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第1話 職場の姫にライバル認定された
春川幹人(はるかわ・みきと)は、男なのに可愛い。
そんなことを考えているのは、俺だけだと思っていた。
「春川って、普通に可愛いよな」
昼前、トイレの個室から出ようとしたところで、洗面台のほうから同僚の声が聞こえた。
「分かる。男相手に言うのも変だけど、あれならちょっとありかもしれない」
「本人に言うなよ。絶対引かれるぞ」
「言わねぇよ。俺だって一応ノンケだし」
二人分の笑い声に続いて、水道の音が響く。
俺は個室の中で、ドアノブにかけた指を止めた。
なるほど。
俺だけではなかったらしい。
法人営業部の春川幹人は、社内で妙に人気がある。
細身の身体に、清潔感のある服装。目元が柔らかく、話しかけると必ず相手へ身体を向けて答える。声も穏やかで、仕事を頼めば嫌な素振りひとつ見せない。
誰に対しても愛想がいいのに、媚びている印象はない。
気が利いて、よく笑い、仕事もできる。
そりゃ人気も出る。
女性社員からの人気は絶大。
営業部の王子様と呼ばれている。
しかし、男同士の冗談で、姫君なんて呼ばれているのも聞いたことがある。
春川本人は困ったように笑って受け流していた。
俺も、可愛いと思う。
思うだけだ。
女性に向けるものと同じ意味なのかと聞かれると、答えに困る。
春川が笑えばつい目で追うし、廊下ですれ違えば少し得をした気分になる。
ただ、それだけだった。
洗面台にいた二人が出ていくのを待ってから、俺も個室を出た。
鏡に映った自分は、いつもどおりだった。
三十歳の男が、同僚の男を可愛いと思っている。
そう珍しいことでもないらしい。
妙な安心感を覚えながら、俺は営業部へ戻った。
****
昼休み、十一階の社員食堂は混んでいた。
窓の外では、札幌駅前のビルの隙間に、数日前の雪がまだ白く残っている。春が近いとはいえ、外へ出れば吐く息は白い。
俺は日替わり定食のトレーを持ち、空いている席を探した。
「冬城さん、ここ、いいですか?」
聞き覚えのある声に振り向く。
春川が、カレーの載ったトレーを手に立っていた。
「ああ。どうぞ」
四人掛けのテーブルには、向かいの席も空いている。
ところが春川は、俺の隣へ座った。
椅子を引き、俺との間をほとんど空けずに腰を下ろす。
肩が触れそうな距離だった。
「混んでますね」
「この時間はいつもこうだろ」
「冬城さん、外回りじゃなかったんですか?」
「午後からかな」
「へぇ、そうなんですね」
春川はスプーンを取り、カレーをひと口食べた。
普段から同僚との距離が近い男ではある。
人と話すとき、少し身体を寄せる癖がある。
相手の話を聞き漏らすまいとしているようで、嫌な感じはしない。
それにしても、今日は近い。
春川が動くたび、ジャケットの袖が俺の腕に触れる。
「冬城さん」
呼ばれて横を見る。
春川がこちらを見上げていた。
座高の差のせいで、自然と上目遣いになる。
昼休みの照明の下でも、睫毛の影が分かるほど近い。
「なんだ?」
「ネクタイ、少し曲がってます」
春川の指が、俺の胸元へ伸びる。
結び目をつまみ、わずかに整えた。
「朝からそのままだったんですか?」
「たぶんな」
「取引先へ行く前に気づいてよかったですね」
にこりと笑う。
「助かった」
礼を言うと、春川は満足そうにカレーへ戻った。
距離感がおかしい。
それでも、春川なら誰にでもこれくらいするのかもしれない。
そう考えながら味噌汁を飲んだとき、テーブルの下で何かが腿に触れた。
春川の膝だった。
「悪い」
「いえ」
春川は避けなかった。
膝が触れたまま、平然とカレーを食べている。
こちらが意識しているのが馬鹿らしくなり、俺も箸を動かした。
その直後、今度は明らかに膝ではないものが腿へ載った。
春川の指だった。
一瞬、箸が止まる。
「春川?」
「なんですか?」
春川は穏やかな声で答えた。
こちらを見ようともしない。
