく、俺は己の弱さを恨んだ。
ただ只管に強い後悔の念だけが俺の中に残った。
それから暫く経ったある夜の事。
――夢を見た。
空はちょうど黄昏から夜の闇へと変わる狭間。
霧深い森の中、湖のほとり。
蝶の羽ばたきすら聞こえてきそうな静寂の中、ただ彼と二人きりだった。
湖を覗き込むようにして屈み込んでいる彼の白い首筋を斜め後ろから見下ろすようにして、俺は彼の事を眺めていた。
濡羽の黒髪、白い指先。潔癖で繊細、そして優しい、見慣れた親友の姿が、そこにはあった。
罪の、ような――。
「……春」
意を決し名を呼ぶとゆっくりと彼が見上げるようにして俺を振り返る。
「何だ」
どうかしたか。
嗚呼。この声、この表情だ、とそう思う。途端に強烈なノスタルジアが込み上げる。
彼は、生前と変わらずとても美しかった。
――静寂。
玉響のように僅かな時間だった。然しまるで途方に暮れる程の歳月が経ったかのような錯覚に陥りかける。
絡みつく焦燥を振り払おうと俺は緩くかぶりを振った。そして、
「……愛してる」
ずっと好きだった。
「ずっと」
泣き出したい気持ちをぐっと堪え、渇いた咽から絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……うん」
彼はいつものように茶化す訳でもなく、ただ俺をじっと見つめ、
「知ってたよ」
とそう呟く。そして、
『……月のひかり泉にゆらめき映ゆる時、われ、おん身を思う』
『われ、おん身のもとにあり、よしやおん身遠く隔たりてあるとも、おん身わがかたえにあり』
と静かに諳んじた。その頬を、降り始めた雨が一筋、涙のように伝う。
「あぁ……やっと聞けた」
彼はそう言って立ち上がり、俺の方へと手を延ばす。
「ありがとう、月浦」
木蓮の花を思わせる、その柔らかで温かなたなうらが、俺の骨張った両の手を優しく包み込む。
「やっと、言えた……」
緊張の糸が切れ、震え嗚咽する俺の肩を彼がそっと抱き寄せ、そのまま抱擁をする。
降り頻る雨の中、泡沫の抱擁。彼の手にした永遠は、俺にはまだ遠く。
どれだけの時間が経ったのだろうか、それは一瞬にも、永遠にも思えるひと時だった。
気づけばいつの間にか雨は止み、空には満ちた月が浮かんでいる。
ふと腕の中を見ると、抱き締めていた筈の彼は、一頭の美しい烏揚羽に姿を変えていた。
――待ってる。
そう静かに告げる声が、俺の耳元で朧気に聞こえた。
蝶は霧の中、濃紺の空に浮かぶ満ちた凍える月へと羽ばたき、還っていく。
そんな――夢だった。
目を醒ますと窓の外は嵐で、立ち上がった俺は魂を抜かれたように、今しがた溺れていた夢を反芻する。窓を叩く雨が硝子に映った己の頬を濡らしていくさまを、ただぼんやりと眺めながら。
――待ってる。
『……君いまさねば
いずこも墓場』
そう呟き、俺は微かに震える手でベッドサイドの引き出しから折りたたみナイフを取り出すと、目を閉じて深呼吸をする。そして、静かに切先を己に向けた。
"――Mein Geliebter, du warst mein Ein und Alles."(――愛しき人よ、あなたは私の全てであった)
(※Alexander Maler著「Bis wir uns wiedersehen」(また逢う日まで)より引用)
(※ゲーテ著、高橋健二訳「ゲーテ詩集」収録「恋人を身近に」、「心の落着き失せて」/新潮社/一九五一年/百六十四〜百六十五頁、及び五十九頁より引用)
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