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第2話 俺は抱かれたいわけじゃない

午後、大通方面の取引先へ向かうころには、朝から降っていた細かな雪が雨へ変わっていた。 歩道の端に残った雪が、灰色の水を吸って崩れている。 冬城直哉は地下歩行空間から地上へ出ると、傘を開き、角をひとつ曲がった。 取引先の入るビルはすぐそこだった。 春川幹人に何を言われても、仕事には関係ない。 昼休みからそう考えていた。 営業部フロアは俺のテリトリーだ。 男たちは俺のものだ。 どう解釈してもおかしな宣言だったが、幹人なりに職場での人気を守りたいのだろう。 同僚から姫君と呼ばれ、男からも可愛いと言われている。 本人がその立場を気に入っているなら、後から同じ枠へ入ってきたように見える男は邪魔なのかもしれない。 問題は、なぜ直哉がその枠へ入れられたのかということだ。 「入るつもりもないんだけどな」 傘を閉じながら呟いた。 受付を済ませ、指定された階へ上がる。 打ち合わせ開始まで十分ほどある。 待合スペースで資料を確認していると、廊下の向こうから聞き覚えのある声がした。 「本日はありがとうございました」 直哉が顔を上げる。 男性社員に見送られながら、幹人が会議室から出てきた。 昼間と同じ濃紺のスーツだ。 細身の身体にきれいに収まり、胸元には社員証が下がっている。 相手の話に頷きながら、柔らかな笑顔を浮かべていた。 「では、修正版を明日の午前中までにお送りします」 「助かります。春川さん、対応が早いから安心ですよ」 「そんなことありません。こちらこそ、いつもありがとうございます」 愛想がよく、受け答えも滑らかだ。 昼休みに直哉の腿へ触れ、低い声で威嚇した男と同一人物には見えない。 幹人がこちらへ気づいた。 一瞬だけ目を見開き、すぐに営業用の笑顔を深くする。 「冬城さん。お疲れさまです」 「お疲れ」 「こちらへいらっしゃる予定だったんですね」 「ああ。別件の打ち合わせだ」 幹人を見送っていた男性社員が直哉へ視線を向けた。 「春川さんと同じ会社の方ですか」 「はい。冬城と申します」 「なるほど。同じ営業部なら心強いですね。春川さんは本当に感じがいいし、説明も分かりやすいから」 直哉は社交辞令として笑った。 「ありがとうございます。本人へ伝えておきます」 隣で幹人も笑っている。 しかし、その目だけが笑っていなかった。 男性社員が頭を下げて廊下の奥へ戻っていく。 姿が見えなくなるまで、幹人は完璧な笑顔を保っていた。 二人きりになった途端、幹人が直哉の真横へ座る。 待合スペースには、二人掛けのソファと一人掛けの椅子があった。 幹人は迷わずソファを選び、直哉との隙間をほとんど空けなかった。 「近いぞ」 「そうですか?」 外向けの声だ。 受付の女性から見える位置にいるためだろう。 幹人は資料を膝へ置き、正面を向いたまま口元だけを動かした。 「さっそく俺の取引先にまで手を出してんじゃねぇよ」 「何もしてない」 直哉も声を抑えた。 「挨拶しただけだ」 「ずいぶん愛想よく笑ってたな」 「取引先に無愛想でどうする」 「褒められて嬉しそうだった」 「お前が褒められてたんだろ」 幹人の眉間に薄く皺が寄る。 「そこへ乗っかって、自分まで売り込もうとしてた」 「名乗っただけだ」 「見境のない男だな」 根も葉もない。 直哉はため息をつきかけ、やめた。 受付から見れば、同じ会社の社員同士が隣で話しているだけだ。 ここで露骨な態度を取ると、余計に目立つ。 「春川。俺はこれから打ち合わせだ」 「知ってる」 「お前の担当を奪うつもりもない」 「取引先だけの話じゃねぇよ」 幹人が顔を寄せる。 髪から、雨と整髪料の混じった匂いがした。 「ほんと、目障りな人」 囁きだけを残し、幹人は立ち上がった。 「では冬城さん、失礼します」 笑顔で頭を下げる。 「会社でまた」 何事もなかったように廊下を歩いていく。 直哉は、その背中をしばらく見送った。 