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最適解の外側
御堂瑛は、退屈を知っていた。
物心ついた頃から、すべてが早すぎた。人の言葉の意図を読むのも、問題の答えを導くのも、場の空気を操るのも——考えるより先に、結論が見えてしまう。施設の上層で生まれ、スコアS+の評価を受け、二十三歳で評議会補佐の座に就いた。誰もが羨む場所に立ちながら、瑛はずっと、薄い膜の中にいるような感覚を拭えなかった。
世界が、遠い。
人間が、薄い。
執務室の窓から海を見る習慣が、いつからか身についていた。灰色の水面は何も語らず、何も求めてこない。その無関心だけが、瑛には心地よかった。
だから最初、蒼井凪のことも気にしなかった。
清掃班の人間が部屋に入ることは珍しくない。許可証を持った作業員が決まった時間に来て、決まった動線で掃除をして、出ていく。瑛はその存在を認識しながらも、視界に入れない。空気と同じように扱う。それが互いにとって、最も効率的な関係だと知っていたから。
しかし、あの朝は違った。
扉を開けた瞬間、室内に人間がいることに気づいた。それ自体は想定内だ。だが次の瞬間、瑛は微かな違和感を覚えた。
窓の前に立つその人間が、こちらを振り向かなかったのだ。
気配には気づいているはずだった。足音も、扉の音も、十分に聞こえる距離だ。それでも凪は、窓の外を見たまま動かなかった。振り返るそぶりさえなかった。
瑛は三秒、その背中を見ていた。
三秒というのは、瑛にとって長い時間だ。通常、他者の行動の意図を読むのに一秒とかからない。だがこの人間の「振り向かない」という選択の理由が、すぐには見えなかった。恐怖か。無関心か。それとも——
「珍しいな」
声に出してから、瑛は自分が口を開いたことに少し驚いた。作業員に話しかけるのは、業務上の指示を除けば、ほとんど前例がない。
凪がようやく振り返った。
顔を見た瞬間、瑛はもう一度、止まった。
感情がない、と思った。正確には——感情を削ぎ落としたような顔だ。恐れも、媚びも、好奇心も、そのいずれも表面に出てこない。目だけが、静かに瑛を見ていた。値踏みでも、崇拝でもなく、ただ、見ている。
これまで、誰もこういう目で瑛を見たことがなかった。
「失礼しました」
凪の声は低く、抑揚が薄かった。頭を下げる動作も、過剰でも不足でもない。必要最小限の礼だった。
瑛は名前を聞いた。なぜ聞いたのか、自分でもうまく説明できなかった。必要な情報ではない。業務上、清掃班の個人名を把握する義務は何もない。それでも、口が動いていた。
「蒼井、凪です」
凪、と瑛は心の中で繰り返した。
「お前は、俺を見なかった」
言葉にしてから、これは説明として不正確だと気づいた。見なかったのではなく、見ていても表情を変えなかった——それが正しい。しかし凪は否定しなかった。ただ、わずかに目を細めた。そこにどんな感情が宿っていたのか、瑛には読み取れなかった。
読み取れない人間が、この施設にいた。
それだけのことが、なぜか胸の奥に引っかかった。
その日の会議は、三時間に及んだ。
資源配分の見直し、下層居住区の人口密度の問題、次期スコア審査のスケジュール調整——瑛は資料を読み、意見を述べ、数字を修正した。何一つ難しいことはなかった。すべては計算通りに進み、評議会のメンバーたちは満足そうに頷いた。
窓のない会議室を出ながら、瑛はふと思った。
今日の作業員は、明日もここに来るのだろうか。
その考えを自分の中で確認してから、瑛は眉をひそめた。こういった、実益のない問いが頭に浮かぶことは、通常ない。効率的でない思考は、意識的に排除してきた。
だが、排除できなかった。
翌朝、執務室の扉が開く時刻を、瑛は珍しく意識していた。業務端末の画面を見ながら、耳だけが入口の方向に向いていた。
足音がした。
扉が開いた。
凪が入ってきた。昨日と同じ清掃服、同じ無表情、同じ動線。瑛のことを一瞥してから、仕事を始める。その一瞥の中に、昨日の会話の痕跡は何も見えなかった。まるで、初対面の他人に向けるような目だった。
瑛は端末の画面に視線を戻した。
しかし文字が、頭に入ってこなかった。
背後で掃除用具が動く音がする。規則的で、静かで、余計な音を立てない。その音だけを意識している自分に気づいて、瑛はかすかに息を吐いた。
これが何なのか、まだ名前を持っていなかった。
ただ、確かなことが一つあった。
この感覚は、退屈ではない。
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