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第一幕 十五年前の殺人 第一話 相性

 新谷伊依はいけ好かない男だ。初めて会った時から、哲司は彼が気に食わなかった。  入学式に出席せず、数日を過ぎて初めて教室に姿を現した伊依は、顔に大きな痣を作っていた。ガーゼを貼って隠すようなこともせず、堂々と痣を晒していた。聞き取りにくい声で名前だけ言って、自己紹介を終えた。当然、友達はできなかった。  初めてまともに話をしたのは、二学期に入ってからだった。席替えで隣になった。相変わらず、いけ好かないやつという印象だった。  伊依の瞳には、燃えるような怒りがある。世界に対する恨み、憎しみ、やり場のない怒りがある。それなのに、それら全てを表には出さない。世界の全てを見下したような態度で、冷たく笑う。彼のそんな態度が、哲司はどうしても気に食わなかった。  秋の風が吹き始める頃、殴り合いの喧嘩をした。教室の廊下側の窓が割れた。大きな破片がざっくりと刺さり、伊依の頭から血が噴き出した。女子生徒の悲鳴で、もう一枚窓が割れそうだった。  伊依は入院、哲司は一週間の停学処分となった。担任の教師に言われて、病院まで見舞いに行った。他には誰も、彼の家族さえ、一度も姿を見せなかった。   「謝らねぇぞ」    頭を包帯でぐるぐる巻かれた状態で、伊依は言った。どこか拗ねたような声だった。   「俺は謝ったぞ」 「怪我させたことについてだろ。おれが言ってんのは、喧嘩の原因の方だ」    教室で取っ組み合いの喧嘩になった原因は、どちらかと言えば伊依にあった。   「おれは本当のことを言ったまでだ」    自分が世界で一番不幸だとでも言いたげな、辛気臭ぇ面しやがって。恥ずかしくねぇのか。所詮は世間知らずの小僧のくせに、何を悟った気になってやがる。  伊依の言ったことは事実なのだろう。事実だからこそ、腹が立った。お前だって似たようなもんだろうがと思った。言葉より先に拳が出た。   「お前、一人暮らしなの」 「だったら何だ」 「……いや、同じだなと思って」    二年前、父が死んだ。働きすぎが祟り、ある朝ベッドで冷たくなっていた。母は、哲司が物心つく前に死んでいる。田舎に住む親戚に引き取られたが、同じ年頃の娘が二人いて、いきなり現れた親戚の男と一つ屋根の下で暮らすことを嫌がった。哲司は近所にアパートを借り、一人で暮らしている。家賃と学費は援助してもらっているが、生活費は自力で賄っている。父の遺産があったはずだが、今どれほど残っているのか分からない。  伊依は眉間に皺を寄せ、舌打ちをした。そのみっともない面をやめろと吐き捨てる。   「んな顔してたか」 「なに考えてんだか知らねぇが、こっちまで根暗が移る」 「てめぇ、言いたい放題言いやがってよ。入院中じゃなきゃ、一発殴ってやんのに」 「今年の春に祖母が死んだ。それきり一人だ」    伊依は布団を肩まで引き上げて、寝返りを打った。哲司に背を向け、そのまま喋らなくなった。  それから、何となく一緒にいるようになった。互いにクラスでは浮いていたし、そのことがより結び付きを強くした。  クリスマスの夜だった。空は晴れて、星影が冴えていた。バイト先の宅配ピザ屋は書き入れ時で、幸せいっぱいの家族やカップル、ただ騒ぎたいだけの若者集団まで幅広く、とにかく注文が殺到する。哲司は学校が終わるなり出勤し、赤いロゴの入った三輪バイクであちこちを駆けずり回った。ようやく配達を終えて帰路についた頃には、二十三時を回ろうとしていた。  上着のポケットに仕舞っていた携帯電話が鳴動する。一時は無視を決め込んだが、あまりにもしつこい。通勤通学に使っている原付バイクを路肩に停めて確認すると、伊依からの着信だった。電話に出てみれば、「おせぇ」と開口一番罵倒される。   「俺にも都合ってもんがあんだよ。なに?」    迎えに来てほしいと伊依は言った。下手に出てお願いするというよりは、タクシーでも呼ぶかのように哲司を呼び付けた。さすがに少し腹が立った。   「なんで俺が。便利な足扱いするんじゃねぇ」 「飯奢ってやる。ラーメンでいいか」 「……どこだよ」 「それが、よく分からねぇんだよな」 「方向音痴か? そんなんでよく俺を呼べたな」    市街地を抜け、ドライブをしていた。バイパスをしばらく走ったが、いきなり何もないところで降ろされた。港の方へ向かう途中だった。その程度の情報を手掛かりに、哲司はバイクを走らせた。決してラーメンに釣られたわけでは──いや、あくまでもラーメンに釣られたのだ。ようやく伊依を拾った時には、日付を越えそうになっていた。   「ったく、ツイてねぇぜ。クリスマスに野郎とラーメンとはよ」 「焼肉がよかったか」 「もう店やってねぇだろ。けどまぁ、やっぱチキンとケーキか。