幹人は、自分が褒められていたのに不機嫌になった。 直哉が男性社員と二言三言交わしただけで、担当を奪う気だと決めつけた。 姫君としての立場に、そこまで執着しているのだろうか。 それとも、直哉が知らないところで、営業部には男同士の人気を巡る熾烈な争いでも起きているのか。 「あるわけないだろ」 口に出してから、受付の女性がこちらを見ていることに気づいた。 直哉は軽く咳払いし、資料へ視線を戻した。 文字がまるで頭へ入ってこなかった。 **** 夜、直哉はすすきのから少し外れたBAR LAMPにいた。 カウンターの奥には、琥珀色の酒瓶が並んでいる。照明は暗く、客同士の顔がはっきり見えすぎない。 久保田圭介(くぼた・けいすけ)は、直哉の隣でグラスを傾けながら、昼からの話を一通り聞いた。 大学時代からの付き合いだ。 別の会社で働いているため、社内の噂を気にせず話せる。 圭介はすぐには何も言わなかった。 直哉の頭から靴の先まで、ゆっくり眺める。 「なんだよ」 「いや」 「今、値踏みしただろ」 「してない」 圭介はグラスへ口をつけた。 「それで、お前は春川って男から、同じ獲物を取り合う相手だと思われてるわけか」 「たぶんな」 「職場の男を巡って」 「たぶん」 「抱かれる側の人気争いをしてると」 「言葉にすると、さらにおかしいな」 圭介が吹き出した。 「笑い事じゃない」 「悪い。お前がそんな悩みを持ち込んでくるとは思わなかった」 「俺だって持ち込みたくなかった」 直哉はウイスキーの入ったグラスを揺らした。 「そもそも、俺はそんなふうに見えるのか?」 「どんなふうに」 「男から抱かれたがってるように」 圭介は、また黙って直哉を見た。 今度はさっきより長い。 「おい」 「まあ」 「まあ、何だ」 「顔は整ってる」 「それは関係あるのか」 「愛想もいい」 「営業だからな」 「酔うと距離が近くなる」 「今は酔ってない」 「身体はでかいけど、妙に人懐こいところもある」 直哉はグラスを置いた。 「待て。俺、周りから見ると実は受けなのか?」 圭介が真顔で腕を広げた。 「確かめてみるか。来いよ」 直哉は反射的に身体を引いた。 「……お前、正気か」 「その反応なら違うな」 「当たり前だろ」 「悪かった。そんなに嫌そうな顔するなよ」 圭介が肩を揺らして笑う。 直哉は深く息を吐いた。 「冗談が悪い」 「お前が本気で心配してるからだろ」 「一瞬、お前までそう見てるのかと思った」 「見てない。どう考えても、お前は抱くほうだろ」 そうだよな。 直哉は心の中で頷いた。 肩の力が抜ける。 「うん。やっぱり春川が勘違いしてるだけだ」 「そこまで安心することか?」 「自分の認識が他人と大きくずれてないと分かれば安心するだろ」 「それはそうだが」 圭介は氷を鳴らした。 「その春川、お前に抱かれたいんじゃないのか」 直哉は圭介を見た。 「どうしてそうなる」 「男に触って反応を見る。ほかの男と話してたら不機嫌になる。わざわざ耳元で威嚇する」 「人気を奪われると思ってるだけだ」 「その人気を、お前にだけ奪われたくないんだろ」 「同じ意味じゃないか」 「全然違う」 圭介は呆れたように笑った。 「まあ、好きに悩め。どうせ近いうちに分かる」 「何が」 「知らない」 圭介はそれ以上話す気がないらしく、マスターへ追加の酒を頼んだ。 直哉も追及しなかった。 春川が自分に抱かれたい。 そんなわけがない。 幹人は、直哉を受け仲間だと思って敵視している。昼間の発言をそのまま受け取れば、そうとしか考えられない。 それに、男から抱かれたいと思っている相手の腿へ触れ、反応を確かめる理由が分からない。 いや、男同士の恋愛に詳しいわけではないから、何か別の作法があるのかもしれない。 考えるほど馬鹿らしくなってくる。 直哉はグラスを空にした。 幹人の低い声が、また耳の奥に蘇った。 ほんと、目障りな人。 悪意を向けられたはずなのに、不思議と嫌ではなかった。 **** 帰宅すると、部屋は冷えきっていた。 直哉は暖房をつけ、ネクタイを緩めた。 