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白無垢に込めた願い
凪が遊郭を訪れた数日後。それは、今にも空が泣き出しそうな寒い日のことだった。
「もうすぐ椿屋ともお別れか……」
凪は玄関に飾られた椿屋の看板にそっと触れた。湯玄の花嫁になる準備は、少しずつ、でも着実に進んでいる。それは、同時に椿屋との別れを意味していた。
「寂しいなぁ」
ポツリと呟くと、涙が零れそうなる。
凪が生まれ育った椿屋は、湯滝村の一番奥に建っている古い宿屋だ。椿屋は檜で造られた木造三階建てで、一階が玄関に食堂、そして大浴場がある。二階と三階は客室になっており、客室からは専属の庭師が丁寧に手入れをしている大きな庭と、見事な鯉が悠々と泳ぐ広い池が一望できる。その美しい景観は、思わず溜息が漏れるほどだ。
屋根に置かれた高価な瓦には雪が降り積もり、大きな氷柱が軒下に垂れ下がる。そんな氷柱が日差しを受け、きらきらと輝いていた。
椿屋の玄関には大きな提灯が吊り下げられ、夜になると明かりが灯される。紅色の大きな暖簾が、近くを流れる温泉の湯煙でゆらゆらと揺れる。そして、可愛らしい姫椿が客人を出迎えてくれるのだ。
正午を過ぎると、今晩宿泊する客がそろそろ椿屋にやって来る時間だ。凪は宿の広い玄関を丁寧に箒で掃く。その宿の印象は玄関で決まる、幼い頃から父親に何度も教えられてきた。
瓶 に飾られている蝋梅の水も変えて、見栄えを整える。
箒の掃き掃除が終わると、今度は玄関の硝子を一枚一枚丁寧に拭いていく。「はぁ」と凪が硝子に息を吹きかけると、息は白い雲となって空へと昇っていく。
そんな吐息を視線で追いかけて空を見上げると、ひらひらと粉雪が空から舞い降りてきていた。
「どうも冷え込むと思ったら、また雪か……」
湯滝村に雪はとてもよく似合う。村の真ん中を流れる川に雪が落ちると、温泉の熱気で一瞬で消えてしまった。真っ赤な橋の欄干にはうっすらと雪が積もり始めている。
店先で咲き誇る姫椿と雪はとても相性がいい。その美しい光景に、凪は思わず目を細めた。
「おい、凪よ」
「……! びっくりした。あんたか……」
「そんなに警戒しなくてもいいだろう? いくらワシだって、湯玄様の花嫁に手を出すほど馬鹿ではない」
そう凪に声をかけてきたのは呉服屋の和助だ。和助は、ことあるごとに気持ちの悪い声を出しながら凪の体に触れようとしたが、凪が花嫁に決まってからはそれもなくなった。
「お前さんの白無垢ができあがったぞ? 言われた通り、打掛に長春色の糸で姫椿の刺繍を入れてやったからな」
「本当か? ありがとう! なぁ、頼んでおいた通り、可愛く仕上げてくれたか?」
「あぁ。可愛らしい娘が着るような白無垢にしてやったさ。しかし、なんでそんなに可愛らしい白無垢にこだわるんだ? お前さんの容姿なら、綺麗な白無垢のほうが似合っているだろうに……」
和助はねっとりとした視線を凪に向ける。その舐めまわすような目つきに、凪は胸が悪くなるのを感じた。
凪は湯玄に嫁入りするときに着る白無垢を、できるだけ可愛らしくしてほしいと和助に頼んだのだ。可憐な少女が身を包む……そんな白無垢がいい、と。
「だってさ、可愛らしい白無垢を着ていけば、もしかしたら男だって気付かれずに床入りができるかもしれないだろう? 一度でも肌を重ねてしまえば、もしかしたら俺に対して情が湧くかもしれない」
凪は先程まで窓を拭いていた雑巾を握り締めたまま、湯花神社の方を仰ぎ見る。
「俺のことを、可愛いとか、愛おしいって思ってくれるかもしれないし……」
こんなことを言っている自分が恥ずかしくなって、凪は思いきり鼻をすする。これでは、好いた男の元へ嫁入りする娘そのものではないか。凪は思わず和助に背を向けた。
