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露天風呂の口づけ
「湯玄様、今日は帰ってこないのかな」
凪は露天風呂の大岩に寄りかかり、逆さまに空を見上げる。いつのまにか雪が降り出していた。雪は音もなく空から落ちてきて、音もなく消えていくけれど、この勢いだと積もりそうだな……凪はそう感じる。
雪は湯滝村を美しく彩ってくれるけれど、雪かきは大仕事だ。凪が大きく息を吐くと、湯船に浮かべられた姫椿の甘い香りが鼻腔を擽る。甘く上品なその香りを、温泉の湯気ごと吸い込んだ。
こうやって温泉につかり、体を休めることができるのも湯玄のお陰なのだ。湯玄は自分の身を削って、湯滝村に温泉をもたらしてくれているはずだ。
椿屋はとっくに消灯し、客は今頃夢の中だろう。凪は貸し切りの露天風呂で、大きく手足を伸ばした。
「湯玄様、帰って来て……」
凪は湯玄が心配でならない。もし今夜帰って来なかったら、翌朝また湯玄の様子を見に行こうと考えていると、誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
――こんな時間にお客様か?
そう思っていると、湯船のお湯が溢れんばかりに大きく揺れた。
「わぁ!」
「あー、温かい。生き返るなぁ」
「え、あ、ちょっと!? 湯玄様⁉」
「今帰ったぞ。私がいなくて寂しかったか?」
「そんなことより、な、なんで湯玄様がここに……?」
「なんだ、その鳩が豆鉄砲を食らったような顔は? 椿屋に帰ると言ってあったはずだ。それに、将来私たちは夫婦になるのだから裸の付き合いも必要だろう?」
「で、でも……」
予想もしていなかった出来事に、凪が呆気にとられていると湯玄が口の端を吊り上げてにたりと笑った。
着物を着ているときにはわからなかったが、凪の目の前にいる男はどうやら着痩せをするらしい。裸体となった湯玄は、逞しい筋肉をつけた立派な体格をしていた。同じ男とは思えない、その鋼のような肉体に凪は頭の中が沸騰していくのを感じる。
男のくせにやけに色っぽくて艶めかしい体に、凪は視線を泳がせた。一体どこを見たら心が落ち着きを取り戻してくれるのだろうか? 視線を彷徨わせながら途方に暮れてしまった。
「凪よ」
「ちょ、ちょっと湯玄様こっちに来ないでください」
「なぜだ?」
「だって、湯玄様、裸だし……」
「其方は可笑しなことを言うな? 風呂に入るときに着物を着ている奴がどこにいるんだ?」
「でも……」
凪が湯玄から逃げようと後ずさると、楽しそうに口角を吊り上げる湯玄が徐々に凪に迫ってくる。トンッと凪の背中に大岩が当たった瞬間、思わず呼吸が止まった。
――もう逃げられない……。
目の前が真っ白になるのを感じる。心臓がうるさいくらいに高鳴って、呼吸もどんどん浅くなっていった。
「ひゃあッ!」
突然湯玄に抱き締められた凪は、今度こそ心臓が止まってしまう思いがした。
今まで湯玄に抱き締められたことはあったが、裸で抱き合ったことなんてない。しなやかに筋肉のついた腕に抱き寄せられると、あまりの力強さに身動きさえ取れなくなってしまった。
「ふふっ。茹蛸みたいな顔をしよって。其方は本当に可愛らしいなぁ」
耳元で湯玄がからかうように囁く。凪は恥ずかしさのあまり固く目を閉じた。
こんなに体を密着させていたら、この張り裂けんばかりの拍動は湯玄にバレてしまっていることだろう。その事実が、更に凪の羞恥心を煽っていった。
温泉に濡れた湯玄の肌は、まるで吸い付くように滑らかで温かい。恥ずかしくて怖い。しかし、凪だって若い男だ。こんな風に裸で抱き合えば、好奇心も芽生えてしまう。
――この人に抱かれるって、どんな感じなんだろうか?
まるで靄がかかったように考えがまとまらない頭で、湯玄を見つめた。凪の目の前にいる男は、まるで荒ぶる獅子のようだ。そして自分は、そんな獅子に崖っぷちへと追い込まれた小さな兎。
逃げられるはずなんてない。
「頬を紅潮させた其方は、誠に綺麗だ。唇は、まるで紅を刺したように色っぽい。こんなに美しい人間を私は見たことがない」
「湯玄様……俺、俺……」
「凪、目を閉じるんだ」
「へ?」
「凪、私の可愛い花嫁よ」
凪が薄く口を開いた瞬間、湯玄に唇を奪われる。強引なくせに、優しいその口付けに凪の意識が少しずつ遠退いていくのを感じた。
「凪」
「湯玄様……」
湯玄の甘い口付けを夢中で頬張る。
湯口から勢いよく吹き出す温泉を見つめながら、凪は意識を手放したのだった。
気が付いたときには、自室の布団に寝かされていた。薄く目を開いて辺りの様子を窺おうとすると、天井がクルクルと回り出す。凪は思わずギュッと目を瞑った。
「もう、湯玄はやり過ぎなんですよ」
「うるせぇ。凪が可愛らしいのがいけないんだ」
「そんなの言い訳にはならないでしょう?」
湯玄と泰富が口論をしている声が聞こえてくる。
どうやら、あのままのぼせて露天風呂で倒れてしまったらしい。布団に横たわる凪の額には冷たい手拭いが置かれており、泰富が団扇で扇いでくれているようだ。その冷たい風が火照った体に気持ちがいい。
「しかし、接吻くらいで倒れてしまうなんて、凪は本当に初心《うぶ》だね」
佐之助がくすくすと笑っている。
「あぁ、そうだ。そんなところが可愛らしくて、ついからかいたくなるんだ」
「あんまり虐めないでくださいね。凪さんが可哀そうですから」
「はいはい。わかりましたよ。泰富は口うるさくて敵わん」
そんな神様たちのやり取りを聞いていると、再びのぼせて気絶してしまいそうだ。
大体、自分はどうやってここに運ばれたのだろうか? きちんと着物を着せられていることから、きっと誰かが世話を焼いてくれたに違いない。そう考えただけで恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたくなってしまう。
だから凪は何も聞こえないフリをして、狸寝入りを決め込んだのだった。
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