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2-1.夜客
夜半、船着き場に停泊した客船は、寄せて返す波の動きに船体を揺らし、どこもひっそりと寝静まっていた。
舫 い綱の軋みのほか河浜 は静まり返り、夜気には潮の香りがふわりとまじっている。
月は雲の中であった。
その真っ暗な闇の中を、猛然とした人の姿が、濡れた桟橋をふっと一息で渡って行く。
肩を揺らして堂々とした姿。一足で風のように走り抜ける彼の靴は、美しい革靴だった。髪を高く結い上げ、衣服はまるで闇討ちでもするかのように黒い。その腰にはみすぼらしい短剣を一つ差している。
張界 だ。
夜中を待って小舟の中から這い出てくると、真っ直ぐ、潮だまりを眼前に望む絶壁のような楼上を睨み据えた。
虓台城 から北へ遡上し、城の跡地に隆盛する歓楽街、その盛り場の中心地、賭場。
いくつもの建物を切り貼りしたような歪な建物で、頭上に廊下を渡したような細い部屋が、間仕切りのように射し込まれ、交互に向きを変えて上へ上へと伸びている。
張界は城門を行き交う人の波を縫って抜け出し、楼閣の入り口にさしかかった。
「胴元の六客老 のところへ――」
黒い鋼の剣、玄刀を帯びる番人の腰から素早く剣を掠め取り、張界は男の耳元に囁いた。
「貴様――!」
異変を察した番兵がすぐさま応戦しようと駆けつけた。視界の端に数人の姿を認め、張界は目の前の男を締め上げると、その口の中に躊躇わず切っ先を宛がう。
ふっと匂やかに微笑み、耳を穿りながら顎を決る。
「六客老だ。まさか、知らないわけじゃないよな?」
「案内しよう」
すると、壮年の年の男が剣を後ろに回して現れた。
若い番兵たちは雁首を揃えてどうにも手出しができずに嫌気 を放っていたが、若者をおさえて前に現れた男の目色に闘争の意思はなく、むしろどこか張界に懐かしさを覚えている顔つきだ。
張界はこの男はどうやら自分を知っているようだと心底安堵した。
「助かるよ。ここは入り組んでるから、案内がないと迷うんだ」
ぽいっと剣を捨て、ぷらぷらと男の後ろに着いていく。
「実は何 家から剣を取り返し損ねて、身分を証明するものがなにもない。六客老は私を知っているはずだから話しはすぐに通じるだろ。お前たちが余計な真似さえしなければな」
「あなたが張家の次男、張界さまなら、ここを出る時は顔を隠された方が良い」
「顔を? どうしてコソコソそんな事をしなければならない?」
「あなたの手配書が回っています」
「いくらだ?」
「銀一千両」
ふんと張界は鼻を鳴らす。
「安いな。私をたった銀千両で捕まえるつもりなら構わないが、不名誉な結果に終わるぞ」
「そんなこと、しませんよ」
張界は博徒の烏合の衆を見下ろせる場所まで連れてこられた。
見下ろせる客は揃って千鳥足に酔い潰れ思い思いに叫んでいる。その騒々しさをまるでそよ風でも受けるように涼しく酒を嗜んでいるのは、顔を垂れ絹で覆った男だった。
「おっ、」
あいつだ、と張界は案内の男に軽く礼を伝え、狭苦しい通路の人を押しのけ気分良く近づいていく。
はっはっ、と忙しない犬のように気持ちが焦っていた。
張界はこの叔父がたまらなく大好きなのだ。
男の笠が張界に気づいて揺れる直前、張界はでんとその隣に腰を下ろす。
「六客老、私の酒も飲んでくれ」
酒瓶を手に張界は盃一杯になみなみとそそいだ。
「……っふ、張界、相変わらずだな」
若々しい声をしているが、手の筋を見ると人生も半ば、折り返しに来ている。
老いた顔を見られるのがいやで六客老は決して素顔を晒さない。その容貌はすっきりとした好漢だという噂だ。仕事でなければ張界は叔叔と甘えて心付けを強請るところである。
「先にお前が飲め」
「では、ありがたく」
張界はすっと美しく盃を持ち上げて一息に飲み干した。もっと欲しがるように喉を上下にならす張界を、六客老は垂れ絹の後ろで美味そうに見つめている。
「何をしに来た? 世間を随分、賑わしているようだな」
張界は唇を拭い、わくわくと身体を躍らせて酒を注ぐ。それを六客老の手に握らせて、さあさあとおだてた。
「林灰坡 に向かいたくて、舟を頼みに来たんだ」
「剣はどうした? 鍔を見せれば一目瞭然だろ。同輩を捕まえて案内させれば良い」
「取り戻し損ねたんだ。なあ、大爺 、私とあなたの仲だろ? 一度だけでいいから、私を舟に乗せてくれないかな」
「残念だよ、張界」
張界のおねだりにくく、と肩を揺らして笑っていた六客老が静かに言う。
「残念? ってどうして?」
張界は断れることはないと踏んでいたのもあって、一言であっさり断られたのに驚いた。
「いくら可愛いお前の頼みとはいえ、身分を明かせない者を林灰坡に連れて行くわけにはいかない」
「六客老も駄目なら、私はどうすればいい?」
「剣を取り返すか、かつて襲った屋敷や舟の残骸から、鍔を漁ってこい。持ってきたらお前を豪華な舟に乗せてやる」
やはり、この手は通じないか、と張界は息を吐く。
「仕方ない。潜りに行くか……」
さっと立ち上がる張界は忙しない。それをゆったりと六客老は引き留める。
「弟はどうした?」
「私は死んだことになってる。もし張盛 が私を尋ねてきても、知らないふりをしてくれ」
「孫のようなお前たちを前にすると、私はいらないことを喋りすぎるようだ」
「夢でも見たことにしてくれればいい。それじゃ、また来るから、舟を用意しておいてくれよ」
「ああ、分かったよ」
張界は案内に着こうとした男を断って、欄干からふわりと一階に下り立った。
潔癖な藍虧玉 を小舟の中で待たせている。収穫はなかったが、次の目的地は決まった。
賭場を出る間際、ふと、部屋の前に脱ぎ散らされた男女の衣服が目に付いた。それをさりげなくかき集めて、張界は河岸で待つ藍虧玉の嫌そうな顔を想像し、ふふ、と企み笑いが漏れるのだった。
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