41 / 42

8 裏切り(1)

 朝食のカプチーノをようやくの思いで飲み干す。食欲がないので、食事のほとんどは残してしまった。  静まり返った聖堂で一人、アンドレアは正面の壁をうつろに見あげ、もどかしい思いに駆られて下の部分をそっと撫でてみた。そこはアンドレアによって色づけられ変化することを待っている。  数歩下がって全体に目を凝らす。うまくいっている。着色も少しずつ進めているし発色も悪くない。きっと満足のいく仕上がりになるだろう。  アンドレアが絵を描くとき、それは考えに考えて捻りだす空間ではなく、世界ができたそのときから当然あったかのように結果が視界に浮かぶ。それをアンドレアは再現させるだけでいいのだ。  しかし今回はいつもの自分と違う。  その理由が何なのか思い当たらないのがもどかしい。  集中できない理由が分からず、焦燥ばかりが募る。もしかしたら、これが俗に言うスランプなのかもしれないとも思う。  様々な環境下で、アンドレアはひたすら絵を描き続けてきた。  生き甲斐であり愉しみであり慰めであり、絵を描くことを厄介に感じたことなど一度もない。むしろ胸につきあがる衝動を抑えきれずに、ただ無心に、夢中になって寝食も忘れて没頭する。アンドレアにとって絵を描くとは、生きる意味そのものだった。  しかし今はどのように、どこからどう手をつければいいのか分からない。  顔料を混ぜ、思い通りに着色を繰り返してゆく。その慣れた作業が酷く億劫でエネルギーの要ることに感じられる。  背中とこめかみに冷たい汗が流れた。 (寒い…)  ローマに来てから体調を崩してしまったのかもしれない。  繰り返す頭痛や食欲がわかないのも、そのせいだろう。  不意に、頭頂部にバットで一殴りされたような激痛が興った。 「あ――――!」  呼吸を忘れるほどの痛みだった。思わずその場に頽れ、膝をついて、両手でこめかみを押さえる。頭全体が心臓になったみたいにドクドクと鳴り響いた。  激痛に耐え切れず床に倒れた。  熱い涙が噴きだして全身から汗が湧きあがる。 (まただ…!)  手も足も、内臓さえ引き攣れを興し始める。一旦この発作が起きると、頭に矢が刺さるような痛みが続いてやりきれないのだ。  手足を丸め、できるだけ体を小さくしようとする。体を小さくしたとて頭痛が小さくなったりはしないのだが、しっかりと自分を自分で抱くことで少しは寒さが紛れる。 「サンティ様!」  折よくやってきたスフォルツァが床に蹲るアンドレアに気付き、駆け寄ってくる。  頭を押さえたままのアンドレアを抱えあげるも、その動きだけでアンドレアは脳みそをひっくり返されたような激痛に呻いた。 「う…!」 「頭痛ですね、可哀想に…!」  胸のポケットから痛み止めのカプセルを取り出す。このところ、頭痛のたびにアンドレアが飲んでいるものだ。アンドレアはがっつくようにそれを受けとり、飲み込んだ。 「寒いんだ」 「ええ。震えています、でも熱はないようです。ただいま、ベッドに」  スフォルツァは体重が減る一方のアンドレアの痩躯を抱え、簡易ベッドの寝具の上に寝かせる。アンドレアの乱れた髪を整え、寒くないように肩まで毛布を掛けてくれた。  新たな痛みに頭を押さえ、寝返りを打った。  それでも薬のおかげで、数分のうちには頭痛が収まってくる。  全身の震えもひき、アンドレアは感謝のまなざしをスフォルツァに向けた。 「ありがとう。その薬は、本当によく効きますね」 「そうでしょう。我々もお世話になっている薬です」  スフォルツァがほほえむ。  だが正直、アンドレアには納得がいかなかった。幼いころから病気などめったにしたことがない。ましてこんなに激しく頭が痛むなんて初めての経験だった。  何か悪い病気にでもかかっているのではないか、一度、ちゃんと検査をしてもらったほうがいいのかもしれない――――そうは思うのだが、正直、病院に行く気力がなかった。絵を描くことばかりか、何もかもが億劫な精神状態になってしまっているのだ。 「スフォルツァ。近いうちにどこかの病院で診てもらいたいのですが。少し不安だから」  体調管理も仕事のうちだという恩師の口癖を思いだした。そのためにもしっかりと診察してもらうべきだと、己に言い聞かせる。  スフォルツァが頷く。 「承知しました。エドアルド様にお伝えしておきましょう。我々のかかりつけ医もありますが、エドアルド様も主治医をお持ちですから、そちらを薦められるかもしれませんね」  穏やかに微笑する。アンドレアはしばし考えて答えた。 「城のほうには言わないでください。あなたがたのかかっている先生で、かまいません」  恋人の死に打ちひしがれているだろうエドアルドを、自分の頭痛などで煩わせたくなかった。  あのクリスマスの痛ましいニュースから、年が明けて二ヶ月ばかりが経つ。その間、アンドレアはエドアルドの姿を一度も見ていなかった。どうやらオステアにはいないようだ。エドアルドもまたそんなつらい時に自分のことなど思い出したくもないだろう。 「わかりました。では、明日にでも私がお連れいたしましょう」  彼はいつでもアンドレアの言い分どおりに受け入れてくれる。  アンドレアは今、このときも、スフォルツァを信じていた。

ともだちにシェアしよう!