クリスマスっつったらな。ピザはもう見たくもねぇや」 「これも一応チキンだろ」    伊依は、鶏チャーシューを一枚箸で摘まみ、哲司のどんぶりへ投げて寄越した。油の玉が浮かぶ透明なスープに、ゆっくりと沈んでいく。   「素直じゃねぇな」    冷えた体が汗ばむほどに温かくなった。スープまで飲み干して店を出ると、夜空は一層冴え渡っていた。サンタクロースが星の間を飛んでいくのが見えた。  学年が上がり、また同じクラスになった。あのクリスマスの夜以降、伊依は度々哲司を呼び出した。終電を逃したから駅まで来い、というのはまだいい方で、町外れのラブホテルにまで迎えに行かされたこともある。  人目を避けるために辺鄙な場所に建てられているという理屈は分かるが、鬱蒼と茂った藪の中を原付バイクで走るのは、それなりに勇気が要った。テーマパークじみた建物と、安っぽいネオン装飾が闇の中に浮かび上がる。ヘッドライトに照らされて、門の前にうずくまっていた伊依が顔を上げる。大きな痣ができていた。  バイクの後ろに伊依を乗せる。彼女ができたら二人乗りがしたいという不純な動機で買った中古の110㏄バイクだが、ここに乗ったことがあるのはいまだに伊依だけだ。こんなことが何度も続くので、最近ではヘルメットを二つ持ち歩くようになってしまった。   「そろそろ理由を教えてくれてもいいんじゃねぇの」    ギアを上げ、アクセルを捻って加速しながら、哲司は言った。   「もうこれで何回目だよ。お前、何があってあんなとこに置き去りにされてるわけ」    荷台に掴まり姿勢を崩しながら、別にと伊依は答える。   「痛てぇだけで全然気持ちよくねぇこの粗チン野郎が、っつったら殴られた」 「はっ、そりゃ相手も怒るわ」 「向こうがしつこく聞いてくるのが悪いんだ。気持ちいいかどうだとか、オレのどこが好きとかな」 「答えてやりゃいいじゃん」 「嘘は言えねぇよ」    伊依はつまらなそうに鼻で笑った。   「なぁ、またラーメンでも行くか」 「また今度でいいや。ピザが半分くらい残ってて。お前食う?」    社員割引が効き、ピザでもポテトでもナゲットでも、全品半額で食べられる。バイトがある日の夕食は、大概これで済ませていた。  伊依を家に上げるのは初めてだった。木造アパート二階のワンルーム。玄関を開けるとすぐに狭いキッチンがあり、奥には洋室、薄汚れたカーペットに、畳み損ねた寝具が乱雑に折り重なっている。改めて見てみると、仮に彼女ができたとしても、とても女の子を呼べる部屋ではないと思う。  哲司は、テーブルに置きっぱなしになっていたピザの箱を開けた。伊依は一切れ手に取って、一口食べて箱に戻した。   「んだよ、食わねぇの」 「冷たいし硬い」 「しばらく置いといたからな。適当にレンチンしてこいよ。俺ァもう寝るぜ」 「チーズがゴムみてぇだ」    皺だらけの寝具を広げて、哲司はばたっと横になった。目を瞑ると、一気に眠気が押し寄せた。   「ったくよぉ、また一限遅刻だぜ。そろそろやべぇかな。なぁ、シャワー浴びてもいいけど、五分で終わらせろよ。ガス代もバカになんねぇんだ。あーあ、金かねカネだ。もう疲れたっての」    ふと、目元に影が差し、哲司は目を開けた。息のかかる距離に、伊依の顔が迫っていた。   「お前、まだ童貞か」    揶揄うわけでもなく、平坦な声で伊依は言った。   「まぁな。見りゃ分かるだろ」 「ああ、見るからに童貞だ」 「お前な」 「バイトばっかりで友達もいねぇ。女呼べる部屋でもねぇし、デートのための金もねぇ」    伊依は愉悦したように口元を歪める。唇が重なった。   「キスもまだか」    何も特別な意味などないように、もう一度唇が触れる。それが当たり前であるかのような、日常の延長線にあるキスだった。   「……トマトとチーズがファーストキスの味かよ」 「笑えるだろ」 「お前のギャグセン分かんねぇわぁ」    伊依は哲司の上へまたがった。もう一度キスをして、今度は舌が入ってきた。トマトとチーズとペパロニの味がした。はっきり言って、食べ飽きるほど食べている。新鮮味を感じないキスだった。  伊依が、性的な目的を伴って腰を揺らす。彼の尻の下で、哲司のペニスは緩く芯を持つ。   「やめろって」 「童貞捨てたくねぇか。後腐れなくて楽だぞ」 「いいって、そういうのは」 「男相手じゃ、ヤッたうちに入らねぇか」 「最初くらい、特別な相手とヤりてぇもん。何となくとかヤダ」 「……」    伊依はめっきり黙った。腰の動きをやめて起き上がり、冷えて固まったピザをもそもそ食べた。翌朝、哲司が目を覚ますと、部屋に伊依の姿はなかった。玄関の鍵は開けっ放しだった。

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