「凪よ……」
「ひゃあッ!」
突然和助が腰を撫でてきたものだから、凪は咄嗟に悲鳴を上げた。つい先程凪にはもう触れない、としおらしいことを言っていたものだから、すっかり油断してしまっていたのだ。
「お前さん、いつのまにそんなに色っぽい顔ができるようになったんだ? こんなことなら少々強引にでも手を出しておけばよかった」
「ふざけんなよ、狸じじぃ」
凪が思いきり和助の手を振り払うと、残念そうな顔をしながら凪の顔を覗き込んだ。
「まぁ仕方がない。明日にでも白無垢を届けるから待っておれ」
「本当か? ありがとう」
一体どんな白無垢ができあがったのだろうか。
白無垢を着た自分を、湯玄様は可愛いと言ってくれるだろうか。
不安と期待が入り交じり、凪の心臓が痛いくらい高鳴る。とても嬉しいのに、なんだか照れくさい。
「早く見てみたいな……」
凪は雪が降り続く空を見上げながら、そっと呟いた。
◇◆◇◆
翌日、和助が大きな箱に入れられた白無垢を届けてくれた。桐で作られた立派な箱には、金色の糸で編まれた紐が丁寧に巻かれている。その重厚感漂う雰囲気に、凪は思わず息を呑んだ。
「凪。届けていただいたばっかりだけど、今、開けてみる?」
「うん。そうだね」
心配そうに自分を見つめる母親を心配させてなくて、凪は大きく頷いて見せた。本当は心臓がドキドキして仕方がない。桐の箱に触れる手が小さく震えた。
「よし」
気合を入れて箱を開けた凪は、思わず目を輝かせる。
桐の箱には真っ白な糸で織られた白無垢が綺麗に畳まれて入っていた。
「綺麗……」
白無垢には文字通り「無垢」という言葉が含まれており、花嫁の汚れない純粋さを意味していると言われている。正
今凪の目の前にある白無垢は、真っ白な正絹《しょうけん》で織られていた。正絹は天然の絹で落ち着いた光沢があり、手触りがいいのが特徴だ。
真っ白で統一された白無垢は,一本一本の糸まで白で統一されている。白い打掛はかすかに薄桃色に染められており、姫椿の刺繍が施されているが、その精巧さは思わず目を奪われるほどだ。
「可愛らしい白無垢にしてほしい」。そう望んでいた凪は、想像以上の可愛らしい白無垢の出来栄えに、思わず溜息を吐いた。
「まぁ、なんて立派な帯なのかしら」
母親が目を細め、そっと帯に手を伸ばす。真っ白な帯には空色の糸がまるで流れる川のように刺繍されている。それは、湯滝村の真ん中を流れる温泉のようにも見えて……凪の胸は熱くなった。
「本当に、湯玄様の元に嫁に行ってしまうのね」
「え?」
「凪、結婚おめでとう。湯滝村の為に精一杯頑張ってくるのよ」
「……うん……」
目元を真っ赤に染めながら微笑む母親の姿を見ると、凪の胸は締め付けられるように痛む。届けられたばかりの白無垢を見て、浮かれてしまっていた自分が情けなくなってしまった。
「さぁ、お父さんにもこの白無垢を見せてあげましょうね」
母親が白無垢を整えて箱の蓋を閉めようとしているのを、凪は無言で手伝う。
凪の父親はあいかわらず体調が悪く、最近は起き上がることさえ難しくなっていた。どんな医者に見せても原因はわからず、父親を診察した医者たちは揃って首を傾げるのだ。
――この白無垢を着て湯玄様の元に行けば、俺は気に入ってもらえるだろうか?
不安から、心の中にさざ波が立っていくのを感じる。
――源泉が復活すれば、きっと父さんだって元気になる……。
凪はぐっと拳を握り締めて心を奮い立たせる。
もう迷わない。全ては湯滝村の為に。そして椿屋の為に……。
そっと桐の箱に手をのせて、凪は誓ったのだった。
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