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第二話 罪

 伊依は学校をサボりがちになった。たまに来ても午後からで、授業中も居眠りしてばかりいる。酷い時には、一日中保健室にいたりする。  それでも、夜遊びの方はやめていないようだった。繁華街の方へ歩いていくところを見たとか、日曜の午前中から足を引きずって歩いているのを見たとか、クラスメイトが好き勝手に噂するのを、哲司は黙って聞いていた。このところ、伊依から呼び出しがかかることはなくなっていた。  男遊びをやめろなどと言うつもりはない。それをやめるか続けるかなんて、伊依の自由だ。それに、哲司が何を言ったところで、哲司の思い通りにはならないだろう。ただ、伊依が自分の世界に引きこもり、哲司の存在までも締め出そうとしていることには、腹が立っていた。  久しぶりに、伊依の家を訪れた。村外れの一軒家で、剥げた屋根の隙間からぺんぺん草が生えている。呼び鈴を鳴らすと、開いてる、とやる気のない声が窓の向こうから聞こえた。  日に焼けた畳の上に、伊依はだらりと寝転んでいた。扇風機がカタカタ回り、ぬるい風を送っている。   「忘れてるかもしんねぇけど、明後日から期末だぜ。試験だけでもちゃんと受けろって、堀センが」 「……覚えてる」 「ならいいけどよ。そろそろ出席日数やばいんじゃねぇの」 「ちゃんと計算してる。どっかのアホと違って」 「うるせぇな。俺だってちゃんと計算して休んでらぁ」    担任に頼まれたという体で話した。自分の意思で伊依の元を訪れたと知られるのは、恥の上塗りのように感じた。  冷蔵庫を開けても何もない。コップに水道水を汲んで飲んだ。うんざりするほどぬるかった。ヒグラシが鳴き始めていた。  またラーメンでも行くか、と伊依が言ったのは、夜も八時を回った頃だった。うとうとしていた哲司は顔を上げる。テーブルの上に広げるだけ広げた大学ノートは、まだ白紙のままだった。  梅雨明けにはまだ遠い。夜になっても、空気は重くじめついていた。汗ばむ肌に纏わり付いて、ひどく不快に感じた。だというのに、汗だくになってすするラーメンは、眠気が飛ぶほど旨かった。   「前に、この左目のこと、話したことがあったろう」    レンゲに麺をすくって冷ましながら、伊依は唐突に呟いた。ああ、と哲司は頷く。  伊依は、左目だけ視力が悪い。一時は失明寸前までいったらしい。現在は回復傾向にあるが、後遺症の飛蚊症が治らない。存在しないはずの影が、不意に視界を遮るのだという。それがどうにも気持ち悪いので、伸ばした前髪で自ら視界を遮っている。そんなに長くて邪魔じゃないのかと、以前哲司が尋ねた時に教えてくれた。   「これをやったのが、おれの初体験の相手だ」 「いくつン時」 「十一」 「ガキだな」 「ガキを殴りながらヤるのが好きな変態だった」    同情を引きたいわけではないだろう。淡々と事実を述べる。   「愛と言われりゃ信じたさ。他に何もなかったんだ」    まるで他人の過去でも語るような、平坦な声が痛ましかった。   「……俺はてっきり、俺がセックスを拒んだことで、お前が怒ってるもんかと」 「自惚れるなよ。セックスは嫌いだ」 「じゃあなんでセックスばっかりしてんだ」 「忘れないためだ」    ばっさりと言い切った。それ以外の理由などないという風に。   「お前にだって、分かるはずだ」 「……俺はむしろ、忘れたいよ」    母の顔を覚えていないこと。父が死んだこと。親戚に蔑ろにされていること。管理運用という名目で遺産を掠め取られたこと。父が過労で死ぬほど働いてまで遺してくれた財産を奪われたこと。  大切なもの全てを容赦なく奪っていく世界そのものに対する憎しみ、怒り、恨みが、哲司の中に渦巻いている。それでいて、どうすることもできない自分自身の無力さに打ちひしがれている。世の不条理に抗うことを諦めている。生温い絶望を、常に全身で感じている。  今になって分かった。どうして、一目会った時から、伊依のことが気に食わなかったのか。伊依を通して、弱い自分を見せられていたからだ。だから、無性に腹が立った。  傷だらけで藻掻き苦しみながら、何も感じていないふりをして、本当は生きることさえ諦めている。世界の全てを呪っている。そんな、弱くてちっぽけな哲司自身を抉り出す。伊依と哲司は、互いが互いの写し鏡だ。  帰りは少し遠回りをした。港へ回って工場の夜景でも見るかと、呑気に話していた。