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水の檻

 アークの朝は、サイレンの音で始まる。  規則正しい三回の電子音が、起床と同時に各居住区のスピーカーから流れる。蒼井凪はその音を聞く前に目を覚ましていた。いつもそうだ。眠りは浅く、夢はほとんど見ない。見たとしても、起きた瞬間にすべて溶けて消えてしまう。  窓のない部屋。壁の代わりに、水位を示す緑色のラインが天井近くまで這っている。アークの居住区はすべて海面より下にあり、外の景色というものを凪は知らない。知っているのは、施設の中だけで完結する世界の輪郭だけだった。  着替えを済ませ、配給された朝食――栄養素を固めたゲル状のバーを一本だけ口にして、凪は清掃用の端末を腰に下げる。今日の割り当てが表示される。 - - 本日の業務区分:D-7清掃班 特別配属先:評議会補佐執務室(上層3F) 注意事項:当該区域は最高機密保持対象です。私語・接触を厳禁とします。 - -  眉根を寄せる。今までこんな割り当てを受けたことはなかった。Dランクが上層に足を踏み入れることすら、本来なら稀なことだ。  けれど、凪に拒否権はない。スコアDの人間に許されているのは、与えられた業務をただ遂行することだけだ。 --------{---(@  上層へのエレベーターは、下層のものより静かだった。振動も、軋む音もしない。乗り込んだ瞬間、空気の匂いさえ違うことに気づく。フィルターの性能が違うのだろう。下層では常に微かに錆と塩の匂いが漂っているが、ここにはそれがない。  扉が開く。  廊下は白い。あらゆる場所が白く、無駄なものが一切ない。歩く人間の数も少ない。すれ違う誰もが、凪の存在に気づいた瞬間、わずかに視線を逸らして道を空けた。Dランクの清掃服――左胸に刻まれた黒い「D」の文字が、何よりも明確に凪の立場を示している。  評議会補佐執務室。プレートにはそれだけが記されていた。  凪はドアの前に立ち、認証端末に清掃許可コードを通す。ロックが解除される音。中に入ると、部屋の主はまだそこにいなかった。安堵に近い感情が、わずかに胸の奥を緩めた。誰もいない場所での作業は、いつも気が楽だ。誰かの視線にさらされずに済む。  机、書架、壁一面の資料端末。整然としすぎていて、生活の匂いがしない部屋だった。凪は黙々と作業を始める。床を、机の足元を、窓枠の縁を――この部屋に窓があることに、凪は少し驚いた。上層には外を見るための窓がある。水位ラインの上、海面に近い場所に位置しているからだろう。  灰色の海面が、分厚い強化ガラスの向こうに広がっている。波はほとんどない。空は、いつも同じ濃さの雲に覆われている。  その景色に見入っていた数秒間――凪は、背後の気配に気づかなかった。 「珍しいな」  声がして、凪は反射的に身体を硬くした。振り返る前に、相手がどこに立っているかを気配で察知する。それは生き延びるために身についた習性だった。  ドアのところに、一人の男が立っていた。  御堂瑛。  名前は知っている。施設に住む誰もが知っている名前だ。最高評議会補佐。スコアS+。施設の意思決定に直接関与できる、ごく少数の人間の一人。  その男の視線は、まっすぐに凪へ向いていた。観察するような、値踏みするような目ではない。もっと奇妙な――何かを確かめるような視線だった。 「失礼しました」  凪は短くそれだけ言って、頭を下げる。それ以上の言葉は求められていないはずだ。Dランクが評議会補佐に許される会話は、業務連絡の範囲を超えてはならない。規則はそう定めている。  けれど、瑛は動かなかった。ドアのところに立ったまま、凪を見ている。 「名前は」 「……規則では、業務上必要のない会話は」 「俺が聞いている」  短く遮られた。凪は一瞬、言葉を選ぶ。逆らう選択肢はない。 「蒼井、凪です」 「凪」  瑛がその名前を口の中で繰り返した。確認するような、あるいは記憶に刻みつけるような響きだった。 「いつもの清掃班とは違う」 「本日より、この区域の清掃を担当することになりました」 「いや」  瑛は首を振る。違う、と言いたいのはそこではないらしい。 「お前は、俺を見なかった」  凪は瞬きをした。意味がすぐには掴めない。 「他の人間は皆、俺を見る。媚びるように、怖がるように、あるいは取り入ろうとするように。お前は違った。窓を見ていた。俺がここに立っていることに気づいているはずなのに」  それは、と凪は思う。それは単に、目を合わせる理由がなかったからだ。Dランクが上位者と目を合わせることは、推奨されない。だが、それを口にすることは、もっとためらわれた。 「不快にさせたなら、お詫びします」 「いや」  瑛の声に、わずかな変化があった。凪にはその変化の名前がわからない。ただ、何かが――今まで聞いたことのない響きが、その短い言葉に混ざっていた。 「不快ではない」  瑛はそれだけ言って、机のほうへ歩いていく。凪に背を向け、何事もなかったように資料端末を立ち上げる。会話は終わったということだろう。凪は黙って作業を再開した。  けれど、部屋を出る瞬間まで、背中に視線を感じていた。  その視線の意味を、凪はまだ知らない。 --------{---(@  その夜、下層居住区の狭い個室で、凪は配給された記録端末を開いた。一日の業務報告を入力する欄に、機械的に文字を打ち込んでいく。 - - 本日の特記事項:なし - -  なし、と打ってから、凪は少しの間その文字を見つめた。  本当に、なし、なのだろうか。  御堂瑛という人間が自分に向けた視線の意味を、凪はまだ言葉にできない。だが、何かが――今までの十九年間、一度も動かなかった何かが、わずかに位置を変えたような感覚があった。  それが何なのか、確かめる方法を凪は持たない。  窓のない部屋の天井を見上げ、凪は目を閉じる。緑色の水位ラインの光だけが、闇の中でかすかに部屋を照らしていた。

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