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第37話 【最終話】Ωになりたくない僕には運命なんて必要ない!

 コップを持つ千歳の手がわずかに震えている。  部屋の中にはまるで時間が止まったような静寂が落ち、窓から差し込む澄んだ日差しがテーブルに置かれたコップの中の氷をじわじわと溶かしていく。  累は、そのわずかな変化さえも見逃さないよう、じっと千歳の横顔を見つめていた。  瞳の奥に浮かぶのは戸惑いや焦り。答えを探して、迷っているのだろう。  ごめんね、と累は心の中でつぶやいた。  ――もう、逃がしてはあげられないから。 「同じ上位種の湊さんより、俺のほうが避けられてる感あったから。意識してくれてるんだなってずっと思ってた」 「えっ?! はっ? ち、違うし!」  慌ててコップを机に置き、あたふたと声を上げる千歳に、思わず笑いが漏れた。そんな累を見て、千歳はいつもむっと唇を尖らせる。  こうしてむくれている姿は、たまらなくかわいい。でも、できれば笑った顔が見たい。  嬉しい顔も、楽しい顔も、そのすべてを自分だけに見せてほしい。  無茶な独占欲だとわかっているけれど、『諦める』という文字は累の辞書にはない。  まぁ、大目に見ることくらいは、できるはず。――多分。  とにかく。そのためにも、やっぱりあいまいな関係のままではだめなのだ。 「じゃあなんで?」  畳み掛けるように問いかけると、千歳は言葉をまた詰まらせた。  膝の上で組んだ手は、その細い指先が白くなるほど力が入っている。  追い込んでいるのは自分なのに、その手を握ってやりたい衝動に駆られてしまう。  でも、今は千歳の答えを待たなければいけないから。伸ばしたくなる腕を累はぎゅっとつかんで押しとどめた。  千歳は何度か口を開いては閉じることを繰り返し、やがて観念したのか、ふうっと小さく息を吐く。そして、ぽつりとつぶやいた。 「……僕は、初めて会った日から気づいてた。だから……」  その答えに、思わず眉が跳ね上がる。そんなに早くから気づいていたなんて――!  言われてみれば、初めから千歳は累に対して警戒心むき出しだったし、何とか遠ざけようとしていた。全部、押し切ってきたけれど。 「黙ってたのは、Ωになりたくなかったからだよね」 「……そう」 「今もその気持ちは変わらない?」  千歳はうなずくことも、首を横に振ることもできなかった。  重い沈黙が部屋の中に落ちる。小さく唇をかみ、視線を下げると、テーブルの上には、コップから垂れた水滴が作った小さな水たまりができていた。 「それでも、俺は千歳さんと番になりたい」 「……それは、僕が”運命の番”だから?」 「そうだけど、そうじゃない」  首をかしげる千歳に累は言葉を続ける。 「千歳さんに惹かれたのは”運命の番”だからだと思うよ。でも、それはただのきっかけなだけ。俺はね、芯が強くて、意地っ張りで、少しだけ甘えたがりの千歳さんだから好きになったんだ。  人のこと、かわいいとか、愛しいとか、生まれて初めて思った。もし、千歳さんが”ただのΩ”だったら、俺はこんな想いを知ることはできなかったと思う。  だから――。千歳さんが『未確定』でよかった」  優しく笑いかける累に、千歳は込み上がってくる涙を必死でこらえた。  千歳はずっとはっきりしない自分の二次性が嫌いだった。変化に怯え、一喜一憂する自分が嫌で仕方がなかった。  それなのに、こんなふうに肯定してもらえるなんて。想像もしていなかった。 「僕は二次性に振り回されたくなかった。だから、ずっとΩにはなりたくないと思ってたし、僕には運命なんて必要ないと思ってた」  その思いは今も変わらない。今だって、Ωになるのは怖いし、”運命”なんてものに振り回されるのは嫌だ。  でも、今はそれよりもっと怖いことがある。  それは、累が千歳のそばからいなくなることだ。  あの日、それは起こり得るのだと痛いほど思い知らされた。  そもそも累とは住む世界が違う。それもわかっている。  それでも――。  千歳は祈るように胸の前できつく手を握りしめた。胸の奥で押さえつけていた想いがあふれ出るように、こらえきれなかった涙がこぼれ落ちていく。 「それでも……、佐久間 累は欲しいんだ……!」  頬を伝う涙もそのままに、千歳は震える声で叫んだ。ありったけの想いを込めて、これまで言えなかったたった一つの、一番大切な願いを。  その言葉を受け止めるように、累は千歳を抱き寄せた。  千歳の迷いも、恐れも、すべて包み込むように強く、優しい腕に顔を埋めれば、累の香りが千歳の心を温かく満たしてくれる。 「全部あげる。俺は全部、千歳さんのものだよ」 「うん」 「だから、千歳さんも全部俺にちょうだい」 「……いいよ」  千歳の涙を拭った累の手が、そっと頬を撫でた。そして、唇がゆっくりと近づいてくる。そのまま目を閉じようとした瞬間、千歳はハッとした。 『たとえばキスくらいで千歳くんは完全なΩになるよ』  いつか高坂に言われた言葉が頭をよぎる。それに、今の千歳の二次性はΩ寄りになっているとも言っていた。  ここでキスをしたら、完全にΩになってしまう上に、下手したらヒートを起こしかねない。  咄嗟に両手で累の唇を覆うと、当然、累は驚きに目を見開いていた。 「……その、キスすると多分、Ωになっちゃうから……僕の覚悟が出来るまで、待っててほしい、な」 「くっ……」  累は目を片手で覆い、天を仰いでしまった。やっぱり自分勝手すぎるだろうか。うつむいた千歳を累はまたそっと抱きしめた。 「待つよ。千歳さんは俺の”唯一の番”だからね。でも、抱きしめるくらいはさせて」  もう抱きしめてるけど。なんて、しょんぼりと眉を下げた累には言えなかった。  その顔がかわいいなと思って。だから、思わず――本当に思わず、千歳は累の頬にそっと口づけた。 「これで、今は我慢して?」  頬を押さえながら真っ赤な顔で固まる累を見て、千歳は笑った。  ――数年後。  ある夏の日の夕暮れ時、花火大会に向かう人混みの中を二人は歩いていた。  累と手を引かれながら歩く千歳の首元には、番の証が刻まれている。 「……ねぇ、手離して」 「だめ。はぐれたらどうするの」  むくれる千歳に、累は笑ってぎゅっと手を握り直した。  千歳も、結局はその手を振り払うことなく、少しうつむいて累の横を歩き出す。  頬に浮かぶ熱が、夏の風にさらわれていく。  待ち合わせていた湊たちと並んで観覧席に座ったときも、しっかりと繋がれたその手が離れることはなかった。  空を見上げれば、色とりどりの光が大輪の花を咲かせていく。ドーンという大きな花火の音に混じる虫の声を聞きながら、千歳は自然と累の手を握り返していた。  ――これから先、どんなときもずっと、この手を離すことはない。

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