一台のタクシーとすれ違った時、伊依は突然声色を変えた。転回して今の車を追えと言う。   「なに」 「いいから飛ばせ」    きつくしがみつかれて苦しかった。伊依は車体から身を乗り出して、前を走るタクシーを目で追った。   「ははっ、こりゃ天啓だ。いつかこんな日が来るんじゃねぇかとは思っていたが、いや確かにこうなることをおれは望んでいたが、お前といるとツキが回ってくるらしい。話した甲斐があったってもんだぜ。あんなくだらねぇ昔話を、もう二度と口にするまいと思っていたのに」    上滑りな調子でやけに饒舌になる伊依を、哲司は不気味に感じた。もう一年近く一緒にいるのに、彼のこんな喋りは初めて聞いた。  信号が赤になる。渡る車も人もないのに、前を走る車は十字路で停止した。   「なぁ、俺は何を追いかけてんだ」 「さっき言った変態だ」    バイクが完全に停まるのを待たず、伊依は車体を蹴るようにして飛び降りた。信号が変わる前に急いでタクシーに駆け寄り、後部座席の窓を叩いた。  窓が開いて、男がちらりと顔を出す。伊依は大袈裟な手ぶりを交えて、男といくつか言葉を交わした。  信号が青に変わる。タクシーは発車しない。照らし出された伊依の横顔は、興奮したように赤らんでいた。見開いた瞳が爛々と輝いていた。  タクシーのドアが開いた。先に帰れとジェスチャーして、伊依は車に乗り込んだ。低い唸り声を上げ、排気ガスを撒き散らして、タクシーは走り去った。  闇の中にぽつりと取り残された。哲司はしばらく立ち尽くした。それから、沸々と怒りが湧いてきた。あの野郎、俺をこんなところへ置き去りにして、今頃はあの男とよろしくやってんのかよ。  結局ただの足代わりか。夜景を見に行くんじゃなかったのか。同じラーメンを食べたのに、同じ味を感じてはいなかったのか。明日は学校行ってもいいぜと、腹の立つ笑顔で言っていたのに、結局全部出まかせなのか。  そもそも、ガキ殴ってヤるのが趣味の変態と会って何になる。そいつのせいで、お前は左目を悪くしたんだろう。強い光を見ると、今でも目の奥が痛むんだろう。そのせいでお前は、大嫌いなセックスをして、男と寝てばかりいて、恨みを忘れないために──    そこまで考えて、ふと思った。それは最悪のシナリオだった。急いで携帯電話を開き、伊依にかける。電話は一向に繋がらなかった。  タクシーはどこへ向かったか。近場にラブホテルなどそうはない。前に伊依に呼ばれて迎えに行ったホテルを、しらみ潰しに回ってみる。あのタクシーとは一度もすれ違わなかった。  近隣の市まで出られていては探しようがない。電話はいつまでも繋がらない。雨が降り始めていた。  一か所だけ、探し忘れた場所があることに気がついた。哲司はバイクにまたがった。アクセルを回し、エンジンを唸らせて、雨の中をかっ飛ばす。  村外れの一軒家。剥げ落ちた屋根瓦に、大粒の雨が打ち付けている。ぺんぺん草が風に靡いて、今にも千切れそうである。  明かりはついていなかった。チャイムを鳴らそうとしてやめ、そっと玄関に手をかけた。鍵はかかっていなかった。  携帯のライトで足元を照らす。息を殺し、足元を忍ばせて廊下を進む。微かに光が漏れていた、寝室の襖をそっと開けた。  いやに白いベッドがあった。伊依は裸で、同じく裸になった男の上にまたがっていた。哲司に気づき、ゆっくりと振り向いた。恍惚と頬を染めていた。   「……やったのか」 「ああ。逝かせてやった」    伊依は、握りしめていたロープから手を放す。皮の弛んだ男の首に、ロープがきつく巻き付いている。   「……ずっと、そのつもりで」    幼い頃に流した血を、憎しみを忘れないために。いつかこの男を殺すために。全ての痛みや苦しみは、今日のためにあったのだ。伊依の言った言葉の意味を、哲司は真に理解した。  不気味な音が低く空気を震わせた。それが人の声だと分かるのに、時はかからなかった。男にはまだ息があった。男が拳を振り上げたのを、哲司は力いっぱい押さえ込んだ。やれよ、と言った声は、自分のものではないみたいだった。  人を、殺してしまった。白目を剥き、涎を垂らし、だらりと舌を突き出して動かなくなった男は、もう人ではない。ただの物だ。   「……どこに隠す」    哲司が言うと、裸のままで伊依は呟く。   「どこって」 「このままってわけにはいかねぇだろ。どっか、埋めるとか、バラバラにして、とか」 「……」    物置を探すと、農作業に使っていたらしいシャベルと、雪かき用らしいスコップが見つかった。