時計は十一時を少し過ぎている。 シャワーを浴びて眠れば、明日には幹人のことも多少どうでもよくなるだろう。 そう思いながら浴室へ入った。 熱い湯が肩へ落ちる。 一日の疲れが抜けていく。 目を閉じると、真っ先に浮かんだのは幹人だった。 取引先で浮かべていた柔らかな笑顔。 男性社員へ丁寧に頭を下げる姿。 その直後、直哉の隣へ身体を寄せ、低い声で目障りだと言い放った横顔。 「どうしてあいつのことばかり考えてるんだ」 呟いても、像は消えなかった。 昼休み、腿へ置かれた指まで思い出す。 偶然を装い、ゆっくり内側へ進んできた。 直哉の反応を確かめた瞬間、幹人の笑顔が消えた。 あの冷たい視線を知っているのは、きっと自分だけだ。 そう考えると、胸の奥が妙に熱くなる。 職場では誰にでも優しい。 同僚に姫様と呼ばれても、困ったように笑うだけだ。 その幹人が、直哉にだけ口を悪くする。 自分の前でだけ、愛想を捨てる。 「嬉しがることじゃないだろ」 直哉は額へ流れる湯を拭った。 しかし身体は、すでに別の反応を始めていた。 昼間と同じだった。 幹人を思い出しただけで、下腹が重くなる。 直哉は壁へ片手をついた。 「俺は抱かれたいんじゃない」 誰に弁解しているのか、自分でも分からない。 春川と同じ立場を争う気もない。 職場の男たちに囲まれたいとも思わない。 幹人から向けられた誤解が、腹立たしい。 「むしろ、あいつを抱きたいって思ってるのによ」 口から出た言葉に、自分で固まった。 シャワーの音だけが浴室へ響く。 「……何言ってるんだ、俺は」 否定しようとした。 酒が残っているだけだ。 幹人に触られたせいで、一時的に意識しているだけだ。 けれど、身体はもう誤魔化せなかった。 直哉は、自分の熱いたぎりを握り締め、目を閉じた。 幹人の細い腰を抱き寄せる想像が浮かぶ。 あの低い声で文句を言われながら、ネクタイを引かれる。 昼間は腿を撫でられただけだった。 今度はこちらから触れたら、幹人はどんな表情をするのだろう。 職場で見せる笑顔を保てるのか。 それとも、直哉にだけ向ける冷たい目で睨むのか。 想像の中の幹人が、耳元で囁く。 目障りなんだよ。 その声を思い出した途端、直哉の指へ力が入った。 「くそ……」 湯音に紛れて、低い息が漏れる。 自分で慰める動きに合わせ、幹人の姿が鮮明になる。 背中へ腕を回し、逃げられないように抱き込む。 あれだけ勝手なことを言う口を塞ぐ。 初めは睨んでいた目が、次第に熱を帯びていく。 直哉の肩へ掴まり、低い声が崩れる。 現実の幹人がそんな反応をする根拠はない。 それでも想像は止まらなかった。 腿へ触れた指。 耳にかかった息。 隣へ座ったときの近さ。 あの距離のまま、もっと深く求められたら。 直哉は呼吸を乱しながら、動きを速めた。 幹人を抱く想像だけで、身体が限界へ近づいていく。 「春川……」 名前が漏れた瞬間、熱が一気に弾けた。 直哉は壁へ手をついたまま、荒い息を整えた。 シャワーは変わらず肩へ降り注いでいる。 しばらく動けなかった。 果てた直後になって、急速に頭が冷えていく。 職場の同僚を思い浮かべ、一人で慰めた。 しかも相手は男だ。 昼まで可愛い同僚だと思っていた相手を、自分が抱くところまで想像した。 「俺は何をやってるんだ」 ため息が漏れる。 受けだと誤解された腹いせに、相手を抱く妄想をしてどうする。 そんな理由で興奮したわけではないことくらい、自分でも分かっていた。 幹人の身体へ触れたいと思った。 自分だけに向けられた低い声を、もっと聞きたいと思った。 あの冷たい目が崩れるところを見たいと思った。 直哉はシャワーを止めた。 急に静かになった浴室で、先ほど自分が口にした言葉が蘇る。 むしろ、あいつを抱きたい。 取り消したところで、もう遅い。 「最悪だ」 そう呟きながら浴室を出た。 しかし胸の奥には、自己嫌悪だけでは説明できない熱が残っていた。

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