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8 裏切り(2)

 頭頂部が激しく痛んだ。  いわゆる脳溢血だか脳内出血だか脳腫瘍か――――そんなものに冒されているのかもしれないと、みぞおちのあたりがずんと重くなる。  体が凍ったように冷たい。  ずきずきと疼痛を興している視線で柱時計を見上げると、トリフォラからのかすかな明かりの中で夜中の二時を示している。たとえ修道士達の朝が早いにしても、スフォルツァに薬を貰いに行くには早すぎた。  毛布をたくしあげる。寒さに全身が震え、頭部の激痛に呼吸がわななく。 (痛い…!)  声にならぬ声で呻く。涙が次々と零れた。そんな状態だったから、足音も聞こえず、近づいてくる気配を感じ取れずにいたのだろう。 「サンティ様……!」  頭からかぶっていた毛布を、スフォルツァがそっと外す。ベッドの横で膝をついてしゃがんでいる、その憐れみを帯びた褐色の瞳は、ごく間近にあった。 「また頭痛ですか?」  激痛で脈打つ頭で頷いた。スフォルツァが小さなビニール袋に入ったカプセルを摘まみ上げる。 「飲みますか」 「ああ」  手を伸ばして取ろうとすると突然、その薬がすっと遠ざかる。なんだろうとぼうっとした。酷く思考がぼんやりする。  気付けばスフォルツァの顔面から哀れみの表情が消えていた。  かわりに満足げな不敵ともとれる微笑が浮かんでいる。  見間違いかと思い、アンドレアは数回瞬きした。 「それをください」  なぜそんな笑い方をしているのか、推測もできなかったが、今のアンドレアにはどうでもよかった。ともかくその薬が欲しい。 「ええ。これを飲まないと、その痛みからは解放されませんからね」  その声はいつもより暗く感じられる。 「それだけではないんですよ、サンティ様」  スフォルツァがアンドレアの痛む頭を撫でた。 「これがないと、あなたはもう絵を描くこともできない。激しい頭痛と全身の倦怠感、そして鬱症状。それらを引き起こし、増幅させる薬物をあなたの食事に混ぜていました。そしてこれ――――これには、それらの症状を治まらせる効能があります。おかげであなたはこの薬がなくては生きられない体になった! すばらしい! 今のあなたを支配できるのは、この薬を手にしている私だけなんだ!」  何を言っているのか。呆然として言葉が出てこない。  耳にした話が理解できず、アンドレアはスフォルツァを見つめた。その傲岸な微笑に只事ではないと悟る。  頭痛が倍増し、頭蓋が割れるような苦痛を(もたら)す。 「一目見たときから、あなたが欲しかったんです、サンティ様」  スフォルツァがカプセルの入った透明な袋を勢いよく投げる。袋は床を滑り、聖堂の真ん中あたりで止まった。 「どうです、這っていってあれを取りますか? 私なら、すぐにあなたに差しあげられます。ほら、」  もう一袋、懐から取り出す。アンドレアが思わずそれに手をのばそうとすると、握って掌に隠す。 「それを、くれ…」  とんでもない裏切りに遭っていることだけは理解できたが、今は、その憤りよりもカプセルが欲しい一心だった。 「一つ条件があります。私の恋人になりなさい。一生、私だけのものになると誓うんです。そして、私の言うことを聞くんです……」  片手をアンドレアの頬に添え、唇を重ねる。  その唇を噛んだ。弾けるようにスフォルツァが離れ、頬をしたたかに平手打ちされる。  頬の内側が切れたが、頭痛の方が何倍も強い。アンドレアは震える腕でようやく上体を起こし、蔑みをもってスフォルツァを睨んだ。 「卑怯者が僕に触るな」 「けっこうです。あなたこそおとなしくしたほうがいいですよ。こう見えて、私はそんなに我慢強いたちではないので」  スフォルツァも棘のあるまなざしだった。 「明日、警察に行く」 「ほう? それで私を訴えるんですか? やってごらんなさい。司祭は悲しみますね、私は彼のお気に入りですから」 「そんな脅しが効くと思うのか」  こめかみに汗が流れるのを感じながら、アンドレアは精一杯に虚勢を張った。  スフォルツァは無力な子供を相手にするような顔で冷笑を返す。 「そう思うなら、どうとでもすればいい。私は今から逃げて、この解毒剤を処分するだけです。あなたは二度と筆を持つことはできない。一生、後遺症に苦しむ。その絶望感に耐えられずまもなく命を絶つでしょうね」 「そんなことはしない」  青褪めながらアンドレアは唸った。 「そう強がるものではありません。簡単なことです。壁画を完成させたいならばこの薬を飲みなさい、もっとも、差しあげるには私の言うことを聞いてもらう必要がありますが…」  スフォルツァの手がアンドレアのシャツにかかり、ボタンを外しにかかった。剥きだされた肌に手を這わせ、色づいた突起を摘まむ。 「罪な人だ――――私をこんなに狂わせて、平然として……。仕置きをしなくてはなりませんね。あんなキスをされるのは、二度とごめんです」  首筋に唇を押しつける。  甘噛みを繰り返してからゆっくりと舌が鎖骨を伝う。  嫌悪に肌が粟立ったが抵抗する力はない。酷い頭痛とあまりのショックに意識は混濁している。身体は固まり、ただ無意識に、全身がガタガタと震えるだけだった。 「さあ、どうします? 私の言うとおりにすれば薬をさしあげます」  アンドレアは目を閉じた。額から顎へと大量の汗が流れる。痛みに狂い死にしそうだった。  スフォルツァの言うことを聞けば楽になれる。けれど生きている限りこの男の言いなりになるなんて耐えられない。  アンドレアは意を決してスフォルツァを睨み返した。 「僕が、絵を描きたさにお前に泣いてすがると思うか。莫迦にするな。お前の言いなりになるくらいなら絵なんか描けなくていい。お前のものになるくらいなら、死んだほうがマシだ。僕は、いつだって人生を投げ出せる、スフォルツァ。お前は勝手に狂えばいい。でも、それを僕のせいにするな」  スフォルツァが呆気にとられた顔をする。  次の瞬間、強い衝撃を頬に受けた。スフォルツァが怒りに任せてアンドレアを殴ったのだ。気を失いかけた瞬間、スフォルツァの呻き声が耳に入った。  霞む視界にスフォルツァと別の人影が映る。 「ふっざけやがって…!」  怨嗟に満ちた響きが耳にかろうじて届き、アンドレアの意識は暗転する。  低めのテノールのはっきりとしたその声は、アンドレアとそっくり同じものだった。 (二章に続く)

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