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序幕

 三十路を越えても人生が続いているなんて、昔の自分に言っても信じないだろう。十五年前のあの夏の日に、死んでいたはずだった。  職場から地下鉄で四駅。都会の外れにひっそり佇む閑静な駅。この町に住み始めて、もう十年になる。  改札を抜け、階段を上がる。雨が降り始めていた。アスファルトを濡らす、ぬるい雨のにおいがする。   「……来てたのか」 「お前が濡れたらいけないと思って」    男がいた。赤い傘を差し掛けてくる。   「傘ならある」 「折り畳み? 濡れるじゃん」    ほら入れよ、と男は言う。大の男が二人、赤い傘を差して歩き始める。  この町に住んで十年。その前から、十五年前から、この男と二人で暮らしている。浦木哲司(うらきてつし)新谷伊依(しんたにいより)は、高校の同級生だった。   「しかしこの傘も丈夫だよな。ずっと使ってるけど、びくともしねぇ」    哲司が感心したように言った。  ここへ越してきてすぐの頃、突然の雨に降られて駆け込んだコンビニで、傘を盗んだ。まるで初めから自分のものだったかのように、傘立てから抜いて広げた。これで帰れるな、とずぶ濡れで笑った哲司の顔を、伊依は今でも思い出す。  八月の終わり。雷を伴う夕立。蝉の声も死に絶えて、雨音だけが世界を支配する。   「飯は」 「カレー。せっかくだし、追加でおかず買ってく?」 「この天気でか」 「商店街はこれからが本番だろ」    銀座などと大層な名前がついているが、地元の人間が日々の買い物を済ます程度にしか使われていない商店街。一部アーケードになっており、雨宿りのためにわかに活気づいていた。   「やっぱカレーにはメンチだろ」    コロッケでは物足りないが、カツでは重すぎるし値段が張る。そんな時、哲司は好んでメンチカツを買うのだった。他にポテトサラダとレンコンの胡麻和えを買い、帰路につく。雨は小降りになっていた。  哲司は配送ドライバーとして働いている。高校を卒業してすぐにアルバイトとして働き始め、二年後に正社員になり、それからずっと、同じ職場で働いている。一方の伊依は、何度かの転職を経て、現在の印刷会社に落ち着いた。ここへ越してきてからなので、ざっと十年は続いている。  二人で住んでいる、四階建てのマンション。出窓のある角部屋を選んだのは、伊依だった。2DKの部屋は、二人で住むには十分すぎるほど広い。多少無理をして契約したが、今となっては、家賃の支払いが滞るようなことはない。互いに大した給料ではないが、働き盛りが二馬力で稼いでいるのだ。経済的には豊かだった。  哲司がカレーを温める。エプロンをして、ゆっくりと鍋を掻き混ぜる。伊依と違い、哲司の休日は不定期だが、休みの日にはこうして、食事を作って待っていてくれることが多い。  伊依は、メンチカツをオーブントースターに入れる。雨が少し染みていた。焦げが付かないよう軽く温めながら、サラダとレンコンを器に盛る。  ハイボールを開け、何とはなしに乾杯する。一日の出来事を取り留めもなく話して──仕事がどうだったとか、野良猫を見たとか、そんな他愛もない話を──ふと視線を上げれば、哲司が頬を緩ませこちらを見つめている。伊依はスプーンを握り直した。   「お前のカレーは、いつも甘いな」 「伊依が好きって言ったんだろ。バーモントカレー甘口」 「次の日に食べたカレーうどんが旨かったから」 「明日の昼だな。ネギもあるし」    甘いのは、カレーのルーだけではない。哲司の瞳を見れば、何を思っているか分かる。今晩は、きっと抱かれる。  言葉にして取り決めたわけではないが、週に一度、セックスをする。それは大体金曜の夜だ。伊依の都合が優先されている。  二人で暮らし始めたばかりの頃、二十歳そこそこの若者だった頃は、片時さえも離れがたく、暇さえあればセックスしていた。今は、あの時ほどの焦燥がない。身を焦がすほどの、立っていられないほどの切迫感がない。  だからこそ、満たされていると思う。肉体を貪らなくても、愛されていると分かる。この十五年、自分の人生を生きている。  食事の後、リビングでテレビを見ていると、案の定、哲司が触れてきた。それはやがて、性的なにおいを伴う。息をするように口づけを交わす。  リビングで一度、ベッドでもう一度交わった。彼の汗のにおいに、いつの間にか安心するようになっていた。抱き合って眠り、すぐに夜明けが来る。  今日は珍しく休日が重なった。繁忙期を過ぎたらしく、哲司はこのところのんびりしている。伊依が、自分の分と合わせてコーヒーを淹れると、哲司は砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲んだ。うまいと呟く。何千回と聞いた声だった。  テレビをつける。朝のニュースがやっている。次のニュースです、とアナウンサーが原稿を読む。   「──県の山中で、死体が発見されました」    男性の遺体。死後十年以上が経過している模様。警察は身元を調べています。淡々とした機械的な音声が流れる。画面いっぱいに映っているのは、黒々とした故郷の風景。あの山に、十五年前の夏、人を殺して死体を埋めた。

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