どちらもひどく錆びていた。  死体をバイクで運ぶことにした。荷台に乗せて括り付けてから、哲司の体に固定した。男の首を絞めたロープが、哲司の体に巻き付いた。  死体を背負って、哲司はバイクを走らせた。背中に感じる重みは、確かに人間のものなのに、体温は人間のそれではない。冷たいというより無に近い。頬を打つ雨の方が温かかった。  しかし恐怖は感じなかった。不快だとも思わなかった。それよりも、死体を積んでいることがバレたらどうしようと、ただそればかりを考えた。幸い、たまにすれ違うのは大型のトラックばかり。悪天候も手伝って、誰にも呼び止められはしなかった。  国道から峠道に入り、未舗装の砂利道を無理して進み、藪の中に死体を隠した。来た道を急いで戻る。今度は伊依を乗せて山へ戻り、死体を埋めなくてはいけない。  家に帰ると、伊依は玄関の前にうずくまっていた。哲司が肩を掴んで揺さぶると、虚ろな目で見上げてきた。   「……哲司」 「しっかりしろよ。あいつ埋めて、全部なかったことにするんだ」 「……ぜんぶ、なかったことに……」    人を殺したショックのせいか、少しおかしくなっている。哲司が死体を積んでこの家を出た時にも、伊依は同じ場所で同じようにうずくまっていた。あれからずっと、そこでそうしていたのだろうか。  哲司は伊依を無理やり立たせ、雨合羽を被らせた。死体に被せていたものだが、他に替えがなかった。  死体を括り付けていた荷台に、今度は伊依を乗せる。背中に感じる重みは、確かに生きた人間のもの。温もりも、確かに伊依のものだった。こんなにも人の体温を近くに感じたのは初めてだった。  アスファルトに雨粒が打ち付ける。怒り狂って弾けている。水溜りに突っ込んで、何度かスリップしかかった。腰に回された伊依の両手が頼りなく、何度も握り直させた。  死体を隠した場所まで戻り、そこからさらに山奥へ進んだ。死後硬直が進行しており、死体は蠟人形のようになっていた。その分、運ぶのは容易かった。  なるべく平らな場所を見つけて、シャベルを突き立てた。穴を掘った。なるべく深く、大きい穴を。人一人入れるくらいの大きさになり、死体を蹴り落とした。穴の縁に首が引っかかり、変な方向へねじ曲がった。  不意に、伊依がシャベルを振り上げた。哲司が止める間もなかった。伊依は、それを思い切り振り下ろした。  ぐしゃり、と。スイカが割れるように、男の頭が割れた。もう二度、三度、伊依はシャベルを振り下ろした。脳がはみ出る。眼球が飛び出す。肉片と血の塊が噴き出して、伊依の白い合羽を染めた。それらを浴びながら、伊依はまたもシャベルを振り上げた。   「もう、いいだろ」    哲司は、振り上げた伊依の腕を掴む。   「もう、死んでる」    伊依はシャベルを取り落とした。ガシャンと耳障りな音がする。   「……あつい」    伊依は小さく呟いた。哲司の胸に倒れ込み、そのまま体重をかけて押し倒した。哲司の上にまたがって、唇を押し付ける。血とも泥ともつかない味に、哲司は顔を背けた。   「やめろよ」 「熱いんだ」 「そんな場合じゃねぇって」 「熱い、哲司」    再び唇が触れる。舌が絡む。雨が血泥を洗い流し、伊依の唾液の味がした。甘くはなく、少し苦くて、哲司は喉を鳴らして飲んだ。   「挿れてくれ」 「……うん」 「挿れて、哲司」 「いいよ」    伊依の手が震えていた。合羽は着たまま、哲司は伊依の下だけ脱がした。自身もズボンの前を寛げる。下着をずらし、ペニスを取り出して軽く扱いた。   「ほら、来いよ」    ガクガクと膝を震わせながら、伊依は哲司にまたがった。騎乗位で繋がった。哲司は童貞を喪失した。   「あっ、ああ……はあ、あっ……」    伊依は狂ったように腰をバウンドさせる。ビクン、と全身を弓なりに仰け反らせて痙攣し、深く息をついて哲司の体にもたれてくる。   「イけたな」 「もっと……」    哲司は伊依の尻を両手で掴んだ。下から突き上げるように腰を遣う。はらはらと顔の上に舞い散るのは、伊依の汗か、唾液か、それとも雨粒なのか、判断がつかなかった。生温い泥の擦れる感触が気持ちよかった。伊依の腹の一番奥に、出せる限りの精を放った。  気がつくと、空が白んでいた。大急ぎで死体を穴に押し込んで、土を被せて踏み固めた。伊依の白い雨合羽は、血が滲んで薄桃色に変色していた。

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