指先が、スーツの生地越しにゆっくりと腿をなぞる。
「何してるんだ」
「何って?」
ようやく振り向いた春川は、いつもの柔らかい表情だった。
いたずらをしている様子もない。
「お前の手」
「邪魔でした?」
そう言いながら、指は離れない。
むしろ少し内側へ進んだ。
冗談にしては、場所が悪い。
「春川。そこは――」
「冬城さんって、身体、大きいですよね」
声を抑えて言われた。
春川の視線が、俺の肩から胸元へ下りる。
「背も高いし、スーツの上からでも分かるくらい鍛えてるし」
「営業先で舐められない程度にはな」
「へえ」
指が、また動く。
内腿を撫でるというほど露骨ではない。
だが偶然で通せる触れ方でもなかった。
春川の目が俺を捉える。
いつもより近い位置から、じっと見上げられる。
可愛い。
そう思った途端、身体が反応した。
まずいと思っても遅い。
食堂で、隣に同僚がいる。
しかも男だ。
俺はトレーを少し引き寄せ、テーブルの下を隠すように座り直した。
その動きを、春川は見逃さなかった。
腿に触れていた指が止まる。
柔らかかった目元から、すっと笑みが消えた。
「やっぱり」
低い声だった。
「何がだ」
春川は正面を向いた。
周囲から見れば、二人で昼食を取っているだけだ。
表情もすぐに、いつもの愛想のよいものへ戻っている。
だが、テーブルの下では指が俺の腿を押さえたままだった。
「冬城さん」
外向けの穏やかな声で名前を呼んでから、春川は顔を寄せた。
耳元へ、温かい息がかかる。
「営業部フロアは、俺のテリトリーだから」
声だけが低い。
さっきまでの春川と、同じ男とは思えなかった。
「は?」
「聞こえなかった? 営業の男たちは、俺のもの」
俺は箸を持ったまま、春川を見た。
春川は何事もなかったように背を離し、カレーを口へ運ぶ。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
今度はよそ行きの声だった。
「いや、分からない」
「とぼけても無駄だからな」
最後だけ、また声が下がる。
俺の腿を押さえていた指が、ようやく離れた。
「これ以上、俺の縄張りを荒らすな。目障りなんだよ」
「ちょっと待て」
「待ちません」
春川はカレーを食べ終え、スプーンを置いた。
紙ナプキンで口元を拭き、いつもの人好きのする笑顔を俺へ向ける。
「それでは冬城さん、午後の外回りも頑張ってください」
「ああ……」
「ネクタイ、もう曲げないでくださいね」
トレーを持って立ち上がる。
そのまま同僚の席を通りかかり、呼び止められた。
「春川、午後の会議の資料ってできてる?」
「はい。共有フォルダに入れてあります。あとで一緒に確認しましょうか?」
柔らかく笑いながら答えている。
さっき俺の耳元で、男たちは自分のものだと言い切った男には見えない。
俺は、残った定食へ視線を落とした。
頭の中で、春川の言葉を順番に並べ直す。
営業部フロアは自分のテリトリー。
男たちは自分のもの。
俺が縄張りを荒らしている。
つまり。
春川は、職場の男たちから人気を集める立場を、俺に奪われると思っているらしい。
どうやら俺は、あいつの中で、男に抱かれたがっている受け仲間になっている。
「なんでだよ……」
思わず漏れた声に、向かいの席の社員が顔を上げた。
「冬城さん、何か言いました?」
「いや。何でもない」
春川の背中は、すでに食堂の出口へ消えていた。
俺は冷めかけた味噌汁を飲んだ。
午前中、トイレで聞いた会話を思い出す。
男でもありかもしれない。
春川をそう評価する男は、確かにいる。
だからといって、どうして俺まで同じ立場になる。
俺は誰かに抱かれたそうに見えるのか。
春川の中で、俺はどんな男になっているんだ。
それより何より。
「普段と性格が違いすぎるだろ……」
可愛いと思っていた職場の姫様は、俺にだけ妙に口が悪い。
その事実が、なぜか少しだけ嬉しかった。
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