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義盛の誘惑
その後、「なんだ! 湯玄ではないか! 久しいなぁ」という義盛の大声が聞こえてきた後、言い争う声が聞こえてくる。しばらくすると義盛の声は聞こえなくなってしまった。
きっと湯玄が上手いことを言って追い返したのだろう、と凪は思う。
「なぁ、義盛様は帰ったのか?」
「あぁ、追い返した。凪は今出かけていると言ってな」
「ふーん。義盛様はやっぱり俺に会いに来たの?」
「もう義盛のことはどうでもいいだろう! そんなことより玄関の隅に埃が溜まっていたから、掃除をしておけ。私は源泉の様子を見に行ってくる」
「……なんだよ、それ。わかった」
「では行ってくる」
「あんまり遅くならないうちに帰って来てよ」
「わかっておる」
明らかに不機嫌な顔をした湯玄が椿屋を出て行く。凪に他の神が関わると湯玄は途端に不機嫌になってしまうのだ。きっとヤキモチなのだろうが、子供のように拗ねる湯玄の相手をするのは疲れてしまう。
凪は溜息をつきながら、湯玄に言われた通り玄関の掃除を始めた。玄関はお客様をもてなす第一歩、そう父親から教えられている凪は、隅から隅まで箒で埃を取り払っていく。硝子も汚れているな……そう思った凪が、雑巾をとりに行こうとした時。
「こんにちは!」
「わぁぁぁ!」
「わははは! びっくりさせてすまなかった。お前が凪だろう?」
「はぁ……」
凪は突然知らない男に話しかけられ、心臓が止まる思いがした。しかも初めて会ったにも関わらず、いやに馴れ馴れしい。あまりにも不躾な態度に、凪は手に持っている竹帚を握り締める。何かあれば、この竹箒で叩きのめしてやろうと思ったのだ。
明らかに怪しい雰囲気を放つこの男に、凪は思わず身構えた。
「オレは義盛。これでも神様だ」
「あ、あんたが義盛様? 戻って来たのか?」
「そうだ。少し前に来たが湯玄に追い返されちまって、お前に会うことができなかった。でもどうしてもお前に会ってみたくてな」
「やっぱり……。なんで俺に会いになんかくるんだよ?」
凪は急に怖くなって、宿の中に入ろうとしたが義盛に腕を掴まれてしまう。振り払おうにも力が強く、簡単に体を抱き寄せられてしまった。
義盛はまるで山のような大男で、凪がどんなに抵抗したところで到底太刀打ちなどできないだろう。凪は最後の抵抗にと、弱々しく義盛を睨みつけた。
「まぁ、そんなに嫌がるな」
そんな凪を見た義盛が、ニヤリとほくそ笑む。義盛は炎のように真っ赤な短髪で、いかにも女好きそうな顔をしている。顔を近づけられると、酒の香りがした。
「凪よ、俺は毎日お前が水を汲みに来る姿を遠くから見ていたが、お前の容姿は思わず息を呑むほどだ。しかし、こうして近くで見ると更に美しい。遠路はるばる会いに来た甲斐があったというものだ」
「遠くから見てたって……。水汲み場で感じていた視線は、あんただったのか?」
「その通りだ。俺はお前に興味がある。先程は予想外に邪魔者が入ったが、まぁ良しとしよう。がはははは!」
義盛が豪快に笑うと、玄関の硝子がカタカタと音をたてて震えるようだ。この豪快な性格も、凪を乱暴に扱う仕草も不愉快でならない。
湯玄も強引なところはあるが、こんな風に乱暴に扱われたことなんてなかったのだ。
凪が義盛の体を突き飛ばそうとした瞬間、凪の耳に義盛の唇が押し当てられる。その酒臭さに、凪は顔を顰めた。
「オレは、万病も治す力を持つ神だ。だからお前の父親の病気だって治してやることができる。少し我慢をすれば、この酒を分けてやろう?」
「酒……?」
「そうだ。お前の父親は長いこと病に伏せているのだろう? この酒器の中には、オレが作った万病もたちどころに治すことができる酒が入っている。それに、あの延命の水は酒を造るにはもってこいの水だ。きっともっといい酒を造れるかもしれない。どうだ? これが欲しいだろう?」
義盛がいやらしく顔を歪めながら、凪の前に白い酒器を掲げて見せる。酒気にはたくさんの酒が入っているのだろう。ちゃぷんと水が揺れる音がした。
その酒器に視線を奪われていると、義盛が凪の体を更に引き寄せる。あまりの恐怖と嫌悪感に、凪の体はまるで凍り付いてしまったかのように身動きさえ取れなくなってしまった。
「オレは酒と同じくらい美人が大好きだ」
「ふ、ふざけるな。俺は男だ!」
「しかし、お前は今まで出会ってきたどんな女より美しいぞ。お前は湯玄の元に嫁入りしたのか?」
義盛のその問い掛けに、凪は思わず言葉を詰まらせてしまう。何も言い返せないまま黙って俯くと、義盛が目を見開いた後また豪快に笑った。
「わはははは! そうかそうか、お前たちはまだ夫婦ではないのだな? それでは話は早い。俺の酒に付き合ってくれれば、この酒を分けてやろう」
「本当に?」
「そうだ。これほどまでの美青年にお酌してもらう酒はさぞ美味いだろうなぁ。座敷はあちらか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
凪は義盛に引き摺られるように、座敷へと連れ込まれたのだった。
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