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夕凪という男巫女
「へぇ、じゃあお前は湯玄の花嫁になったのに追い返されたのか?」
「そうなんだ。全く酷い話だろう? それなのに椿屋に転がり込んできて……俺には全く意味がわからない」
「そいつはひでぇ話だなぁ。ほら、もっと飲んで、嫌なことは忘れちまいな」
「ぐす、ありがとう」
凪は鼻をすすりながら義盛に杯 を差し出す。「お酌をしろ」と座敷に連れこまれたのに、いつの間にか凪も酒を飲まされた挙句、義盛に愚痴を聞いてもらっていた。
義盛が持っていた酒は、酒を飲み慣れていない凪にはとても強く、一口飲んだだけで目の前がクラクラするほどだった。口の中に苦みが広がり、飲み込んだ酒が食道を通り胃の中に落ちていくのがわかるくらいだ。
それにもかかわらず、さっぱりしていて飲みやすい。義盛に勧められるがまま飲み進めていくうちに、すっかり酔っぱらってしまったのだった。
義盛は最初の印象こそ悪かったが、親分肌で凪の愚痴を「そうかそうか」と聞いてくれる。凪は涙をポロポロと流しながら義盛に思いの丈をぶつけたのだった。
「湯玄も随分慎重だなぁ。それだけお前に本気なのか、年を取って臆病になったか……それとも、あ、そうか……。そう言われてみたら、あんた夕凪 にそっくりだな」
「ふぇ? 誰だ? 夕凪って」
義盛の言葉に凪は目をしばたたかせる。夕凪なんて初めて聞く名だった。
「夕凪っていうのは、何百年か昔、湯玄に仕えていた男巫女 だ。あの頃は、この村の周辺にはたくさんの温泉が湧いていてなぁ。それはそれは賑やかだったよ」
「男の巫女がいたのか?」
「あぁ、そうだ」
義盛はその当時のことを思い出しているのだろうか? 懐かしそうに目を細めている。
「夕凪は銀色の髪に綺麗な青色の瞳をしている、天女のように美しい男だった。まるであんたみたいにな。それから、赤色と青色の獅子を飼っていたっけ」
「赤と青の獅子? それって、紅さんと青さんのことじゃあ……」
凪は湯花神社にいる二匹の狛犬のことを思い出して、思わず体を乗り出す。無意識に義盛の着物を力強く握ってしまっていた。
「二匹の獣のことはよく知らねぇが、湯玄は夕凪のことを溺愛していたよ。そんな夕凪も、色々あった末に湯玄の元を去っちまったがな」
「そんな……」
「湯玄がうじうじして煮え切らないのも、それが関係あんのかな?」
義盛が酒を一気に飲み干して大きく息を吐いた。今までただの女好き、と義盛のことを見ていたが、その姿は威厳に溢れていて、やはりこの男も神なのだと思い知る。湯玄とはまた違う男の色香を持った義盛に、今更ながらに緊張してきてしまった。
「それはそうと、お前は湯玄と体の関係もないのか?」
「はぁ? と、突然何を言い出すんだ!?」
「いやぁ、いやに初々しいからそういう経験もないのかな、と思ってさ」
「あんたって人は……いい人だと思い始めていたのに、結局それかよ……」
「だって、そういった下品な話が一番酒の肴になるだろう? どれ、一つオレが手ほどきをしてやろう」
「おい、いい加減にしろよ⁉ 神様だからってやっていいことと、悪いことがあるだろうに⁉」
「まぁ、カタいことを言うな。せっかく遠路はるばるその美貌を拝みに来たのだ。この酒をくれてやるから、少しくらいいいだろう?」
「ちょ、ちょっと!?」
凪が抵抗する間もなく、義盛に組み敷かれてしまう。ただでさえ力で敵わない相手なのに、酔った凪の体はすっかり脱力してしまっていた。悪足掻きに体をバタバタとさせたせいで、一気に体中に酒が巡り目の前がグラグラと揺れる。込み上げてくる吐き気を必死に堪えた。
――畜生。すっかり油断した……。
もしかしたら湯玄が言うほど悪い奴ではないかも? と、甘い考えをしていた自分を呪いたくなってしまう。そんな凪を見た義盛が楽しそうに笑った。
「ちょっと付き合ってくれたら、お前の父親も元気になる」
「でも……嫌だ、離せ!」
「少しだけだ、我慢しろ。うわッ⁉」
凪がかたく目を閉じたとき、義盛の短い悲鳴が響き渡る。眩しい光を感じ、凪が恐る恐る目を開けると先程まで自分を組み敷いていた義盛の姿はなかった。凪とは離れた場所にいつの間にか不恰好な形で倒れている。
義盛は「いたたたッ」と腰を擦っていた。
「おい、義盛。人のものに手を出すなと、あれほど言っただろう?」
凪が顔を上げると、怒りに顔を引き攣らせた湯玄が立っていた。強く握られた拳は小さく震え、奥歯を強く噛み締めている。その形相は、鬼気迫るものがあった。
「何が人のものだ? まだそいつと体の関係もないくせに……この臆病者が」
「なに?」
「過去の失恋を引き摺っているのか知らないが、往生際が悪いぞ、湯玄」
「貴様……」
怒りを露わにした湯玄が、義盛に馬乗りになる。大男同士の取っ組み合いに、座敷の床がガタガタと悲鳴を上げた。
「ここで俺に始末されたくなければ、今すぐここから出て行け」
「言われなくても出て行くさ。でも、また可愛い凪に会いに来るがな」
「ふざけるなよ……」
怒りに我を忘れたかのように憤怒する湯玄は、今にも義盛に殴り掛かりそうな勢いだ。そんな二人を仲裁しようと凪は体を起こしたが、たったそれだけで天井がくるくると回り出す。そんな凪に気付いたのか、湯玄が凪に視線を送った。
「たまには殴り合いの喧嘩も悪くはないが、他の客に迷惑がかかる。ここは一旦退散するとしよう。凪の姿を見られただけで満足だしな。また会いに来るぞ、凪」
義盛は自分に馬乗りになる湯玄を突き飛ばすと、乱れた着物をサッと直してから颯爽と座敷を後にする。
「あぁ、そうだ」
「まだ何か用があるのか?」
何かを思い出したかのように振り返る義盛を湯玄が睨みつけた。
「そんなに睨むなよ。お前にとったらいい知らせだ。その酒の中に少量だが媚薬を入れておいた。まぁ、せいぜい楽しむんだな」
「……媚薬、だって……?」
義盛はあっけらかんと口にしたが、凪の背筋を冷たいものが走り抜けた。あのまま湯玄が来なかったら、自分はどうなっていただろうか? 考えただけで、いやな汗がじっとりと滲んだ。
「じゃあな、凪! がはははは!」
義盛が去ったその場は一気に静まり返り、凪と湯玄だけが取り残された。
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